Chapter 1 of 20

飛行機雲

大学病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見ていた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢いに行った。その頃と変って今では病院の壁も黒く迷彩が施されてはいるが、その方へ行くとやはり懐しいものが残っていそうで……しかし、私がもう此処を訪れるのも今日をかぎりにそう滅多にあるまい。玄関ではもう穿き替えの草履を呉れないことになっていた、これも、以前と変ったことがらである。私は川島先生に逢って、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行った。

翌日、新聞に飛行機雲の写真が出ていた。さては昨日見た雲は飛行機雲というものなのかとひとり頷いたが、仮りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑ったかもしれないのだ。

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