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全十二巻の厖大な艶笑自叙伝「回想録」Mmoires を書くことに生涯を費した色情的好事家ジォウァンニ・ヤコポ・カサノヴァと霊媒術をもってルイ十六世の宮廷で華々しい成功をし、「マリイ・アントアネットの首飾事件」に連坐してバスチーユに繋がれ、後、ローマで獄死した天才詐欺師バルサモ・ディオ・カリオストロ伯爵とルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵の三人をある小史作者は十八世紀末から十九世紀中頃までの三大変種といっている。
三人ながら姓がCではじまっているところに作者の特別な配慮があるわけなのであろうが、カストリ家(Maison de Castries)は南仏エロ県カストリに広大な荘園と城館を持つ中世紀以来の旧家で、城館はいまもそこに残っている。カストリ家の先祖はマルセーユの太守でありながらケイル・エド・デインなどに伍して地中海を荒しまわった海賊で、スタンダールが「赤と黒」でピラール師をして、「君は大貴族の邸に住んでいるくせに、カストリ侯爵がダランベールやルソオについていった言葉を知らないのか。(あいつらはなんにでも理窟をつける。そのくせ千エキュの年収もないんだ)」といわせている。ルイ十五世代の海軍元帥、ルイ十六世の代には海軍相だったこともあるそのカストリ侯爵である。
その子、ノオンドルフという独逸名もあるルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵は全欧州に話題を捲き起した奇異な人物だったが、色情狂や詐欺師の同列に置くような人間でないことは、種々な事情によって今はもう明らかになっている。
当時の計算好きな男の報告によれば、一七九二年の四月五日にはじめて活動を開始した断頭台が最もよく稼いだ日には、四十五分間に六十二個の首を転がしたということである。フランス革命には、弑逆、屠殺、反噬、裏切、暗殺、欺騙、賄賂、恐喝、その他、人間のあらゆる卑怯な振舞いと残虐行為の最高の模範が示されているが、タンプルの古塔の中で行なわれた幼児虐待はその尤たるものであった。
ルイ十六世の嗣子、わずか八歳のルイ・シャルルは、母からも姉からも引離され、賤民でさえ恐れ入って近づかない蒼古たる廃塔のてっぺんに幽閉され、残忍酷薄な監視人のいたらざるところなき虐待を受け、一七九四年以後は、陽の目もささぬ暗室へ投げこまれ、虱や南京虫に責められ、全身、垢と吹出物に蔽われて虫のように蠢いていたが、ついに消耗し尽し、九十五年の六月八日、眼もあてられぬ汚穢と屈辱の中で死んだ。
一七九二年八月十日、巴里市民はルイ十六世に退位を迫ってチュイルリー宮を襲撃したので、王族十一人は王宮をぬけだし、庭づたいに翼屋の国民公会へ落ちのびた。
ルイ十六世の第三子、ノルマンディ公ルイ・シャルルは一七八五年にヴェルサイユ宮で生れ、兄(ナヴァール公)が死んだので皇太子になり、そのときちょうど八歳だった。ルブラン夫人の絵で見るとおり、母に似たいかにも美しい面差で、ブロンドの髪が波をうって肩のあたりへ落ちかかっているところなどはさながら少年天使のようだった。
太子は襞飾のある薄紗のシャツに空色天鵞絨の服を着、幅の広い朱鷺色の絹の飾帯を結んでその端を腰のところで垂らし、前の海軍相ド・カストリ侯爵に手をひかれ、母のマリイ・アントアネットと並んでなんの苦もない顔で歩いていた。
巴里の夏は短いが、とりわけその年は秋が早く、八月十日だというのにもう葉が落ち、そんな騒動の中で園丁がひっそりと落葉を掃いていた。ルイ十六世は太子のほうへ振返っていった。
「見てごらん。もうこんなに葉が落ちた」
ある新聞の論説はフランスの王位は今年の秋まで保たないだろうと予言していた。この日をもって王権は停止され、同十三日、ルイ十六世、マリイ・アントアネット、太子、王女マリイ・テレーズ・シャルロット、王妹マダム・エリザベト、侍従クレリー、それに僕婢五人、以上の十三人が、十二世紀のはじめごろ七百年も前に建てられた聖堂派騎士団の修院で、久しく住むものもなかったル・タンプルの古塔へ幽閉された。それは二百尺の塔の頂上、十七米四方もある陰気な広い部屋で、石の壁には苔が蒸し、矢を射だす矢口だった鉄格子の窓から雲や霧が自在にはいりこみ、いかにも天国の近いことを思わせた。
翌一七九三年の一月廿一日、ルイ十六世は断頭台の餌食になり、王党派の承認によって太子が名ばかりのフランス王、ルイ十七世になった。六月二日、過激ジャコブ党のクウ・デタでジロンド党の代議士十二名が追放され、いわゆる「恐怖政治」がはじまった。十日、ヴァンデー地方の反革命軍は太子をルイ十七世と宣言し、騎士レニエ・ド・ジャルジャエー、ジャン・ド・バッツ男爵、アトキンス夫人などの救出陰謀のほかに、デイヨン将軍の一党が母后の摂政によってルイ十七世を擁立しようとしているという噂で、コルドリエール党(ジャコブ党に属する労働者の極端過激派)のピエール・ショオメットが太子を母后から分離して専任の監視人を置くことを提議し、党員の靴工アントアンヌ・シモンを推薦した。
シモンは靴の底革を貼り合わせる締金付のマショアールという二枚板で先妻の子の頭をジワジワと締めつけ、のし餅のように平らにへし潰して殺したという評判があり、残忍のゆえに人に恐れられている男で、陰鬱な眼付をした、猫背の、顔色の悪い、いつも口元に冷笑を漂わせた、見るからに削げたような不快な人相をしていた。
七月三日、シモンは細君のマリイ・ジャンヌと一緒にル・タンプルの東塔の最上階へ移り、母后から太子をひき離しておのれの新居へ連れてくると、天鵞絨の服を剥ぎ、薄紗のシャツを剥ぎ、靴をぬがせて素足にさせ、泥の中をひきずりまわしたようなひどい襤褸を着せ、三角のフリージャン(革命の赤帽)をかぶせ、「さてお前は今日からおれ達を父上さま母上さまと呼ぶようにしろ。気をつけて口をきけよ。おれはお前の頭を壁にぶっつけて殺すことも出来るってことを忘れるな」と訓戒した。
満八歳になったばかりの太子は、なにひとつ心を慰めるものとてない古塔の廃室で、靴直しの夫婦の抜目のない監視の眼に見張られ、寝るにも起きるにもいちいち口汚く罵られながら、いつかまた母や姉に逢う日のあることを信じ、逆いもせずに耐えていた。この塔は母のいる南塔と向き合っていて、遠い窓の中に、時には母の姿が見えるのがせめてもの心やりであったが、間もなくシモンに気づかれてその窓は塞がれてしまった。
シモンは朝から酒びたりになっていた。無聊に若しむと、ルイ十六世が断頭台に上るところから首を斬り落されるまでの光景を、手真似足真似で演じて見せ、太子に下等なラムを飲ませて卑穢な流行歌をうたわせようとし、onanie を強い、「私はお母さんと通じましたと言え」と迫った。いうとおりにしないと木底の雨靴で撲りつけて意に従わせようとしたが、太子は毅然として最後まで屈しなかった。
シモンはロベスピェールの熱狂的な信者で、マインツの陥落やツーロン占領の報知があった日には、太子の髪を掴んで力まかせに壁へ投げつけ、母后が斬首された日には、その血をハンカチに浸してきて太子に見せ、「お前のおッ母は、貧乏人から物ばかりくすねていたやつだったが、血だけは惜し気もなくフンダンにふり撒きやがった」といった。
また十二月のある日、夜半、太子がこっそり起きだし、床に跪いて祈っていると、シモンがその声を聞きつけて眼をさまし、「その祈祷をやめさせてくれよう」と息も凍るような寒夜、頭から五ビドン(二斗あまり)の水を浴びせ、「さぞ寝心地がよかろうよ」と太子の尻を蹴り蹴り、薄氷の張りかけた水だらけの寝台へ追いあげた。太子はだまって涙を流すばかりであった。自分の泣き声がどこかの塔にいる姉のマリイ・テレーズが聞きつけ、もしや悲しませるかと、それを恐れたのである。(A・ボオシュネエ「ルイ十七世、生・苦悩・死」)
翌九十四年の一月、太子は影のように衰え、どう叩かれようが蹴られようが、動くことも声をあげることも出来なくなってしまった。ちょうどその頃、シモンの妻がタンプルの湿気に冒されてリュマチスムをひきおこし、居住に耐えなくなったので解職願いを出し、一月十九日、「暗牢」というむかし騎士団が監室に使っていた太い鉄格子の扉のある陽の目もささぬ暗黒の部屋へ、寝台もなしに太子を投げこんでタンプル付の下僚三名に引継がせ、形式通り受領書を書かせて引上げて行った。
太子はこの日から三人の雑役に生命を托すことになったが、悪意もなければ責任も感じない怠惰なやつらで、一日一回、鉄格子の間から麺麭と水を差し入れ、時たま思いついたように格子を叩いて太子の実在をたしかめるくらいが精々だったので、その後六カ月の間、衣服を変えることもなく、洗面もせず、大小便もそのまま、何百年とも知れぬ堆高いクラシックな塵埃の上にじかに寝、一筋、陽の光の差しこまぬ暗黒世界の中で、虫のようになって生きていた。
七月二十七日、ロベスピェールが倒れてここに恐怖政治が終った。その日、議員ポオル・ド・バラッス子爵が太子を見にタンプルへ出かけて行った。鉄格子を開けさせて「暗牢」の中へ入ると、一種言うにいえぬ悪臭がたちこめ、鼠の巣のように襤褸屑を寄せ集めた異様な堆積の中に、なにものか蠢いているのがおぼろげに見えた。
提燈を持って来させて眺めてみると、それはまごう方なく、フランス王ルイ十七世の無残にも衰頽した姿であった。眼ばかりあやし気に光る小動物そのままの行態で、容貌はさながら死人のよう。手足はのように膨れ、背中は曲り、頭はぞっとするような吹出物と瘡蓋に蔽われ、指の股には壁蝨が食いこみ、腹のあたりにわずかに纒いついている衣服の名残には、虱と南京虫が布目も見えぬほどに這いまわっていた。
こういう惨憺たる境界で、半年以上も生きながらえていたというのは奇蹟であった。バラッス子爵が、「こんなところでよく生きていなさいました」と慰めると、太子は虫の鳴くような声で、「Je veux mourir(死にたい)」とつぶやいた。
翌廿八日、ロベスピェール外九十三人、靴工アントアンヌ・シモンも含め、断頭台へおのれらの血を報償した。
バラッス子爵はルイ・カペエ(ルイ十六世の卑称)の息子に身体を洗わせ、医師の診察を受けしめ、猶、居住を移し、衣服と寝台を与える請願を国会へ提出した。当時としては甚だ勇気の要る行為だったが、許可された。但し暗室から出すことだけは拒絶された。
バラッス子爵は、翌日医師ジュウル・デゾールを連れてタンプルへ行き、雑役に命じて太子の身体を洗わせ、能うかぎり暗牢を清潔にさせた後、マルチニック島生れのジャン・ローランという殖民地白人にゴオマンという下役をつけ、二人を専任の附添人に任命した。
この頃から太子は頑固な沈黙を持続するようになった。十二月十九日、ミショウ、ラチュウ、ルベルションの三人の議員が暗牢を訪問したが、太子は一言も口をきかず、唖になったか聾になったかと思わせた。
その年も終り、翌四十五年三月末、ローランとゴオマンが辞任し、エチアンヌ・ラーヌという男が附添になった。五月の末、太子は過度の衰弱のため重態に陥ったので、六月一日、前年、太子を加養した医師のデゾールがタンプルへ行くことになっていたところ、その前夜、突然急死し、ペルタン、デュマニャンの二医師が代って太子を診察し、瘰癧の増殖による衰弱と診断した。
「太子は母のことでも思いだすのか、これまでになく時々泣いていたが、革命暦第三年、一七九五年六月八日の午前八時頃、天来の音楽と母の声を聞きつつ暗黒陰湿の意外なる環境で静かに息をひきとった」
ブゥルボン家の正統。ルイ十六世の嫡男。カルヴァドス、オルヌ、セーヌ下流、ユゥール、マンシュの五県を含む広大なノルマンディ州の領主。三百万の領民と百四十万リーヴルの年収を持つ王位継承者ルイ・シャルルは、臨終の祈祷も終油も受けず、暗牢の粗木の臥牀の上で満十歳と三カ月の短い生を終え、アウレリアス王以来、異常な運命に死んだ八百七十二人の史上の不幸な王の群の中へその名を列ねることになった。
検屍はシャルル・ゴレエ、レオポルド・ミショオ、シャルル・ポオリュウ三議員の立会いの下にペルタン、デュマニャンの医師によって行なわれ、王女マリイ・テレーズの認証があった。