Chapter 1 of 12

(その一)

取まわしたる邸の廣さは幾ばく坪とか聞えて、閉ぢたるまゝの大門は何年ぞやの暴風雨をさながら、今にも覆へらんさま危ふく、松はなけれど瓦に生ふる草の名の、しのぶ昔しはそも誰れとか、男鹿やなくべき宮城野の秋を、いざと移したる小萩原ひとり錦をほこらん頃も、觀月のむしろに雲上の誰れそれ樣、つらねられける袂は夢なれや、秋風さむし飛鳥川の淵瀬こゝに變はりて、よからぬ風説は人の口に殘れど、餘波いかにと訪ふ人もなく、哀れに淋しき主從三人は、都會ながらの山住居にも似たるべし

山崎の末路はあれと指されて衆口一齊に非はならせど、私欲ならざりける證據は、家に餘財のつめる物少なく、殘す誹りの夫れだけは施しける徳も、陰なりけるが多かりしかば、我れぞ其露にとぬれ色みする人すらなくて、醜名ながく止まる奧庭の古池に、あとは言ふまじ恐ろしやと雨夜の雜談に枝のそひて、松川さまのお邸といへば何となく怕き處のやうに人思ひぬ

もとより廣き家の人氣すくなければ、いよいよ空虚として荒れ寺などの如く、掃除もさのみは行屆かぬがちに、入用の無き間は雨戸を其まゝの日さへ多く、俗にくだきし河原の院も斯くやとばかり、夕がほの君ならねど、お蘭さまとて册かるる娘の鬼にも取られで、淋しとも思はぬか習慣あやしく無事なる朝夕が不思議なり

晝さへあるに夜るはまして、孤燈かげ暗き一室に壁にうつれる我が影を友にて、唯一人悄然と更け行く鐘をかぞへたらんには、鬼神をひしぐ荒ら男たりとも越し方ゆく末の思ひに迫まられて涙は襟に冷やかなるべし、時は陰暦の五月二十八日月なき頃は暮れてほどなけれども闇の色ふかく、こんもりと茂りて森の如くなる屋後の樫の大樹に音づるゝ、風の音のものすごく聞えて、其うら手なる底しれずの池に寄る浪のおとさへ手に取るばかりなるを、聞くともなく聞かぬともなく、紫檀の机に臂を持たして、深く思ひ入りたる眼は半ばねふれる如く、折々にさゞ波うつ柳眉の如何なる愁ひやふくむらん、金をとかす此頃の暑さに、こちたき髮のうるさやと洗しけるは今朝、おのづからの緑したゝらん計なるが肩にかゝりて、こぼるゝ幾筋の雪はづかしき頬にかゝれるほど、好色たる人に評させんは惜しゝ、何とやら觀音さまの面かげに似て、それよりは淋しく、それよりは美くし

忽ち玄關の方に何事ぞ起りたると覺しく、人聲俄かに聞えて平常ならぬに、ねふれる樣なりし美人はふと耳かたぶけぬ、出火か、鬪諍か、よもや老夫婦がと微笑はもらせど、いぶかしき思ひに襟を正して猶聞とらんと耳をすませば、あわたゞしき足音の廊下に高く成りて、お蘭さま御書見でござりまするか、濟みませぬがお藥を少しと障子の外より言ふは老婆の聲なり

何とせしぞ佐助が病氣でも起りしか、樣子によりて藥の種類もあれば、せかずに話して聞かせよと言へば、敷居際に兩手をつきたる老婆は慇懃に、否老爺では御座りませぬ

今宵も例の如く佐助、お庭内の見廻りをすまして御門の締りを改ために參りし、潜りの工合の惡るくして平常さわる處のあれば、夫を直さんとて明けつしめつするほどに、暗をてらして彼方の大路より飛くる車の、提燈に澤瀉の紋ありしかば、氣ばやくも浪崎さまの御入來と思ひて、閉づべき小門を其ままに待參らせし、されども夫れは浪崎さまにては非ざりしならん

其車の御門前を過ぐる時、老爺も知らざりし何時の間にか人のありて、馳せすぐる車の輪に何として觸れけん、あつと叫ぶ聲に驚きし老爺の、我が額を潜りに打ちし痛さも忘れて轉ろび出しに、憎くきは夫れと知りつゝ宙を飛ばして車は過ぎぬ

殘りし男の負傷はさしたる事ならねど、若きに似合ぬ意氣地なしにて、へた/\と弱りて起つべき勢ひもなく、半分は死にたるやうな哀れの情態、これを見捨る事のならぬ老爺が、お叱りを受くるかは知らねどお玄關まで荷ひ入れしに、まだ人心地のあるやなしなる覺束なさ、ともかく一ト目見ておやり下され、嘘ならぬ憐れさと語りける

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