Chapter 1 of 16

クラゲの海

夏は終ったが、まだ秋ではない、その間ぐらいの季節……

沖波が立ち、海はクラゲの花園になっている。渚に犬がいる。子供がいる。漁師が大きな魚籃をかついで、波うちぎわを歩いている。

秋波のうちかえす鎌倉の海は、房州あたりの鰯くさい漁村の風景と、すこしもちがわない。

飯島の端にある叔母の家の広縁からながめると、むこう、稲村ヶ崎の切通しの下までつづく長い渚には、暑い東京で、汗みずくになって働きながら夢想していたような、花やかなものは、なにひとつ残っていない。

愛憎をつかして、サト子は、ぶつぶつひとりごとを言った。

「風景だけの風景って、なんて退屈なんだろう」

ことしの夏こそは、この海岸でなにかすばらしいことが起こるはずだったのに、叔母にはぐらかされて、チャンスを逃してしまった。

鎌倉に呼んでもらいたいばかりに、春の終りごろから、いくども愛嬌のある手紙を書いたが、今年はお客さまですから、とお断りをいただいた。

この家をまるごと、ひと夏、七万円とか十万円とかで貸していたので、お客さまうんぬんは、お体裁にすぎない。

あきらめていたら、夏の終りになって、迎いがあった。

「これからだって、面白いことは、あるにはあるのよ。いいだけ遊んでいらっしゃい」

思わせぶりなことを言い、留守番にした気で、じぶんは、こけしちゃんという、チビの女中を連れて熱海か湯河原かへ遊びに行ってしまった。

なにをして、どう遊べというのか。犬と漁師の子供では、話にならない。土用波くらいは平気だが、海いちめんのクラゲでは、足を入れる気にもなれない。

こんなことなら荻窪の家に居て、牛車で野菜を売りにくる坂田青年でも、待っているほうがよかった。色は黒いが、いい声で稗搗節をうたう。

「おれァ、お嬢さん、好きだよ」

などと、手放しでお愛想を言ってくれる。

「泣いて待つより……」

退屈にうかされて、サト子は、稗搗節をうたいだした。『枯葉』などという、しゃれたシャンソンも知らないわけではないけれど、稗搗節のほうが、今日の気分にピッタリする。

「野に出ておじゃれよ

野には野菊の花ざかりよ……」

調子づいてうたいまくっていると、地境の生垣の間から大きな目が覗いた。

「あんなところから覗いている」

すごい目つきで、サト子が地境の生垣のほうを睨んでやると、それでフイと人影が隠れた。

名ばかりの垣根で、育ちのわるい貧弱なマサキがまばらに立っているだけだが、その前の芙蓉が、いまをさかりと咲きほこっているので、花の陰になって、ひとのすがたは見えない。

女ではない、たしかに男……灰色のポロ・シャツを着ているらしい。

生垣のむこうは、となりの地内だから、なにをしようと勝手なようなもんだけれど、じっと垣根の根もとにしゃがんでいるのが、気にかかる。

サト子は籐椅子から腰をあげると、座敷を横ぎって、裏庭にむいた濡縁の端まで行った。

「なにか、ご用でしょうか」

生垣のむこうから、霞んだような声が、かえってきた。

「いえ」

「あいにく、叔母はおりませんけど、あたしでわかることでしたら」

芙蓉の花むらのうえに、白っぽい男の顔があらわれた。

「どなたもいらっしゃらないはずなのに、歌が聞えたもんですから……」

いまの稗搗節を聞かれてしまった。今日はうまくうたえたほうだが、自慢するようなことでもない。

「お聞きになった? あんな歌、うたいつけないんで、まずいんです」

花のうえのひとは、ほんのりと微笑した。

「なにをおっしゃいます。あまりおじょうずなので……」

第一印象は童貞……あてにはならないが、そういった感じ。

二十一二というところか。男にしては、すこし色が白すぎる。ぽってりと肉のついた、おちょぼ口をし、かわいいくらいの青年だ。遠目に見たところでは、中村錦之助の兄の芝雀に、いくらか似ている。

おとなりは山本という実業家の別荘だが、こんな青年がいるとは聞いていない。たぶん夏の間借りの客なのだろうが、日焼していないのが、おかしい。

やっと、思いあたった……

「叔母が言っていた、あのひとなんだわ」

近くの結核療養所にいるすごい美青年が、療後の足ならしに、ときどき遊びにくると、自慢らしく言っていた。

「夏がすんだって、面白いことは、あるにはあるのよ」

と思わせぶりなことを言っていたのは、このひとのことだったのにちがいない。

さぐりを入れてみる。

「おとなりの……方ですの」

青年は肩をすぼめるようにして、首をふった。

模範的な撫で肩で、ポロ・シャツの袖付の線が、へんなところまでさがっている。

「ご近所の方なのね」

療養所にいらっしゃる方、とはたずねなかったが、すなおに、青年は、はァとうなずいた。

「叔母が留守のことを知っていたので、おとなりへ遊びにいらしたというわけ?」

「ええ、ぶらぶら……」

これで、叔母が言っていたひとにきまった。

どう見ても、カブキの女形だ。

まだ新人だが、ファッション・モデルという商売柄、他人の服装やタイプに、ひとかどの意見をもっている。これも、そのひとつだが、肩の無い女形が洋服を着たときくらい、恰好のつかないものはないと思っている。

美しいといわれるような男の顔を、サト子はむかしから好かない。人間のなかの不具者の部類で、わざわいをひきおこす不幸な偏り、というふうに、考えることにしている。

サト子が相手にしたいと望んでいるのは、中年以上のやつらで、こんな年ごろのヒヨッコではないが、遊んでもらいたいというのなら、交際ってやれないこともない。

「そんなところに立っていないで、こっちへいらしたらどう? 門のほうへ回るのはたいへんでしょう。そこからでもいいわ」

「よろしいですか?」

「跨ぐなり、おし破るなり」

マサキの枝をおしまげて、ものやさしく入ってくるのだろうと思っていたら、意外な身軽さで、ヒョイと垣根を乗りこえた。

見事な登場ぶり……ランマンの芙蓉の花間をすりぬけて、濡縁のそばまで来ると、

「お姉さま、握手」

と、肉の薄い手をさしのべた。

見かけよりは、腹のできた人物らしい。それならそれで面白い。サト子は気を入れて、あとで熱のでるほど固い握手をしてやった。

「叔母は熱海の方角へ行くと、なかなか帰って来ないのよ。こんな手でよかったら、ときどき、さわりにきてくだすってもいいわ」

「ほんとうに、おひとりなんですか」

今更らしく、なにを言う。どうやら、たいへんなテレ屋らしい。

「ごらんのとおりよ。おあがんなさい、ジュースでも飲みましょう」

濡縁に足跡をつけながら座敷にあがってくると、青年は縁端に近いところに畏ってすわった。

「あたし、水上サト子……あなた、なんておっしゃるの」

青年はシナをつくりながら、甘ったれた声でこたえた。

「ぼくの名なんか……」

「古風なことを言うわね。名前ぐらい、おっしゃいよ」

「でも……」

こういうハニカミは、育ちのいいひとがよくやる。病気のせいも、あるのかもしれない。

サト子は、それで見なおした気になり、美しすぎる顔も、さっきほどには嫌でなくなった。

「ジュースは、オレンジ? それとも、グレープ?」

「どちらでも」

冷蔵庫のあるほうへ立ちかけたとき、玄関の玉砂利を踏んでくる靴の音がきこえた。

「しようがねえな、玄関を開けっぱなしにして……」

そんなことを言っている。

中腰になって聞き耳を立てていると、玄関の客は癇癪をおこしたような声で呼んだ。

「由良さん……由良さん……どなたも、いらっしゃらないんですか」

サト子は、座敷から怒鳴りかえした。

「居りますよッ……聞えていますから、そんな大きな声をださないでください」

青年はモジモジしながら、腰をあげかけた。

「お客さまですね? ぼく失礼します」

「押売りでしょう、たぶん」

「もし、お客さまでしたら、朝から、ずっとここにいたと、言ってくださいませんか」

「一年も前から、ここにいたと、言ってあげるわ」

サト子が玄関へ出てみると、近くの派出所で見かける警官が、意気ごんだ顔でタタキに立っていた。

「こりゃ、失礼しました。お留守だと思ったもんだから……むこうの山側の久慈さんの家へ、空巣がはいりましてね。光明寺のほうへは出なかったから、このへんにモグリこんでいるんだろうと思うんです。お庭へはいって見ても、よろしいでしょうか」

「かまいませんとも……むこうの木戸から」

「ちょっと、失礼します」

警官は西側の木戸をあけると、地境の垣根のほうへ駆けて行った。

隣りの地内の奥まったあたりで、竹藪の薙ぎたてるような音がしていたが、そのうちに、よく通る声で、だれかがこちらへ呼びかけた。

「おうい、中原……」

垣根の裾にしゃがんでいた警官は、緊張したようすでツイと立ちあがった。

「ここにいる」

「そこの藪つづきから、飛びだすかもしれないから、気をつけろ」

「オッケー」

こちらの警官は、機械的に拳銃のある腰のあたりへ手をやった。

「お邪魔します」

また一人やってきた。

玄関のわき枝折戸を開けてはいってくると、いきなり庭の端まで行って、下の海を見おろした。

前庭の端は二十尺ほどの崖になり、石段で庭からすぐ海へおりられるようになっている。

サト子は、広縁の籐椅子から声をかけた。

「そんなほうにも、空巣がいるんですか」

人のよさそうな中年の私服は、こちらへ顔をむけかえると、底意のある目つきで、青年のほうをジロジロながめながら、

「コソ泥が、このへんから海へ飛びこんで逃げたことがあります……むこうの和賀江の岬の鼻をまわって、小坪へあがるつもりだったらしいが、泳ぎ切れずに、溺れて死にました」

言いまわしのなかに、なにかを嚊ぎつけたひとの、うさんくさい調子があった。

「えらい騒ぎね。いったい、なにを盗んだんです?」

「この春から、もう二十回ぐらい、このへんの家を荒しまわっているやつなんで、けっして、はいったところから出て来ない。このへんは、垣根ひとつで庭つづきみたいになっているので、あっちからこっちと、垣根を越えて、とんでもないほうへ抜けて行くもんだから……」

「おうかがいしますが、このへんへ飛びこんでくると、やはり拳銃で撃つんですか」

「あくまで逃げようとすれば、撃つこともあります」

「そんな騒ぎをするなら、よそでやっていただきたいわ。すみませんけど、むこうのひとたちに、そう言ってください」

「ごもっともです。そう言いましょう」

「それは、どんなひとなの?」

「チンピラです。灰色のポロ・シャツを着ていたというんですが……」

サト子は、むこうの縁端に畏っている青年のほうを、指でさした。

「灰色のポロ・シャツを着たチンピラなら、あそこにもひとりいるわ」

庭先に立ったまま、私服は探るように青年の顔をながめていたが、

「いやァ」

と笑い流し、西側の木戸から、みなのいる地境へ行くと、こちらへ尻目つかいをしながら、頭をよせあって、なにか相談しだした。

空巣の青年は、追いつめられたけだもののような、あわれなようすになって、むこうの玄関につづく広廊のほうへ、うろうろと視線を走らせた。

警官たちは感づいている。いま逃げだしたりしたら、遠慮なく撃たれるだろう。

美しすぎる面ざしをした、ひ弱い青年が、胸から血をだして死んでいく光景を見るのは、ありがたいというようなことではない。

サト子は、籐椅子から立ちあがると、なにげないふうに青年のそばへ行って坐った。

「あなたは相当な人物なのね、見かけはやさしそうだけど……」

「……」

「この春から、ずいぶん、かせいだらしいわ」

青年は、はげしい否定の身ぶりをした。

「それは、ぼくじゃありません」

「でも、久慈という家へはいりこんだのは、あなたなんでしょう」

青年は、うなずくと、低く首を垂れた。

バカげたようすをするので、腹をたてて、サト子が叱りつけた。

「向うで見ている……顔をあげなさい」

青年は顔をあげると、涙に濡れた大きな目で、サト子の顔を見返した。

「つかまったら、空巣にはいったというつもりでした……でも、ほんとうに、ぼくは空巣じゃないんです」

「そんなら、あのひとたちにそう言うといいわ。悪いことをしたのでなかったら、恐がらなくともいいでしょう?」

「ぼくがそう言うと、あのひとたちは、では、なにをしにはいったと聞くでしょう……ぼくには、それが言えないんです。それを言うくらいなら、死んだほうがましです」

「そんな声をだすと、あたしが同情するだろうと思うなら、見当ちがいよ。あなたを庇ってあげる義理なんか、ないんだから」

「でも、さっき……」

「約束だから、朝からここにいたと言ってあげますが、それ以上のことは、ごめんだわ」

「ぼくが、なにをしにあの家へはいったか、知ってくだすったら……」

「もう結構。じぶんでしたことは、じぶんで始末をつけるものよ」

青年は、海の見えるほうへ顔をそむけながら、

「ぼくは、もう死ぬほかはない」

と、つぶやくように、言った。

打合せがすんだのだとみえて、三人の警官が、まっすぐに濡縁のほうへやってきた。

「すみません、水を、いっぱい……」

もう一人の警官が、言った。

「ついでに、私にも……失礼して、ここへ掛けさせていただくべえ」

しゃくったような言いかたが、サト子の癇にさわった。

「お水なら、井戸へ行って、自由にお飲みになっていいのよ」

「はァ、すみません」

一人が濡縁に腰をおろすと、あとの二人も、狭いところへ押しあって掛けた。

「お嬢さん、失礼ですが、あなたは由良さんの……」

「由良は叔母です。あたし留守居よ」

若い警官は、青年の居るほうを顎でしゃくりながら、間をおかずに切りこんできた。

「それで、こちらの方は?」

サト子は、鼻にかかった声で、はぐらかしにかかった。

「そんなことまで、言わなくっちゃ、いけないんですの?」

警官は苦笑しながら、うなずいた。

「つまり、ボーイ・フレンドってわけですか」

そうだと言えば、あとでむずかしいことになる。サト子は、あいまいに笑ってみせた。

青年が、すらりと座から立った。

「水なら、ぼくが汲んできてあげましょう」

口笛を吹きながら、勝手のほうへ行ったが、なかなか帰って来ない。

そのうちに、中年の私服の額に、暗い稲妻のようなものが走った。

はじまったと思うより早く、三人の警官は一斉に立ちあがって、木戸口から前庭のほうへ走りだした。

まっさきに崖端へ行きついた警官が、海のほうを見ながら叫んだ。

「あんなところを泳いでいる」

「やァ、飛んだか」

そんなことを言いながら、海につづく石段を、ひとかたまりになってドタドタと降りて行った。

サト子は、つられて庭の端まで出てみた。

むこうの海……砲台下の澗になったところを、苦しみながら、青年が泳いでいる。

「おうい、小坪まで泳ぐ気かよ」

「死ぬぞ、ひきかえせ」

青年は、こちらへ顔をむけかえたが、もう帰ってくることはできなかった。いそがしく浮き沈みし、二三度、手で水を叩いたと思うと、あっ気なく海のなかへ沈みこんでしまった。

岩端の波のうちかえすところに、青年の灰色のポロ・シャツが、大きなクラゲのようになって浮いていた。

「空巣ぐらいで、死ぬことはなかろうに」

中年の私服は、沈んだ顔つきで、海からポロ・シャツをひきあげた。

「バカな野郎だ」

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