Back
十三夜
Table of Contents
十三夜
樋口一葉
Reading Settings
Font size
18px
Theme
Light
Dark
Sepia
Eye care
Line spacing
Reading mode
Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 2

下

さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえだえに物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下りなすつてと突然にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿関は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つておくれ、こんな淋しい処では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚図らずに行つておくれと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひですどうぞお下りなすつて、もう引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに、それではお前加減でも悪るいか、まあどうしたと言ふ訳、此処まで挽いて来て厭やに成つたでは済むまいがねと声に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もうどうでも厭やに成つたのですからとて提燈を持しまま不図脇へのがれて、お前は我ままの車夫さんだね、それならば約定の処までとは言ひませぬ、代りのある処まで行つてくれればそれでよし、代はやるほどに何処か処らまで、切めて広小路までは行つておくれと優しい声にすかす様にいへば、なるほど若いお方ではありこの淋しい処へおろされては定めしお困りなさりませう、これは私が悪う御座りました、ではお乗せ申ませう、お供を致しませう、さぞお驚きなさりましたろうとて悪者らしくもなく提燈を持かゆるに、お関もはじめて胸をなで、心丈夫に車夫の顔を見れば二十五六の色黒く、小男の痩せぎす、あ、月に背けたあの顔が誰れやらで有つた、誰れやらに似てゐると人の名も咽元まで転がりながら、もしやお前さんはと我知らず声をかけるに、ゑ、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんはあのお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘るやうに下りてつくづくと打まもれば、貴嬢は斎藤の阿関さん、面目も無いこんな姿で、背後に目が無ければ何の気もつかずにいました、それでも音声にも心づくべき筈なるに、私は余程の鈍に成りましたと下を向いて身を恥れば、阿関は頭の先より爪先まで眺めていゑいゑ私だとて往来で行逢ふた位ではよもや貴君と気は付きますまい、唯た今の先までも知らぬ他人の車夫さんとのみ思ふてゐましたに御存じないは当然、勿体ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時からこんな業して、よくそのか弱い身に障りもしませぬか、伯母さんが田舎へ引取られてお出なされて、小川町のお店をお廃めなされたといふ噂は他処ながら聞いてもゐましたれど、私も昔しの身でなければ種々と障る事があつてな、お尋ね申すは更なること手紙あげる事も成ませんかつた、今は何処に家を持つて、お内儀さんも御健勝か、小児のも出来てか、今も私は折ふし小川町の勧工場見物に行まする度々、旧のお店がそつくりそのまま同じ烟草店の能登やといふに成つてゐまするを、何時通つても覗かれて、ああ高坂の録さんが子供であつたころ、学校の行返りに寄つては巻烟草のこぼれを貰ふて、生意気らしう吸立てた物なれど、今は何処に何をして、気の優しい方なればこんなむづかしい世にどのやうの世渡りをしてお出ならうか、それも心にかかりまして、実家へ行く度に御様子を、もし知つてもゐるかと聞いては見まするけれど、猿楽町を離れたのは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、どんなにお懐しう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐふて、お恥かしい身に落まして今は家と言ふ物も御座りませぬ、寐処は浅草町の安宿、村田といふが二階に転がつて、気に向ひた時は今夜のやうに遅くまで挽く事もありまするし、厭やと思へば日がな一日ごろごろとして烟のやうに暮してゐまする、貴嬢は相変らずの美くしさ、奥様にお成りなされたと聞いた時からそれでも一度は拝む事が出来るか、一生の内に又お言葉を交はす事が出来るかと夢のやうに願ふてゐました、今日までは入用のない命と捨て物に取あつかふてゐましたけれど命があればこその御対面、ああ宜く私を高坂の録之助と覚えてゐて下さりました、辱なう御座りますと下を向くに、阿関はさめざめとして誰れも憂き世に一人と思ふて下さるな。

してお内儀さんはと阿関の問へば、御存じで御座りましよ筋向ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好がどうだとか言ふて世間の人は暗雲に褒めたてた女で御座ります、私が如何にも放蕩をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふべき頃に貰ふ物を貰はぬからだと親類の中の解らずやが勘違ひして、あれならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰へと無茶苦茶に進めたてる五月蠅さ、どうなりと成れ、成れ、勝手に成れとてあれを家へ迎へたは丁度貴嬢が御懐妊だと聞ました時分の事、一年目には私が処にもお目出たうを他人からは言はれて、犬張子や風車を並べたてる様に成りましたれど、何のそんな事で私が放蕩のやむ事か、人は顔の好い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら気が改まるかとも思ふてゐたのであらうなれど、たとへ小町と西施と手を引いて来て、衣通姫が舞ひを舞つて見せてくれても私の放蕩は直らぬ事に極めて置いたを、何で乳くさい子供の顔見て発心が出来ませう、遊んで遊んで遊び抜いて、呑んで呑んで呑み尽して、家も稼業もそつち除けに箸一本もたぬやうに成つたは一昨々年、お袋は田舎へ嫁入つた姉の処に引取つて貰ひまするし、女房は子をつけて実家へ戻したまま音信不通、女の子ではあり惜しいとも何とも思ひはしませぬけれど、その子も昨年の暮チプスに懸つて死んださうに聞ました、女はませな物ではあり、死ぬ際には定めし父様とか何とか言ふたので御座りましよう、今年居れば五つになるので御座りました、何のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。

男はうす淋しき顔に笑みを浮べて貴嬢といふ事も知りませぬので、飛んだ我ままの不調法、さ、お乗りなされ、お供をしまする、さぞ不意でお驚きなさりましたろう、車を挽くと言ふも名ばかり、何が楽しみに轅棒をにぎつて、何が望みに牛馬の真似をする、銭を貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何もかも悉皆厭やで、お客様を乗せやうが空車の時だらうが嫌やとなると用捨なく嫌やに成まする、呆れはてる我まま男、愛想が尽きるでは有りませぬか、さ、お乗りなされ、お供をしますと進められて、あれ知らぬ中は仕方もなし、知つて其車に乗れます物か、それでもこんな淋しい処を一人ゆくは心細いほどに、広小路へ出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行ませうとてお関は小褄少し引あげて、ぬり下駄のおとこれも淋しげなり。

昔の友といふ中にもこれは忘られぬ由縁のある人、小川町の高坂とて小奇麗な烟草屋の一人息子、今はこの様に色も黒く見られぬ男になつてはゐれども、世にある頃の唐桟ぞろひに小気の利いた前だれがけ、お世辞も上手、愛敬もありて、年の行かぬやうにも無い、父親の居た時よりは却つて店が賑やかなと評判された利口らしい人の、さてもさてもの替り様、我身が嫁入りの噂聞え初た頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂の息子はまるで人間が変つたやうな、魔でもさしたか、祟りでもあるか、よもや只事では無いとその頃に聞きしが、今宵見れば如何にも浅ましい身の有様、木賃泊りに居なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私はこの人に思はれて、十二の年より十七まで明暮れ顔を合せる毎に行々はあの店の彼処へ座つて、新聞見ながら商ひするのと思ふてもゐたれど、量らぬ人に縁の定まりて、親々の言ふ事なれば何の異存を入られやう、烟草屋の録さんにはと思へどそれはほんの子供ごころ、先方からも口へ出して言ふた事はなし、此方は猶さら、これは取とまらぬ夢の様な恋なるを、思ひ切つてしまへ、思ひ切つてしまへ、あきらめてしまはうと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、その際までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどはこの人も思ふて、それ故の身の破滅かも知れぬ物を、我がこの様な丸髷などに、取済したる様な姿をいかばかり面にくく思はれるであらう、夢さらさうした楽しらしい身ではなけれどもと阿関は振かへつて録之助を見やるに、何を思ふか茫然とせし顔つき、時たま逢ひし阿関に向つてさのみは嬉しき様子も見えざりき。

広小路に出れば車もあり、阿関は紙入れより紙幣いくらか取出して小菊の紙にしほらしく包みて、録さんこれは誠に失礼なれど鼻紙なりとも買つて下され、久し振でお目にかかつて何か申たい事は沢山あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、随分からだを厭ふて煩らはぬ様に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、どうぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります処を見せて下され、左様ならばと挨拶すれば録之助は紙づつみを頂いて、お辞儀申す筈なれど貴嬢のお手より下されたのなれば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つてもこれが夢ならば仕方のない事、さ、お出なされ、私も帰ります、更けては路が淋しう御座りますぞとて空車引いてうしろ向く、其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。

●図書カード

Chapter 2 of 2
|