Chapter 1 of 15

第一囘

莊子が蝶の夢といふ世に義理や誠は邪魔くさし覺め際まではと引しむる利慾の心の秤には黄金といふ字に重りつきて増す寶なき子寶のうへも忘るゝ小利大損いまに初めぬ覆車のそしりも我が梶棒には心もつかず握つて放さぬ熊鷹主義に理窟はいつも筋違なる内神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで客足しげき呉服店あり、賣れ口よければ仕入あたらしく新田と呼ぶ苗字そのまゝ暖簾にそめて帳場格子にやに下るあるじの運平不惑といふ四十男赤ら顏にして骨たくましきは薄醤油の鱚鰈に育ちて世のせち辛さなめ試みぬ附け渡りの旦那株とは覺えざりけり、妻はいつ頃なくなりけん、形見に娘只一人親に似ぬを鬼子とよべど鳶が産んだるおたかとて今年二八のつぼみの花色ゆたかにして匂濃やかに天晴れ當代の小町衣通ひめと世間に出さぬも道理か荒き風に當りもせばあの柳腰なにとせんと仇口にさへ噂し連れて五十稻荷の縁日に後姿のみも拜し得たる若ものは榮譽幸福上やあらん卒業試驗の優等證は何のものかは國曾議員の椅子にならべて生涯の希望の一つに數へいるゝ學生もありけり、さればこそ一たび見たるは先づ驚かれ再び見たるは頭やましく駿河臺の杏雲堂に其頃腦病患者の多かりしこと一つに此娘が原因とは商人のする掛直なるべけれど兎に角其美は爭はれず、姿形のうるはしきのみならで心ざまのやさしさ情の深さ絲竹の道に長けたる上に手は瀧本の流れを吸みてはしり書うるはしく四書五經の角々しきはわざとさけて伊勢源氏のなつかしきやまと文明暮文机のほとりを離さず、さればとて香爐峯の雪に簾をまくの才女めきたる行ひはいさゝかも無く深窓の春深くこもりて針仕事に女性の本分を盡す心懸け誠に殊勝なりき、家に居て孝順なるは出て必らず貞節なりとか、これが所夫と仰がれぬべく定まりたるは天下の果報の一人じめ前生の功徳いか許り積みたるにかと世にも人にも羨まるゝはさしなみの隣町に同商中の老舖と知られし松澤儀右衞門が一人息子に芳之助と呼ばるゝ優男、契りは深き祖先の縁に引かれて樫の實の一人子同志、いひなづけの約成立しはお高がみどりの振分髮をお煙草盆にゆひ初むる頃なりしとか、さりとては長かりし年月、ことしは芳之助もはや廿歳今一兩年經たる上は公に夫とよび妻と呼ばるゝ身ぞと想へば嬉しさに胸をどりて友達の嬲ごとも恥かしく、わざと知らず顏つくりながらも潮す紅の我しらず掩ふ袖屏風にいとゞ心のうちあらはれて今更泣きたる事もあり人みぬひまの手習に松澤たかとかいて見て又塗隱すあどけなさ利發に見えても未通女氣なり同じ心の芳之助も射る矢の如しと口にはいへど待つ歳月はわが爲に弦たゆみしやうに覺えて明かし暮らす程のまどろかしさよ、高殿に見る月の夕影を分つはいつぞとしのび、花の下ふむ露のあした双ぶる翅の胡蝶うらやましく用事にかこつけて折々の訪おとづれに餘所ながら見る花の面わが物ながら許されぬ一重垣にしみ/″\とは物言交すひまもなく兎角うらめしき月日なり隙行く駒に形もあらば我れ手綱を取り鞭を揚げていそがさばやとまで思ひ渡りぬ、されども天は美人を生んで美人を惠まず多くは良配を得ざらしむとかいへり、彌生の花は風必ずさそひ十五夜の月雲かゝらぬはまことに稀なり、覺束なしや才子佳人かがなべて待つ歡びの日のいつか來べき、あし分船のさはり多き世なればこそ親にゆるされ世にゆるされ彼も願ひ此も請ひよしや魔神のうかゞへばとてぬば玉の髮一筋さしはさむべき間も見えぬを若此縁結ばれずとせばそは天災か將た地變か。

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