Chapter 1 of 8

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お父さん

林芙美子

僕はおとうさんが好きです。

おとうさんは、まるい顔をしています。このあいだ軍隊からかえってきました。僕は三年もおとうさんと会わなかったのです。おとうさんは、僕が寝ているうちにかえってきました。お土産に熊の仔を貰いました。熊の仔は、黒い木で刻んだものです。おとうさんは北海道に行つていたのです。

いつも僕は六時に起きて、妹や弟とおかあさんのお手伝いをするのですけれど、その朝は五時に起きました。だって、おかあさんが大きい声で、

「健ちゃん、おとうさんがかえっていらっしたからお起きなさいよ」

と、おっしゃいました。

僕はびっくりして飛び起きました。ほんとうにおとうさんはかえっていました。おとうさんは僕たちの寝床のそばに坐っていました。寝巻を着ていらっしたので、僕ははじめ、おやと思いました。おとうさんはいつも兵隊さんのはずだったがな、と思ったからです。

「やア、健坊、大きくなったなア」

おとうさんはそういってにこにこ笑っています。僕は飛び起きて「わあ」といいました。胸がどきどきしました。おとうさんがほんとうにかえってきたのだと思うと、うれしくてうれしくて仕方がありません。僕は、すぐとなりに寝ている静子と、宏ちゃんを起しました。

もう戦争がすんだから、おとうさんは兵隊に行かなくてもいいのです。

「ほんとうに戦争はすんだの」

と、僕がききますと、おとうさんは、

「ああほんとにすんだんだよ。先生は何とおっしゃったかい」

と、ききます。

「日本は戦争に敗けたんだって‥‥」

「そうだよ、だから、もう、おとうさんも戦争しないでいいのさ」

「戦争っていやですね」

「うん」

おとうさんは宏ちやんを抱きあげて、あごで宏ちやんの頭をぐりぐりやっています。

お蒲団をたたんでいらっしたおかあさんが、

「戦争ってきらいね」

と、おっしゃいました。僕のおかあさんは、いつも戦争ってきらいだ。きらいだとおっしゃっていました。だから、あんまりそんな事をひとにいうとしかられますよ、というと、おかあさんは、じっと僕を見て、涙ぐんでいうのです。

「健ちゃんは、いい子になって下さいね。人にも自分にもうそをいわない、正直な、いい人になって下さいね。――健ちゃんは戦争が好きなの?」っておっしゃいます。

僕は、戦争のことってよく知らないのだけれど、何処へ行っても米英を敵だ、というので、僕はわるい国はいやだと思っていました。第一、毎日B29が、たくさんのお家を焼きにくるので、こわい国だと思つていました。

戦争がすむと、急にのんびりして、夜もお寝巻で朝までぐっすり寝られるし、宏ちゃんもおびえて泣かなくなりました。

「健ちゃんが大きくなったら、戦争なんかしないで下さいね。戦争があると、みんながくるしむのよ。くるしんだ上に、たくさんの人が死んでしまうのよ。その上、東京だってこんなに焼けてしまって、みんな住むお家もなくて困るでしょう」

とおかあさんがおっしゃいました。僕は焼野原になった東京を見るとかなしいのです。僕のお友達のお家も、ずいぶん焼けました。空襲があるたび、僕はおかあさんと静子と宏ちゃんといつもお家の壕にいました。いっぺん僕のお家の庭に焼夷弾が落ちました。おかあさんは、すぐ消しに行かれました。ぱあっと光が射して、あたりはまるで大雨のような音がしました。

おかあさん逃げましょうといいますと、おかあさんは「いいのよ、いいのよ、こうしていましょう。逃げて煙に巻かれると、かえっていけないからね」とおっしゃいました。

あの時のことをいろいろ思い出すと、まるで夢のようです。僕のおかあさんはとても元気でした。僕が泣きだすとおかあさんはとてもひどくおしかりになりました。

おとうさんがかえっていらっしゃって、僕たちはみんな元気になりました。おとうさんもたのしいのでしょう、よく口笛を吹きます。僕も、おとうさんのまねをして、口笛を吹くことが上手になりました。おとうさんがかえっていらっして二三日してからのことです。あんまりお天気がいいので、麻布の要さんの家へ行くことにしました。要さんは中学生です。要さんのおとうさんは、僕のおとうさんの一番上のにいさんです。僕たちを一番かわいがってくれます。このおじさんは早くから僕たちに田舎へ行きなさいといっていましたが、おじさんたちもとうとう東京にがんばってしまいました。おじさんのお家は麻布の区役所のそばだったので、焼けていまはバラックに住んでいます。

僕と静子はおべんとうをしてもらって、小さいリュックに入れて行くことになりました。おべんとうはおにぎり一つ、それから、むしパン一つ、それから、小さいおみかん一つ、僕は麻布へ行くまでにおにぎりやむしパンがつぶれないといいと思いました。

日曜なので、電車は満員です。目白の駅で金井君に会いました。金井君は、おねえさんと千葉へおいもを買いに行くのだといっていました。金井君のおとうさんはマニラで戦死をされたのです。金井君は、とてもいいひとです。人のいやがることを何でもします。お家がまずしいので上の学校には行かないのだそうですけれど、とても頭がよくて、先生も、大変ほめていらっしゃいました。英語の会話なんかとてもうまくなっていて、もうれつに勉強します。大きくなったら天文学者になりたいといっていました。

僕たちの組のものも、もう昔のように、大将になりたいなんて誰もいわなくなりました。僕だってほんとうは飛行家になりたいと思っていましたけれど、僕はもうあきらめてしまいました。僕はいまのところ何になっていいのかすこしもわかりません。

要さんのお家へついたのは、お昼ちかくでした。要さんは屋根の手入をしていました。おばさんは畑をしていたし、年子ねえさんはごはんのしたくをしていました。

「やア、珍らしい、目白の健ちゃんがきましたよ」

おばさんがにこにこして畑をやめて、門のところへ歩いてきました。

要さんも屋根から降りてきました。

「健ちゃん、おとうさんかえって来ていいね」

要さんがそういいました。要さんの上のにいさんの良次さんはいまスマトラです。次の兼三さんが満州で、みんなまだ戻ってこられないのです。要さんは元気そうでした。

「おじさんはお留守ですか」

僕がたずねると、おじさんは家を建てることについて、知りあいの家へ相談に行かれたのだそうです。

おとうさんとおばさんは、要さんのにいさんたちがいつごろかえれるだろうという話をしています。僕と静子は要さんとお庭の石どうろうのそばへ行って、日向ぼっこをしました。

アメリカの飛行機がひくく飛んでいます。銀色にぴかぴか光ってきれいです。アメリカの飛行機は、大きくてきれいです。こんな天気に飛んでいる人は、とても気持がいいだろうなア、と思いました。アメリカの兵隊さんをはじめて見た時、僕はびっくりしました。みんな大きくてゆくわいそうです。僕たちはどうしたらいいかとまごまごしていたら、近よってきたアメリカの兵隊さんは、ネバマイン、ネバマインといいました。そして僕の肩を軽くたたいて行きました。

要さんは、昨日小田原に行ったのだとて、僕と静子にみかんを持ってきてくれました。みかんってどうしてこんなにきれいなのでしょう。いいにおいね、と静子がいいます。あんまりきれいなので、むくのがおしいくらいでした。

「英語でミカンってなんていうの」

要さんにききますと、中学生の要さんは、いかにも得意そうに、

「オレンヂというんだろう」

と、いいました。

「ぢゃア、兵隊ってなんていうの」

「ソルヂャァだったかな」

年子ねえさんがごはんを知らせに来ましたので、私たちはお家にはいってちゃぶ台の前に坐りました。壁がぬってないので、寒くなったら困るだろうと思います。おふとんや道具がいっぱい積んである処へ、おとうさんはもたれて、煙草を吸っています。僕たちがおべんとうを出しますと、おばさんはくすくす笑って、

「義理がたいことねえ、――昔のことを考えると、いまの子供たちはふびんだわ」

とおっしゃいました。

僕はおばさんのいうような、僕たちがふびんだなんてすこしも思わない。先生だっておっしゃったのだもの。いまの子どもたちはいちばんこれからいい人になるって、敗けたのはいいことだって、これからほんとうの気持でやりなおして、たのしい国になるんだっておっしゃったのをおぼえている。

「荘吾さんは、これからどうするんですの?」

荘吾というのは、僕のおとうさんの名前です。おとうさんは「そうですね」といって、もう「会社員なんかいやになったから、田舎へ引っこんで百姓でもしようかと思ってますがね」といいました。

「だって、しろうとがすぐ百姓になれるかしら、第一、土地だってないでしょうしね。田舎もいまはおじいさんもなくなられたし、どうにもしかたがないことよ」

おばさんは、僕たちにいもをむしてくれました。

僕は、おとうさんの心ぼそい顔をはじめてみました。おとうさんは、沈んだようにみえました。僕は、何となくさみしくなったので、要さんに、

「いもって英語でなんていうの?」

とききました。

「ポテトさ」

とおしえてくれました。

「ぢやア、家は」

「家はハウスさ」

「ぢやア」

「ずいぶんきくんだなア」

要さんが笑い出しました。年子ねえさんがラジオをかけました。とてもうきうきするような音楽です。

「全く、世の中が変りましたね」

おとうさんがそういいました。

「ほんとうに。でも、気持だけでもこのほうがたのしいぢやアありませんか、もうめんどうくさい話ってあきあきしていますよ。馬鹿な戦争をよくも長くつづけたものですよ」

「いいところで終戦になって、ほっとしましたね。でも、良ちゃんや兼ちゃんがどうなっているか心配ですね」

「三年も四年も待つなんてつらいし、親の身にもなって下さいよ。これこそつまらない運命ですよ」

おばさんははほろりとしています。僕は又英語を持ち出しました。

「要さん、歌ってどういうの」

「ソングさ」

「ソングって人の名前みたいね」

静子がおもしろいことをいいます。

「おとうさんってフアザアっていうのよ」

静子が知ったかぶりでいうと、みんなおとうさんの方をみて笑いました。おとうさんも白い歯をみせて笑いました。僕は何だかおとうさんの、このときの笑った顔を忘れることが出来ません。

「子供があるから、私たちすくわれるのよ、子供って花束みたいなものね。にぎやかでいいわ」

「こいつたちがいるから安子も今日まで一しょうけんめい生きていたのだといってますよ」

安子というのは僕のおかあさんの名前です。

僕のおとうさんは、とてもお話が上手です。おとうさんは自分で話をつくって僕たちに話してくれます。

――あるところに豚と鶏がいて、ふたりはとても仲よしでした。鶏はいつも豚のそばで餌をついばんでいました。夜になってお月様の出るのがいちばん好きでした。豚はお月様が出る夜だと、ひとりできもちよさそうに唄をうたいました。

それはこんな唄です。

お月様

わたしはきばがほしいのです

いのししになって

お山のなかの森のふかいところへ

わたしのおうちをつくりたいのです

森のけものが

みんなでわたしをうやまうように

わたしに大きいきばを下さい

わたしは山の大将になりたいのです

いのししはつよいです

わたしはいのししになりたいのです

豚はお月様にこんなおねがいごとをしました。豚はとうとういのししになりました。いのししになると、急におなかが空いてしかたがないのです。自分のそばでよくねんねしている鶏のひよこを食べようかと思いました。鶏とは大変仲がよかったけれど、もういのししになったのですから、豚は何となくいばってみたくて鶏を起しました。

「おいおい鶏さん起きないか」

「あら、もう夜があけたのですか、豚さん」

「まだ夜中だよ、いいお月様だよ」

「あああかるいのはお月様のせいですか」

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