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海に生くる人々
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海に生くる人々
葉山嘉樹
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 8 of 33

8

白水がその重々しい論調で、肋骨の間から、心臓を目がけて、錐でも刺すように話していると、相手の後明は、最初はいやに横柄ぶって、虚勢を張っていたんだが、しまいには、おそろしくなったらしいんだ。

『しかし、私はまだ、馘首するとも退職せよともいいはしないんですよ。ただそれは例のないこった、今まではこういう仕来たりであったといったまでですよ』と、その千枚張りの面の上に油をかけやがるんだ。

『悪い例なら破ったらどうだというんだ。旧来の陋習を破ったらどうだというんだ。一切合切を前例に守っていたら、人間はいまだに、人間の肉を食って、生活しなければならないんだ。まだ人間が人間の肉を食っているんだが、それがなくなるためには、あらゆる旧来の陋習が破らるべきなんだ。ことに法律でさえ保障しているような範囲内にまで、労働者を搾取し劫略することは、明らかに人間嗜食の一形式だ』白水はますます彼の錐をもみ込んで行った。

『いや、君のように興奮しちゃ困りますよ。そういうお気の毒な事情ならお払いするようにしましょうが、何しろ前例のないことですから、一度重役まで伺って見なければなりませんが、今すぐでなければいけないんですかね』と白水にいって、

『オイ、どうだい、すぐいるのかい』と、哀れな切り株にきいた。

『もちろんすぐです。今日はもう三日後になってるんだから、おくれてるんですぜ』と、白水は、その切り株があわてて、ヘマな返事をすることだろうと思って、引き取って答えた。

『それじゃお話しして来ますからしばらく待っててくれたまえ』といい残して、バリカンでいたずらに毛をきられたむく犬のような格好で、後明人事係は出て行ったんだ。

長いこと待たせて後明は帰って来て、紙っ切れを渡して、

『それへ金額を書いてください、そして、その金額は向こう三か月間に分割して、収入から差し引いて積み立てますから、そのつもりでいてください』と抜かしやがったんだ。

『何をこのむく犬め』と、白水はいきなり怒鳴りつけて、そこにあった椅子を振り上げかけたが、切り株が止めた。

『へえ、ありがとうごぜえます。今さえ助かりゃ、あとは三月で間違いなくお返しいたしますから』と、一方で白水を引っぱりながら、一方で後明に、承知をした上、ご丁寧なお辞儀を一つしたんだ。

『へえ、何に、今の都合がつきゃあとはまた、まっ黒になってかせぎますから』と白水にいったんだ。

その事件があって後の白水は、会社側からはなはだしく忌みきらわれた。そして白水の馘首が事務員から、重役の問題にまで進んだんだ。

この家屋浸水事件後、僕と白水その他の多数の兄弟たちが、A工場に対して、N市における最初の大規模な応戦を試みて、全部が、見事に陣頭に倒れ、おまけに僕と白水とほかに四人の兄弟が、その争議のため、牢獄の赤い煉瓦塀をくぐることになったんだ。それは九月の末ごろであったろう。A工場の労働者たちは、切り株浸水事件の後に、白水が積善会の積立金の会計報告等が一切ないことを鳴らし、かつ工場の扶助規則や未成年労働者使用等、規則違反が多いことなどを表面の理由として、資本家階級の間に、どんな策戦があるか探りを入れ始めたんだ。N市は地方色的に利己的なところであった。そのために争議も、一種の地方色を持っていたのだが、僕らは、最初の日の示威運動がすむとすぐに警察へ引っぱられ、そのまま、未決監へ送られたので、争議の経過は、まるで知らなかったんだ。だが、僕らが警察へ検束された翌日、ドシャ降りの雨の中を、A工場の兄弟たち千人が、警察へ示威運動に来て、警察へ委員を送って検束の理由を聞く一方労働者軍は、雨の中でその響きと和して革命歌を合唱してくれた時は、僕ら五人は中で思わず革命歌に合唱したんだ。そして、その日の夕方、その日の示威運動をリードした鈴木君が、はだしで引っぱって来られたんだ。

僕らは、警察から検事局、検事局から未決監、予審と、順を追うて進むべき道を進んだんだ。そして、そこへ送られた五人の初犯囚は、警察の恐るべきでないと知ったごとく、****なるべきでないことをまた知るに至ったのであった。その争議は、N市に永久に、無産者運動を据えつける基礎になった。

そして、その刑を終えると、同志はそれぞれ袂を分かって、他の都会へ散って行ったんだ。そして、僕だけはこうして船乗りになっているんだ。白水は今はどこで活動してるだろうと、よく僕は思うんだ。船における戦闘は、陸上とは全然趣を異にすることが、このごろ僕にはわかって来始めた。僕らは、百人分の米を作って、自分は飢え、千人分の布を織って自分は凍えたり、大建築を建てて自分は行きだおれしたりするような労働者の地位を全く改めうるまでは、不断の闘争が必要なんだ。そしてその時は必ず来るんだ。当然来るべきよきものを迎えないという法はない。われわれはそれの来るまで迎えるんだ」

ストキはポケットから煙草をとり出して火をつけた。

「波田君、僕の話がいや味になりやしなかったかい。うんざりしちゃったろうね」

「いいや、おもしろかった。僕は、君らが経験した監獄の話を聞きたいんだ」

「監獄の! 監獄の話は単調なものだ。単調無為という苦痛だけさ。社会では、僕らの生命はそれを顧みる暇のないほど多忙に搾取され、その溝だまりに投げ込まれるが、監獄では、ただじっとそれを見詰めるというだけのものだ」藤原は、静かにデッキへ出て行った。

「さあ、それじゃ、僕は昼食のしたくをしなきゃ」といって、波田は、コック部屋へと出て行った。

デッキでは、藤原は、波よけにもたれて、荒涼たる本州北部の風光に見入っていた。

一四

わが万寿丸は、三日間の道を歩んで、その夜十一時ごろ横浜港外へ仮泊するはずだった。船は勝浦沖を通った。浦賀沖を通った。やがて横浜港の明るい灯が見え初めるであろう。

横浜は、水夫ら、火夫らの乳房であった。それを待ちあぐむ船員の心は、放免の前日における囚人の心にも似ていた。

東京湾の波浪も、太平洋の余波と合して高かった。梅雨上がりの、田舎道に蟇の子が、踏みつぶさねば歩けないほど出るのと同じように、沢山出ているはずの帆船や漁船は一艘もいなかった。観音崎の燈台、浦賀、横須賀などの燈台や燈火が痛そうにまたたいているだけであった。しけのにおいが暗の中を漂っていた。落伍した雲の一団が全速力で追っかけていた。

それでも、もう本船が、酔っぱらいのように動揺する。というようなことはなかった。本牧の燈台をながめて、港口標光を前にながめながら、わが万寿丸は横浜港外に明朝検疫までを仮泊した。三千トンの重さと大きさとの、怪獣のうなりにも似た轟音と共に錨は投げられた。船はその動揺を止めた。

一時に一切が静かになった。一切の興奮と緊張とが、一時に沈静した。

「一切は明日なんだ。明日は幸福と解放の一切なんだ」とだれもが安心したのだ。

水夫らは、船首上甲板に立っていたが、錨が投げられると共に、その各の巣へ飛び込み始めた。先頭の波田がタラップをおり切らぬうちに、ボースンは怒鳴った。

「オーイ、これからサンパンをおろすんだぞ」

あたかも強い電波にでも打たれたように水夫たちはこの言葉に打たれた。

岩見武勇伝に出て来る鎮守の神――その正体は狒々である――の生贄として、白羽の矢を立てられはせぬかと、戦々兢々たる娘、及び娘を持てる親たちのような恐れと、哀れとを、水夫たちは一様に感じた。これは、夜横浜に着いたが最後必ず起こる現象であった。そしてまた、船長はいやでもおうでも夜横浜へつくように命令するのであった。朝着きそうな予定のときだけが、その通りに入港した。その他は必ず夜着くように犬吠沖か、勝浦沖かで彼女は散歩を強制せられるのであった。

古今共に狒々が、出るためには、夜を選ぶのであった。そして、悲しむべきことは、わが万寿丸に岩見重太郎が乗り合わせていないことであった。十一時、サンパンは、その非常に危険な怒濤の中におろされなければならなかった。二人の漕ぎ手が、水夫の中からつかみ出されなければならなかった。

この漕ぎ手に白羽の矢が立ったのは、鰹船で鍛え上げた三上と、舵取りの小倉とであった。三上は低能であった。小倉はおとなしかった。白羽の矢は、岩見武勇伝の場合と違って、大抵この二人に、恒例として当たるのであった。

二人の漕ぎ手は、一里余の暗黒の海上を、サンパン止め――暴風雨にて港内通船危険につき港務課より一切の小舟通行を禁止する――の暴化を冒して、船長を日本波止場まで、「秘密」に送りつけねばならぬのであった。

船長は、「秘密」で、上陸して、その家庭へ帰るのであった。そして、その翌朝、「秘密」に、ランチで本船へ帰って、それから、「公然」入港するという手順になっていたのである。

それらの面倒で危険な、一人のために何にも関係のない、もう二人の人間の生命を、危険に向かって暴露する。この「秘密」の冒険で、船長は十時間、あるいはもっと少なく八時間だけ、家庭における人となりうるのであった。

船長は、船長室でしたくをしていた。彼は、彼の家庭についてだけ抱きうる、彼の思想を、この船に対する他のあらゆる思想と、全然区別していた。彼は、「秘密」の彼の上陸の前には、対内的にのみ、船長から、人間に変わるのであった。彼は何もかもが、一切合切、妻のこと、子供のこと、その他で持ち切っていた。ことに、妻のことでは、彼は、「やきもち」をやいていたのであった。

彼はトランクに種々のものを押し込んだ。そしてはまた出した。そしてため息をついた。「サンパンの準備は何だってこんなに手間取るんだ! わかり切ったことじゃないか、一度や二度のことじゃあるまいし、チェッ!」だが、彼は、まだ催促については我慢していた。そして彼は自分の室を見回した。

船内において一番きれいな、広い、凝った、便利な室ではあった。が、彼にとってそれは、ビール箱の内側であった。それはすこしも愉快なものではなかった。それはかわいた荒蓆のように、彼の神経を埃っぽく、もやもやさせた。

ボーイがコーヒーを持って来た。

「まだ、したくはできないか、ボースンを呼べ!」と彼は、ボーイに命じた。そして、ボーイに対しても腹を立てた。「チョッ! こんな気の抜けたコーヒーを持って来やがって、コーヒーの保存法も知らないんだ、やつらは」彼は、煮えつくようなコーヒーにのどをうるおした。

「ソーッと、出し抜けに、おれは帰らなきゃならん。自動車は家へ知れないくらいのところで、帰してしまわなくちゃ、そして……」船長は、絶えず妻にやきもちを焼いた。そして、彼も、それほど妻を愛してはいないことを、誇示するつもりで寄港地ごとに遊郭に行った。そこではよく、水夫と一つ女を買い当てたものだ!

それは、全くおもしろい、こっけいな、喜劇の一幕を演ずるのだが、今は、サンパンが用意されようとしている。

一五

水夫らは、ともの、三番のウインチに二人ついた。ボートデッキに二人、各のロープについた。そして波田は、サンパンに乗った。それをタラップまで回航するためであった。かわいそうなドンキーは、また機関室へはいって、蒸気をウインチへ送らねばならなかった。火夫も火口に待っていねばならなかった。

綱は少しずつ繰り延べられた。それは板の上へおろされるのであるならば、サンパンにかかっている鉤を、綱がゆるんだ時にはずしさえすれば、サンパンはそこに立派にすわっているのだが、それが波――ことにその夜のごとく、大きく鼓動している時――に向かっておろされる場合は、非常に困難であった。波の絶頂に上がった時に、一方の鉤だけをはずすならば次の瞬間には、そのサンパンは鮭のようにつるされているだろう。それが、波の最低部にまでおろされることは、不可能であった。鉤がはずれるであろう。もし鉤がはずれなければ、本船のどてっ腹へその頭か、またはひよわいその腹を打っつけて、砕けてしまうだろう。

ボートデッキで綱の操作をしている二人の水夫も、伝馬の中にあって、しっかり、鉤のはずれないように握った、波田も字義どおりに「一生懸命」であった。波は、本船の船腹を蛇の泳ぐように、最高と最低との差を三間ぐらいに、うねりくねっていた。

Chapter 8 of 33
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