Chapter 1 of 13

霜夜ふけたる枕もとに吹くと無き風つま戸の隙より入りて障子の紙のかさこそと音するも哀れに淋しき旦那樣の御留守、寢間の時計の十二を打つまで奧方はいかにするとも睡る事の無くて幾そ度の寢がへり少しは肝の氣味にもなれば、入らぬ浮世のさま/″\より、旦那樣が去歳の今頃は紅葉舘にひたと通ひつめて、御自分はかくし給へども、他所行着のお袂より縫とりべりの手巾を見つけ出したる時の憎くさ、散々といぢめていぢめて、困め拔いて、最う是れからは決して行かぬ、同藩の澤木が言葉のいとゑを違へぬ世は來るとも、此約束は決して違へぬ、堪忍せよと謝罪てお出遊したる時の氣味のよさとては、月頃の痞へが下りて、胸のすくほと嬉しう思ひしに、又かや此頃折ふしのお宿り、水曜會のお人達や、倶樂部のお仲間にいたづらな御方の多ければ夫れに引かれて自づと身持の惡う成り給ふ、朱に交はればといふ事を花のお師匠が癖にして言ひ出せども本にあれは嘘ならぬ事、昔しは彼のやうに口先の方ならで、今日は何處處で藝者をあげて、此樣な不思議な踊を見て來たのと、お腹のよれるやうな可笑しき事をば眞面目に成りて仰しやりし物なれども、今日此頃のお人の惡るさ、憎くいほどお利口な事ばかりお言ひ遊して、私のやうな世間見ずをば手の平で揉んで丸めて、夫れは夫れは押へ處の無いお方、まあ今宵は何處へお泊りにて、昨日はどのやうな嘘いふてお歸り遊ばすか、夕かた倶部樂へ電話をかけしに三時頃にお歸りとの事、又芳原の式部がもとへでは無きか、彼れも縁切りと仰しやつてから最う五年、旦那樣ばかり惡いのでは無うて、暑寒のお遣いものなど、憎くらしい處置をして見せるに、お心がつひ浮かれて、自づと足をも向け給ふ、本に商賣人とて憎くらしい物と次第におもふ事の多くなれば、いよ/\寢かねて奧方は縮緬の抱卷打はふりて郡内の蒲團の上に起上り給ひぬ。

八疊の座敷に六枚屏風たてゝ、お枕もとには桐胴の火鉢にお煎茶の道具、烟草盆は紫檀にて朱羅宇の烟管そのさま可笑しく、枕ぶとんの派手摸樣より枕の總の紅ひも常の好みの大方に顯はれて、蘭奢にむせぶ部やの内、燈籠臺の光かすかなり。

奧方は火鉢を引寄せて、火の氣のありやと試みるに、宵に小間使ひが埋け參らせたる、櫻炭の半は灰に成りて、よくも起さで埋けつるは黒きまゝにて冷えしもあり、烟管を取上げて一二服、烟りを吹いて耳を立つれば折から此室の軒ばに移りて妻戀ひありく猫の聲、あれは玉では有るまいか、まあ此霜夜に屋根傳ひ、何日のやうな風ひきに成りて苦るしさうな咽をするので有らう、あれも矢つ張いたづら者と烟管を置いて立あがる、女猫よびにと雪灯に火を移し平常着の八丈の書生羽織しどけなく引かけて、腰引ゆへる縮緬の、淺黄はことに美くしく見えぬ。

踏むに冷めたき板の間を引裾ながく縁がはに出でゝ、用心口より顏さし出し、玉よ、玉よ、と二タ聲ばかり呼んで、戀に狂ひてあくがるゝ身は主人が聲も聞分けぬ。身にしむやうな媚めかしい聲に大屋根の方へと啼いて行く。ゑゝ言ふ事を聞かぬ我まゝ者め、何うともお爲と捨てぜりふ言ひて心ともなく庭を見るに、ぬば玉の闇たちおほふて、物の黒白も見え分かぬに、山茶花の咲く垣根をもれて、書生部屋の戸の隙より僅かに光りのほのめくは、おゝまだ千葉は寢ぬさうな。

用心口を鎖してお寢間へ戻り給ひしが再度立つてお菓子戸棚のびすけつとの瓶とり出し、お鼻紙の上へ明けて押ひねり、雪灯を片手に縁へ出れば天井の鼠がた/\と荒れて、鼬にても入りしかきゝといふ聲もの凄し。しるべの燈火かげゆれて、廊下の闇に恐ろしきを馴れし我家の何とも思はず、侍女下婢が夢の最中に奧さま書生の部屋へとおはしぬ。

お前はまだ寐ないのかえ、と障子の外から聲をかけて、奧さまずつと入り玉へば、室内なる男は讀書の腦を驚かされて、思ひがけぬやうな惘れ顏をかしう、奧さま笑ふて立ち玉へり。

Chapter 1 of 13