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別れ霜
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別れ霜
樋口一葉
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 6 of 15

第六囘

中硝子の障子ごしに中庭の松の姿をかしと見し絹布の四布蒲團すつぽりと炬燵の内あたゝかに、美人の酌の舌鼓うつゝなく、門を走る樽ひろひあれは何處の小僧どん雪中の一つ景物おもしろし、とても積らば五尺六尺雨戸明けられぬ程に降らして常闇の長夜の宴、張りて見たしと縺れ舌に譫言の給ふちろ/\目にも六花の眺望に別は無けれど、身にしむ寒さは降かゝりての後ならで知れぬ事なり、うそ寒しと云ひしも二日三日朝來もよほす薄墨色の空模樣に頭痛もちの天氣豫報相違なく西北の風ゆふ暮かけて鵞毛か柳絮かはやちら/\と降り出でぬ、入相の鐘の聲陰に響きて塒にいそぐ友烏今宵の宿りの侘しげなるに誰が空せみの夢の見初め、待合の奧二階の爪彈きの三下り簾を洩るゝ笑ひ聲低く聞えて思はず停る行人の足元、狂ふ煩惱の犬の尻尾、しまつたりと飛び退きて畜生めとはまこと踏みつけの詞なり、我が物なれば重からぬ傘の白ゆき往來も多くはあらぬ片側町の薄ぐらきに悄然とせし提燈の影かぜに瞬くも心細げなる一輛の車あり、齒代の安さ顯はれて剥げたる塗り破れし母衣、夜目なればこそ未だしもなれ晝はづかしき古毛布に乘客の品も嘸ぞと知られて多くは取れぬ痩せ田作り米の代ほど有りや無しや九尺二間の煙の綱あはれ手中にかゝる此人腕力おぼつかなき細作りに車夫めかぬ人柄華奢といふて賞めもせられぬ力役社會に生ひ立つた身とは請取れず履歴は如何に聞きたしと問ふ人なければ我れと唇開きもならず、アヽと出る溜息を噛しめる齒の根寒さにふるひて打仰ぐ面を見れば扨も美男子色こそは黒みたれ眉目やさしく口元柔和に歳は漸く二十か一か繼々の筒袖着物糸織ぞろへに改めて帶に卷く金鎖りきらびやかの姿させて見たし流行の花形俳優何として及びもないこと大家の若旦那それ至當の役なるべし、さりとては是れ程の人品備へながら身に覺えた藝は無きか取上げて用ひる人は無きか憐れのことやとは目の前の感じなり心情さら/\知れたものならず美くしき花に刺もあり柔和の面に案外の所爲なきにもあらじ恐ろしと思へばそんなもの、贔負目には雪中の梅春待つまの身過ぎ世過ぎ小節に關はらぬが大勇なり辻待の暇に原書繙いて居さうなものと色眼鏡かけて見る世上の物映るは自己が眼鏡がらなり、夜はまだ更けねど降しきる雪に人足大方絶々になりて戸を下す商家こゝかしこ遠く引く按摩の聲に近く交る犬の子の叫びそれすらも淋しきを路傍の柳にさつと吹く風になよ/\と靡いて散るは粉雪、物思ひ顏の若者が襟のあたり冷いやりとしてハツと振拂へば半面を射る瓦斯燈の光蒼白し、行く人はなし乘る人は猶更なからんを何を待つとか馬鹿らしさよと他目には見ゆるゐものからまだ立去りもせず前後に目を配るは人待つ心の絶えぬなるべし、凍る手先を提燈の火に暖めてホツと一息力なく四邊を見廻し又一息此處に車を下してより三度目に聞く時の鐘、今はと決心の臍固まりけんツト立上りしが又懷中に手をさし入れて一思案アヽ困つたと我知らず歎息の詞唇をもれて其儘に身はもとの通り舌打の音續けて聞えぬ、雪はいよ/\降り積るとも歇むべき氣色少しも見えず往來は到底なきことかと落膽の耳に嬉しや足音辱しと顧みれば角燈の光り雪に映じ巡囘の査公怪しげに目を注いで行き過ぎられし後に又人音この度こそはと見れげ情なし三軒許手前なる家に入りぬ、流石に氣根も竭果てけん茫然として立つくす折しも最少し參ると御座いませうと話し聲して黒き影目に映りぬ、天の與へ人こそ來つれ外すまじと勇み立て進み寄ればはて何とせん、過たるは及ばざる二人連とは生憎や、車は一人乘りなるを。

Chapter 6 of 15
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