Chapter 1 of 1

久生十蘭

雲ひとつない紺碧の空。

波のようにゆるく起伏する大雪原を縁取りした、明るい白樺の疎林や、蒼黝い針葉樹の列が、銀色の雪の上にクッキリと濃紫の影をおとし、岳樺の枝に氷雪がからみついて降誕祭の塔菓子のようにもっさりともりあがり、氷暈に包まれてキラキラと五彩にきらめきわたっている。

「ヤッホー」

「ヤッホーホー」

志賀高原の朝日山のスロープの裾で、花束をふりまいたような美しい四五人のお嬢さんが、すべったりころんだり、キャッキャッと高笑いしたりしながら、思い出したように声をあわせて山の中腹へよびかける。

「は、や、く、来いよウ」

朝日山の北側のスロープの中腹に、赤煉瓦の煙突をもった石造のしゃれた山小屋が建っている。

窓のあけかたや、長押の壁に日時計をつけたところなどをみると、南瑞西のモン・フォールの山小屋をまねてつくったものだということがわかる。

日本信託の森川氏が、娘やその友達のために建てたもので、毎年、一月のはじめごろになると一行が、料理番の婆やと女中をひとりつれてやってくる。日本女学園のやんちゃな連中で、このスロープを自分たちだけで独占して、朝から夕方までたいへんな騒ぎをやらかす。

山小屋の入口から、アストラカン・クロスの上衣に派手なマフラアを巻きつけた森川氏の末娘の梓さんがヒョックリと出てくる。つづいて、黒いウールンのスキー服を着たキャラコさんがスキーをかついで現われてくる。

梓さんは締金具をしめ終ると、麓のほうへ片手をあげて叫ぶ。

「おうい、直滑降だぞォ」

麓にいる連中が、怒鳴ったり、拍手したりする。

「やれイ――」

「やッつけろ――イ」

梓さんは身体をかがめると、銀色に光るスロープにあざやかなシュプールをひきながら、一団の雪煙りになって弾丸のように滑降して行った。キャラコさんは、ちょっと心配そうな顔つきで眺めていたが、梓さんがみごとなフォームで制止したのを見届けると、スラロームを描きながらゆっくりと降りて行った。

毎年の例では、大姉さまの朱実さんか森川夫人が、お転婆さんたちの世話やきと監督にやってくるのだが、今年は、長兄と次兄が二人ながら戦地へ行っているのと、朱実さんのお嫁入りがちかづいたのとで、とてもこんなところへ来ていられない。

こういう場合には、いつもキャラコさんに白箭の矢がたつ。

森川氏も森川夫人も、二人ながら熱心な長六閣下の帰依者だが、それと同時に、沈着で聡明な長六閣下の末娘にも絶対の信頼をおいている。キャラコさんにさえ任せておけば、どんな心配もいらないのである。手に負えない梓さんたちの組も、この小さな先輩をこころから好いて、『常識さん』のいうことならなんでもきく。

川奈の国際観光ホテルで、あんな思いがけないことがあった翌々日、東京の森川夫人から電話がかかってきた。

「でも、父はどういうでしょうかしら」

「ええ、それは、もう、ちゃんとお願いずみなの。……新聞記者がつめかけてきてたいへんだから、東京へ帰らずに、まっすぐそちらにいらっしゃいって。……ね、剛子さん、お願いしてよ」

「あのひとたち、とても、あたしの手に負えませんの。……でも、そんなにおっしゃるんでしたら、お引き受けしてよ」

あまり物事に動じないキャラコさんが手に負えないというくらいだから、その連中のやんちゃぶりはたいてい察しられる。しかし、キャラコさんは、梓さんたちの組がだいすきだ。すこし、贅沢に馴らされているようなところもあるが、どの娘もおおまかで、ものごとにこだわらず、自分のしたいと思う通りを精一杯に振る舞う。単純で、快活で、健康で、見るからに気持がいい。

おしゃまのユキ坊や、詩人の芳衛さん、画の上手なトクさん、陽気なピロちゃん、チビの鮎子さん……、それぞれ、みな個性のはっきりした、溌剌たるお嬢さんたちだ。

梓さんのほうは、すこし浪曼的で、自分の気に入ったことなら、なんでもすぐ夢中になってしまうという欠点があるが、お父さまはたいへん濶達な方だし、兄弟もみな率直ないいひとたちばかりなので、その影響で、どんなちいさなことでも、自分ひとりでこそこそやったり、隠しだてしたりしない、さっぱりした気性を持っている。

器量よしで、たいそう色が白く、いつも夢を見ているような大きな眼は、何かに夢中になると急に熱ぽくなり、何か自分の思い通りしたいようなときは、思いがけない大胆な眼つきに変る。いつも、きちんと衿の詰まった、プロシアン・カラーの趣味のいい単純な服を着ている。これが、必要以上に梓さんを真面目くさくも見せ、また、あどけなくも見せる。

山小屋は、広い料理場と乾燥室のついた、二階建のがっちりした建物で、大きな広間の天井には煤色の栂の太い梁がむきだしになっている。天井まで届くような大きな煖炉の中で、白樺や落葉松の太い薪が威勢よくはじけ、鉄架の上で珈琲沸がいつも白い湯気をふきあげている。

四時ごろキャラコさんが山小屋につくと、一同は、煖炉の前の床に胡坐をかき、シトロンの大きなコップを順繰りに廻して「乾杯」をしながら、でたらめな歌をうたって騒いでいた。ベスという大きなシェパードが、一緒になってワンワン吠えながら広間の中を走り廻っていた。

キャラコさんがやって来たのを見ると、みなうれしがって、もう一遍、もういっぺんと、いくども乾杯して、苦しがってゲエゲエと咽喉を鳴らした。

二階へあがってみると、四つの寝室はまるで戦場のようなありさまだった。カアテンはひきむしられ、椅子は倒れ、スーツ・ケースはみなひっくりかえされて、下着や、靴下や、ペテーや、その他、使途不明なさまざまなものがところかまわず撒きちらされ、花瓶の中には上靴が突っ込んであるし、水差しの中には喰べかけのチョコレートとハーモニカと歯ブラシが同居している。

キャラコさんは外套をぬぐ間もなく、女中のときやに手伝ってもらって四つの寝台をキチンと片附け、鞄のものはそれぞれもとのところへおさめ、戸棚を整理したり、カアテンをつり直したり、たっぷり夕食ごろまでかかってしまった。

食事の時間はまた革命と暴動がいっしょに起きたような騒ぎだった。みなペコペコにお腹をすかし、めいめい、わけのわからないことをわめきたてながら海賊のように食卓に飛びつくと、箸がくるのを待ちかねて、紅茶の匙でご飯をすくったり、肉の掛汁を舌でなめたりした。

森川氏は有名な美食家なので、酒棚にはムールソオやバルザックやクレクスなんていういろいろな葡萄酒が並べられてある。

食事がすむと、梓さんの提議で、キャラコさんの歓迎の意を表するため、本式に乾杯することになった。梓さんは触れれば消えてしまうかと思われるような薄いヴェネチャの洋盃を持ち出して来てひとりひとりの手に持たせ、もったいぶったようすで紅玉のようなシャトオ・ディケムを注いで廻る。そのうしろから、キャラコさんが水瓶を持って、みなの葡萄酒を、ほんのり薔薇色か、ひょっとすると、曙の色くらいに薄めてあるく。

チビの鮎子さんが、音頭をとることになって元気よく立ちあがったが、なんというのだったか忘れてしまった。鮎子さんは仏蘭西語でやっつけたいのである。それで、となりのピロちゃんにたずねる。

「なんて、いうんだっけ!」

「ア・ラ・ヴォートル!」

「たった、それだけ?」

「あたりまえだア」

「じゃ、ね、ア・ラ・ヴォートル! ……われらの監督さんの安着を祝し、キャラコさんをわれわれのもとへ派遣した長六閣下の寛大なるご処置に感謝いたしまァす」

ア・ラ・ヴォートル! といいながらひと息に飲みほして、だれもみな、あまり美味くもないような顔をした。

画の上手なトクさんが、

「渋いや」

といって、てれくさそうに舌を出した。

「水臭いだけだ」

と、梓さんがやりかえした。おしゃまのユキ坊やが、

「でも、蓬の匂いがするよ」

というと、詩人の芳衛さんが、

「あら、菫の匂いよ」

と、抗議した。それから、めいめいいろんな匂いを持ち出して金切り声で主張し合った。

キャラコさんも、だんだん愉快になって来て、みなと頭をくっつけ合わせて、笑ったりしゃべったりした。

窓のそとの大きな星を眺めながら、ピロちゃんのハーモニカに合わせて合唱をした。

『ロッキーに春がくれば』という歌が気に入って、いくどもいくどもくりかえして唄った。そして、みな、涙ぐんだ。

間もなく、眠くなった。

煖炉のそばでごろ寝したがるのをお尻をたたいて二階へ追いあげ、二人ずつひとつの寝台へ押し込んで丁寧に毛布でくるんでやった。

キャラコさんは、梓さんと二人で仲良く寝床へ入った。山の中の夜はしんとしずまりかえり、遠い雪山が青く光っていた。

空はクッキリと晴れているし、雪質は申し分ないし、キャラコさんは午前ちゅう夢中になってすべった。

昼食がすむと、みなは志賀ヒュッテまで遠征することになった。

天狗岩の下を通って行くと木戸池のほとりへ出る。ちょっとしたプロムナアドにはたいへん快適で、このコースはキャラコさんも大好きだったが、長六閣下に手紙を書かなければならないので、ひとりだけ小屋に残った。

夕靄がおりるころになって、一行はたいへんな元気で帰って来た。スロープのずっと下からキャッキャッと笑う声がきこえ、みな、なにかひどくはしゃいでいた。

おしゃまのユキ坊が息せき切って広間へ駆けこんでくると、キャラコさんの耳に口をおっつけて、

「ね、大事件があったの」

と、大きな声で怒鳴った。

キャラコさんは、あわてない。広間の入口のほうを見ると、梓さんをはじめ五人の顔が不足なく揃ってるし、誰といって怪我をしたようなようすもない。それどころか、みな上気したような赤い顔をして、入口にちかいところに手をつないで一列になって突っ立って、笑い出したそうな顔でこちらを見ている。

キャラコさんが、落ち着いた声でたずねる。

「大事件、って、なにかあったの」

ユキ坊やは息をはずませながら、

「また、チャーミング・プリンスに出っくわしたの」

「それは、どなたのこと?」

ユキ坊やは栗鼠のような黒い大きな眼をクルクルさせて、

「あら、まだ話してなかったんだわ。……うン、じゃ話そう。大事件なのよ」

トクさんが走って来た。

「いやよ、あたしに、話さして」

詩人の芳衛さんも、ピロちゃんも、梓さんも、鮎子さんも、あたしよ、あたしよ、と叫びながら飛んで来て、前うしろからキャラコさんにむしゃぶりついた。

キャラコさんは船のように揺られながら、

「おとなしくなさいね、順々にきいてあげますから」

六人は、急いでめいめいクッションを持って来て床の上に敷き、キャラコさんのまわりに円陣をつくった。

まず、ユキ坊やにたずねる。

「それは、どんな方なの」

「とても上品な、四十歳ぐらいの紳士なの。……ほら、なんていったっけ、アド……」

陽気なピロちゃんが、うっとりした声でこたえた。

「アドルフ・マンジュウよ」

「そう。……アドルフ・マンジュウのような感じのひとなの。顎がすべすべして、蒼白い色をしてるのよ」

画の上手なトクさんが訂正した。

「オリーヴ色よ」

「……オリーヴ色でね、メランコリックな眼つきをしているの。とても上品で、丁寧なの。……素敵でしょう?」

キャラコさんが、笑いだす。

「ええ、素敵ね。それで、どうしたの」

「……それから、……あたし、うまくいえないわ。梓さん、あなた、おっしゃい」

梓さんは、れいの熱っぽい眼つきをして、

「あたし、いえないわ。芳衛さん、あなたおっしゃい」

詩人の芳衛さんは、眼を伏せて、いやいやした。

キャラコさんは、からかうような眼つきで、みなの顔を見廻しながら、

「おやおや、すっかり優しくなってしまったのね」

チビの鮎子さんが元気な声で、やっつけた。

「ええ、そうなの。あたしたち、そのひとに逢うと、急に胸がドキドキして、すべって転んじゃうのよ。芳衛さんも梓さんも転んだわよ。ピロちゃんなんか、お辞儀をしそこなって前へつんのめっちゃったんだア」

うっとりするようなその上品な紳士は、丸池のそばの志賀高原ホテルに泊っていて、あまり人の来ない木戸池やモングチ沢のスロープで、静寂な雪山をひとりで楽しんでいるのらしかった。

六人がその紳士に逢ったのは、天狗岩の一本松の下だった。たいへんにスマートな身なりをしたその紳士は、南側のスロープをみごとなスノウ・プルウで降りて来て、六人に丁寧に目礼してすべり去った。

あまり美しく、あまり上品なようすなので、みなうっとりしてしまった。夢からさめると、詩人の芳衛さんが、その紳士に、『チャーミング・プリンス』と名をつけた。みな、心からこの命名に賛成した。

その紳士は、午後になると、きまって志賀ヒュッテの方へ出かけてゆくことがわかったので、そうそうに昼飯をすませると、みな胸をワクワクさせながら見物に出かけるのが毎日の仕事になった。うまく紳士に出っくわして、目礼されたり、短い挨拶をされたりすると、あわてふためいて、すべったり転んだりして大騒ぎになる。そして、夜になると、『ロッキーに春がくれば』を合唱しては、涙ぐむのだった。

ところで、今日、そのうっとりするような紳士をこの山小屋のお茶に招待するところまでこぎつけたというのである。

チビの鮎子さんが、皆に押し出されて、紳士の前まではって行った。ピョコンとひとつお辞儀をすると、

「あたしたちのところへ、明日、お茶に来て、ちょうだい」

と、いった。

チャーミングさんは、なんともいいようのない美しい微笑をうかべながら、たいへんに慇懃な口調で、お招きにあずかって有難い、といった。

鮎子さんは、紳士があまり丁寧なので、面くらってひっくりかえりかけ、あぶなく紳士に抱きつくところだった……。

夕方から夜にかけて、六人のお嬢さんたちは、みな、とりとめなくなって、ただもうソワソワと立ったり坐ったりばかりしていた。

その夜半、キャラコさんは、梓さんがしきりに寝がえりをうつので、いくども眼をさました。

次の朝、曙の光がまだずっと向うの山脈を薄桃色に染めているころ、みな、一せいに起き出してドタバタ騒ぎはじめた。

テルモスや、古カードや、ワックスの鑵や、こわれた八角手風琴や、兎耳や、ちぎれたノルウェー・バンドの切れっぱしは、みなひとまとめにして戸棚のなかに押し込まれ、広間は見ちがえるほどきれいになった。

画のじょうずなトクさんは雪の下から掘り出したはりえにしだの枝で奇妙な生花をけた。

詩人の芳衛さんは、宝石細工人のような熱心さで、林檎に息をふっかけては服の袖で磨いた。

チビの鮎子さんは、ろくな服を持って来なかったとひっきりなしに愚痴をこぼし、ピロちゃんは靴が小さくなったといって地団太を踏んだ。

おしゃまのユキ坊やは、毛皮のついたカーディガンのツウ・ピースを着て、しゃなりくなりと広間へ入って来たが、生花の枝に袖をひっかけて花瓶を倒し、腰から下をびしょ濡れにしてべそをかいた。

梓さんは長い間衣裳戸棚の中をかき廻していたが、結局いつもの制服のようなプロシアン・カラーの服を着て来た。ちゃんとアイロンがあててあった。

やがて昼食のテーブルについたが、誰も喰べものが喉へ通らないふうだった。

トクさんは塩辛くて喰べられないというし、ピロちゃんは鮎子さんがいつまでも食卓にへばりついているといって拳固で背中をこづいた。キャラコさんのほかは、みな、ちょっとフォークをつけただけでさげさせて、料理番のすぎ婆やを仰天させた。

ちょうど三時五分になると、扉の打金の響きがきこえた。

ユキ坊やとピロちゃんは、ゾッとしたように眼を見合わせ、芳衛さんとトクさんは気が遠くなるような眼つきをした。キャラコさんが立って行って扉をあけると、そこに、四十二三の、スラリと背の高い中年の紳士が、慇懃なようすで立っていた。

ブリチェーズのようになった仕立てのいいトイルのパンツをはき、緑がかった水色の杉織の長胴着の上にしゃれたカバード・コートを着ていた。むぞうさなようで、どこといって隙のないスマートな身ごしらえであった。

紳士が広間へ入って来ると、鮎子さんが煖炉の前の椅子へ案内して森川氏の葉巻をすすめた。紳士は比類のない丁寧な口調でそれを断わると、白い長い指でキリアジを取り出してゆっくりと火をつけた。

蒼白い広い額のしたに煙ったような黒い眼があって、熱情と沈鬱をあらわしている。頬は丁寧に剃られて子供の頬のようにつやつやと光っていた。なんともいえない気品のある鼻と、かたちのいい唇をもっている。顔にはどこか疲れたような色があるが、それは、このすぐれた面ざしに一層の深味をあたえ、たとえようのないメランコリックな美しさをつくりあげていた。

しかし、このやんちゃなお嬢さんたちが、いつまでもそうはにかんでばかりいるわけはなかった。チビの鮎子さんがまず口を切ると、あとは乱脈になって、みな、むやみやたらにしゃべりだした。

ところで、梓さんだけは、たいへんにすましている。どうやら、この山小屋の主人としての品格をたもとうとしているらしかった。

自己紹介をかねたおしゃべりが一段落つくと、話題はスキーのことに移っていった。

紳士は登山家でもあるらしく、グラン・コルニエやエクランに登ったというような話をした。

みなアルプス登山の話を根掘り葉掘りききだした。話の興味よりも、すこしでも長くひきとめておこうという計略らしかった。

「……シャモニイという町のまん中をアルブという川が流れていまして、その上に小さな橋が……」

「あら、素敵ですこと、その橋は、いったい、どんな色に塗ってありますの?」

だいたい、こんなふうだった。

感激家の芳衛さんは、座興までにといって、ヴァイオリンを弾いた。熱心のあまり、すこしキイキイいわせすぎたようだった。演奏が終ると、紳士は音楽の一節をほどよくほめ、来た時と同じように、静かに帰って行った。

毎日、天気がつづき、窓をあけると、一月とは思えぬようなおだやかな微風が、かすかな春の息吹きを含んでそよそよと吹きこんで来る。

詩人の芳衛さんが、深い息をしながら、

「木蓮と薔薇と沈丁花の匂いがする」

と、感傷的な声でつぶやいた。ほんとに、このまま春になってしまうかと思われるような暖かさだった。

みな、あんなにのぼせあがったくせに、いちどお茶に招ぶことに成功すると、それからはチャーミングさんのことであまり大騒ぎをしなくなった。わざわざこちらから出かけて行かなくとも、チャーミングさんのほうから時々遊びに来るようになったし、それに、そろそろ学期のはじまりが近づいて来たので、このごろは級や学校の話ばかり出るようになった。

みな、すこしずつ懐郷病の気味で、スキーもあまりしなくなり、雪やけした頬や鼻にクリームをすりこんだり、両親や友達にせっせと絵葉書を書いたりするようになった。

どの絵葉書も、もうじきお目にかかれてうれしいわ、と結んであった。

誰もかれも急に不精になって戸外へ出たがらないので、梓さんが郵便を出す役目をひきうけ、みなの絵葉書や手紙を集めては、一日一回、ホテルまで持って行った。

こんな日が三日ほどつづいたのち、正午すぎに郵便を出しに行った梓さんが三時ごろになっても帰って来ないので、キャラコさんはそろそろ心配になって来た。

画のじょうずなトクさんはスケッチ・ブックの整理をしているし、詩人の芳衛さんはノートをかかえながらむずかしい顔をして創作にふけっているし、おしゃまのユキ坊やとチビの鮎子さんは、ひとつの鏡をひっぱり合って一しょうけんめいに鼻の頭をなでている。

陽気なピロちゃんだけは気になるとみえて、

「梓ちゃんのやつ、どうしたんだろうなア」

と、いいながら、窓のほうへ行ったり扉の方へ行ったり、ガタガタとうるさく歩き廻った。

トクさんは顔をしかめて、

「放ってお置きなさいよ。きっとまた興にのって、どこかですべっているのよ。お名残りに笠山まで行こうかなあ、なんていってたから」

ピロちゃんは、

「ふうん、そうなのか、ふうん」

と、納得しないような顔つきをしていたが、急にやかましくハーモニカを吹きだした。

トクさんは、とうとう怒って、

「ピロちゃん、うるさいわよ。勉強してるんじゃないの」

と、きめつけると、ピロちゃんは、

「うへえ、大した勉強だな。みんな鼻の頭ばかりなでているじゃないか」

と、やりかえしておいて、ハーモニカを吹きながら二階へあがって行ってしまった。

キャラコさんは、揺椅子にかけて、愉快そうに笑いながら編物をしていたが、心の中はなかなかそれどころではなかった。すこし、気になることがあるのである。

ふだんは、すこしにぎやかすぎるくらいで、独りでいることの嫌いな梓さんが、チャーミングさんがお茶に来た次の日あたりから急にものをいわなくなり、広間の隅や寝室の窓のそばでぼんやりと坐っていることが多くなった。熱のある子供のようなうっとりとした眼つきをし、なにかたずねると、とんちんかんな返事ばかりした。

寝床へ入ってから、あまり静かなので、眠っているのかと思って薄眼をあけてうかがうと、梓さんは、闇のなかで大きな眼をあけて、瞬きもせずに天井をみつめていた。寝息を乱すまいとして、ことさらに規則正しい息づかいをしていることがよくわかった。手が燃えるように熱くなったと思うと、急に氷のように冷たくなったりした。いつ眼をさまして見ても、梓さんの眼はあいていた。

次の朝、いつものように、

「昨夜は、よく眠れて?」

と、たずねると、梓さんは、

「ええ、よく眠れたわ」

と、大儀そうにこたえた。

顔つきが急におとなっぽくなり、それに、血のけというものがなかった。どんな小さなことでも胸のうちにしまって置けず、すぐなんでも話してしまう、気さくな梓さんのこの変りようがキャラコさんを驚かした。

キャラコさんは、梓さんがいま何を考えているかわかるような気がしたが、軽率なあて推量をしてはならないと思って、それ以上は深くかんがえないことにした。もし、自分が推察していることが本当だったら、その時、自分がとるべき態度だけははっきりきめておかなくてはならないと考えていた。

二階で、ピロちゃんが、とぎれとぎれにハーモニカを吹いている。なにか妙なぐあいだった。

キャラコさんは、みなに気づかれないように揺椅子から立ちあがると、そっと広間を出て二階へあがって行った。

ピロちゃんは、こちらへ背中を向けて窓のそばに坐り、しゃくりあげながらハーモニカを吹いている。

キャラコさんは、そのそばに寄って行って、肩に手を置きながら、

「ピロちゃん、どうしたの」

と、しずかにたずねると、ピロちゃんは急にハーモニカを投げすてて、窓枠にしがみついて泣き出した。

「……あたし、梓さんが、どこにいるか知っているの」

キャラコさんの胸のところがドキンといった。できるだけ気軽な口調でたずねた。

「そう、どこにいるの」

ピロちゃんはキャラコさんの腕に手をかけて、

「告げ口だと思わないでちょうだい、ね。……梓さんは、チャーミングさんのところへ行っているの」

「ピロちゃん、あなた、どうしてそんなこと知ってるの」

「あたし、見たの。きのう、二人で散歩しているのを」

そういって、両手を顔にあてていっそう劇しく泣きだした。

「……キャラコさん、あなた、……あたし、いま、……どんなに悲しいか、……わからないでしょう。あたしも、チャーミングさんを好きだったの。……でも、もう、いいの」

急いで涙をふくと、またハーモニカを取り上げて、それを吹きながら階下へ降りて行った。

キャラコさんは寝台のはしに腰をおろして、ジッと考えていた。

二人の交際が、どこまで進んでいるのか知らないが、思い過ごしすることも、多寡をくくることも、どちらも同様に危険だと思った。また、二人の関係がどうあろうと、自分などの口を出せるような事柄ではないのだから、のみこんだふうにうまく取りはからおうとするような軽薄なまねをしてはならないと、よく自分の心にいいきかせた。さしあたって自分のすべきことは、あまり遅くならないうちに山小屋に連れかえることと、一日も早く東京へ引きあげるように提議することだけだと考えた。

キャラコさんは、首にマフラーを巻きつけてそっと玄関からすべり出すと、天狗岩のしたまで行き、ギャップを左に巻いて岩の上へ登って行った。

截り立った断崖の上へ立って見おろすと、陰気な落葉松の林にかこまれた真っ青な木戸池がすぐ眼の下に見える。二人は、池のそばの、何ひとつ物音のきこえないしんとした林の中に並んで坐っていた。二人ながら憂鬱なようすでおし黙ったままいつまでたっても身動きもしない。夕陽が薄れかけ、落葉松の長い長い影が雪の上でよろめいていた。

キャラコさんは、二人のようすをひと眼見るなり、自分が考えていたよりも、もっとたいへんなことになりかけているような気がして、思わず胸がふるえた。

キャラコさんは、梓さんを見つけたら、気軽に誘って連れかえるつもりだったが、このようすを見ると、すぐ思いとまった。誘ったところで、しょせん無駄だとさとったからである。

キャラコさんは、小さなためいきをひとつつくと、山小屋の方へひきかえしながら、祈るように心の中で、いった。

「どうぞ、早く帰って、ちょうだい」

山小屋へ帰ると、夕食の支度ができていて、みなが、梓さんとキャラコさんを待っていた。煖炉のそばへ集まって心配そうな顔をして黙り込んでいた。だれも同じことをかんがえているのだろうが、口に出していうものはなかった。

六時をうつと、キャラコさんはありったけの燭台を持ち出して蝋燭に火をつけて、それをズラリと窓ぎわへ並べ立てた。

山小屋の窓々は、暗い海を照らす灯台のように、明るく、温かくまたたいた。暴風の海へ出た肉親の帰りを待つような真剣な顔つきで、いっしんに窓のそとの物音に耳を立てていた。誰も夕食をするものはなかった。

五人のうちで、陽気なピロちゃんがいちばんしっかりしていて、梓さんがいつも坐る椅子を煖炉のそばへ運んだり、梓さんの上靴を暖めたりして、ひとりで甲斐がいしく働いていた。そして、

「うん、もうじき帰ってくる」

と、いくども同じことをつぶやいた。

七時すぎになって、ようやく梓さんが帰って来た。

唇まで紫色になって、歯の根も合わないように身体をふるわせながら、眼を伏せて煖炉のほうへ寄って来た。裾にも髪にも氷がからみつき、涙をもよおすようなあわれなようすをしていた。

みな、涙ぐみながら、てんでに毛布やクッションを持ち出してきて、幾重にも梓さんの身体に巻きつけて『着ぶくれ人形』のようにしてしまった。

陽気なピロちゃんが、熱い紅茶を持ってきて、梓さんの口もとへもって行った。

「これ、飲みなちゃいね、温たかくなるからさ」

夕食がすむと、思い立ったように、みなが大騒ぎをはじめた。おおげさなだけで、ちっとも活気がなかった。梓さんは、大きな眼をあけて、悲しそうにそれを眺めていた。

ユキ坊やと鮎子さんが、手をとり合っていそいで広間を出て行ったが、しばらくすると、二人とも眼を真っ赤にして帰ってきた。

キャラコさんは、梓さんを朝までしっかりと腕の中に抱いていた。

暁方になって、梓さんが、ひくい声で、ささやいた。

「ママに、来てくれるように、ゆうべ電報をうったの」

次の日の十時ごろ、森川夫人があわてて駆けつけて来た。昨夜、汽車の中ですこしも眠らなかったとみえて、ひどく膚を荒していた。

山小屋につくとすぐ、森川夫人がキャラコさんを二階の部屋へ呼んだ。

「キャラコさん、いったい、何があったの」

キャラコさんは、自分の知っているだけのことを率直につげた。

森川夫人は、むしろ、ほっとしたようなようすで、いった。

「そんなことだったの。……いやなひとね、そんなことで、あたしをこんなところまで呼びつけるなんて」

それでも、さすがに心配らしく、

「それで、どんなふうなの。あなた、きいてくだすって?」

キャラコさんは森川夫人の顔を見つめながら、こたえた。

「いいえ、なにも。……あたしがきいたって、どうにもしようのないことですから」

森川夫人は、すこし顔をあからめて、

「それはそうね。……では、梓を呼んでくださらない。あたしからよくきいてみますから。……よかったら、あなたもここにいてちょうだい。……二人っきりだと、かえって話しにくいかも知れませんから」

と、笑いながら、いった。

入って来た梓さんのようすを見ると、森川夫人の笑いはいっぺんにけしとんでしまった。

「梓さん、あなた、まあ、どうしたの。そんなに痩せてしまって!」

梓さんは顔じゅうが眼ばかりになったような大きな眼で森川夫人の顔を見つめていたが、突然、気がちがったように、

「ママ!……ママ!……」

と、とほうもない大きな声で叫んだ。

森川夫人は、それだけで、もう、おろおろと取り乱し、

「梓ちゃん、あなた、どうしたの、そんな大きな声をして。……ママに御用があるなら、いってみてちょうだい。もうすこし、しずかにね」

梓さんは、両手で森川夫人の手首をつかむと、ギュッと力いっぱいに握りしめながら、

「ママ! あたし、その方と結婚するお約束をしたのよ。反対したりしないでね!」

「まあ、困ったひとね。急にそんなことをいい出して。……あなた、ママにそんな話をするの、すこし、早すぎやしない?」

梓さんは、怒ったような顔つきになって、

「あたし、もう、子供じゃありません」

森川夫人は、ぎょっとしたようすで梓さんの顔を眺めていたが、救いを求めるような眼つきでキャラコさんのほうへふりかえった。

小さな時、脳をわずらったことのある気の毒な森川夫人は、こんな話になると頭の奥のほうがクラクラして、どうしていいかわからなくなってしまうのだった。

それにしても、梓さんはいったい何をいいだすつもりなんだろう。何かおそろしいことをぶちまけそうで、キャラコさんは、すこし恐くなって来た。

森川夫人は、必死な微笑をうかべながら、

「そう、あなたはもう子供じゃないのね。……そんなら、どんなふうに、その方が好きになったか、ママに話せるわね」

梓さんは、まるで暗記でもするような、抑揚のない調子でいいだした。

「ええ、話せます。……その方はね、画の勉強をして、長い間たいへん奮闘したひとなの。いろんなつらい目にあっても、絶望せずにいっしょうけんめいにやり通したのよ。……そんな話をしていると、あまり悲しいことばかりで、その方は泣き出してあとをつづけることができなくなるの。そして、その気持をいろいろなたとえをひいてあたしに説明してくださるの。あたし、そのお話をきいていると、なんともいえないほど気持が沈んできて、急におとなになったような気がするんです」

「それで、あなたのほうでは、どんなお話をするの」

「あたし、まだ子供だから、あなたを慰めてあげることはできませんね、って」

「すると、その方は、どうおっしゃるの?」

「いいえ、あなたは、どんな大人よりもっと大人ですって、おっしゃるの。聡明でもなく、心もやさしくないひとは、いくつになっても子供とおなじなのですから、って。……だから、あなたがこうして私のそばにいてくださるだけで、ずいぶん元気が出るんです。ずっとずっと長くそばにいてくだすったら、もっともっと勇気が出るでしょう、って。……だから、あたし、その方と結婚することにしたの」

「あなたが、結婚しようといったのね」

「いいえ、最初はあの方がおっしゃったのよ。お互いに、こんなに好きになった以上、結婚するのが本当だって。……あたしが結婚してあげなければ、あの方は死んでしまうかも知れないわ。……もういちどお目にかかれるでしょうね。もし、もうこれでお目にかかれないんなら、私は、たぶん、もう生きていません、って」

梓さんは、ちょっと言葉を切ると、急に眼にいっぱい涙をためて、ほとばしるような声で叫んだ。

「あたしだってそうよ。ママ、あたしだって、そうなの!」

森川夫人は弱りきった心をおしかくそうとするように、すこしきつい口調になって、

「あたし、あまりあなたを甘やかしすぎたようね。あなたはまだやっと十八になったばかりなのよ。それに、その方はあなたより二十も二十五も年上の方なのでしょう。もう、およしなさいね、そんなお話は……。ママも聞かなかったことにしますから」

「お願いです、ママ!」

「いいえ。……ママはその願いをきいてあげることはできませんが、あなたをほんとうに幸福にすることは知っているつもりです。どうか、ママのいうことをきいて、ちょうだい」

「ママの考えていらっしゃる幸福が、そのままあたしの幸福になると考えていらっしゃるならそれはあまりママの勝手です。……ママの考えている幸福でなく、あたしが本当にしあわせになれるようにして、ちょうだい」

「ともかく、その話は、もうよしましょうね。あまり、馬鹿げているから」

梓さんは、みるみる真っ青な顔になって、

「ママ、それじゃ、あたし、死んでもいい?」

と、痙攣ったように叫ぶと、キャラコさんのほうへ両手を差し出しながら、

「たすけて、ね。……たすけて、ちょうだい」

キャラコさんは梓さんのそばへ駆け寄って、やさしくその手をとりながら、

「どうしたの、梓さん」

梓さんは、錯乱したようにキャラコさんの手をにぎりしめて、

「キャラコさん、あたしを、死なせないで!」

そして、寝台の上に突っぷすと、今にも絶えいるかと思うばかりに劇しく泣き出した。

このあわれなようすを見ると、森川夫人は我慢も耐え性もなくなったように梓さんのそばに走り寄って、腕の中に抱きとり、

「梓ちゃん、ママがきっといいようにしてあげますから、そんなに泣かないで、ちょうだい。あなたをこんなふうにしたのは、あまり甘やかしすぎたママの罪なのよ。……ママを撲ってちょうだい。……ママを撲ってちょうだい」

と、いいながら、頑是ない子供のように泣き出した。

それから間もなく、キャラコさんがホテルへチャーミングさんを迎いに行った。

森川夫人は、広間の煖炉のそばで梓さんの愛人がやってくるのを待っていたが、おいおい、気が落着くにつれ、いま自分の娘に襲いかかっている危険がどんなひどいものか、だんだんはっきりして来た。

梓の話をいろいろ思い合わせると、感じやすい少女の心につけこむその男の、抜け目のない慇懃なやり方が、何もかもすっかりわかるような気がする。どう考えても、下劣な女蕩しのやり口だとしか思われない。もし、そうだったら、どんなことがあっても手をひかせなくてはならないと決心した。

一時間ほどすると、チャーミングさんが山小屋へやって来た。顔色はいつもより蒼くなり、眼つきはいっそう沈んで、ひどい不幸にあったひとのようなようすをしていた。

キャラコさんの案内で広間へ入って来たチャーミングさんをひと眼見ると、森川夫人はたちまち蝋のように真っ白くなり、よろめくように椅子から立ちあがった。

チャーミングさんは、森川夫人の妹の房枝さんが、外務参事官のお父さんと巴里に住んでいたころの愛人だった。

チャーミングさんはそのころから画の勉強をしていて、二三の画商に才能を認められていたが、画かきというよりはむしろ詩人といったほうがいいような極端な夢想家で、仕事をするよりは寝ころんで夢を見ている時間のほうが多かった。ひどい移り気で、何かにひどく熱中するかと思うと、すぐ飽きて、次の日になると瘧でも落ちたように見向きもしなくなる。熱烈で慇懃で聡明で執拗で冷酷で、……要するに、生まれながらあらゆる悪魔的なものを身につけたような男だった。

房枝さんは、そのころ二十歳になったばかりの心のやさしい娘だったが、わずか半年ほど楽しい日を味わっただけで、古い上靴のようにあっさりと捨てられてしまった。薄情な愛人の心をひきとめようとして、若い娘が考えつく限りのことをしたが、結局、つらい思いをしてあきらめるほかなかった。そして、その年の秋、胸を病んで死んでしまった。

その後、チャーミングさんの絵がリュクサンブウルの博物館にはいったという評判や、相変らず独身で南仏蘭西を遊び廻っているという噂を耳にしたが、この七八年、ふっつりと風聞をきかなくなった。

そのチャーミングさんが、こんどは梓の愛人として、十八年もたったいま、とつぜん森川夫人の前に現われて来た。

チャーミングさんは、すらりとした長身をゆったりと椅子の中にのばし、沈鬱な眼ざしで静かに煖炉の火を見つめている。長らくの放蕩で、どこか疲れたようなようすをしているが、美しい面ざしはむかしとすこしも変わらない。

森川夫人は、思わず絶望しうめき声をあげた。

じっさい、女の敵の中で、チャーミングさん以上に恐ろしい相手はない。どの女も、うち勝つことができなくて、みな、この男に滅ぼされてしまった。とても自分などが太刀打ちできる相手ではないと思うと、心が萎えたようになって、何をいうのも覚束ない気がするのだった。

しかし、この男のために、妹までか、だいじなたったひとりの娘の幸福までがむざむざとふみにじられるのかと思うと、心の底から怒りがわいて来て、どんなことがあっても娘を奪いかえさなくてはならないと奮い立った。もう必死だった。子供の愛情のまえには、なりもふりもかまわなくなる、母のあの崇高な錯乱だった。

端正に膝に手を置いてしずかに微笑しながら、森川夫人はこころのなかで泣いていた。悲しみとも憤りともつかぬ痛烈な涙が、胸の裏側をしとどに流れおちた。

「……あなたは、いつもお美しいわね。あれから、もう何年になりますかしら。ちっともお変わりにならないわ」

チャーミングさんの頬に、瞬間、血の色がさし、悩ましそうな眼ざしで、森川夫人を見つめながら、

「十八年! ……あのひとのことを、たった一日も忘れたことのない十八年……」

感情を押ししずめるように、すこし、息をとめてから、

「……私はさんざんに放蕩をしましたが、いつも、私の心の奥に住んでた、たったひとつの俤は、いちばんはじめに、私の胸に訪れた、伊太利風の夏帽子をかぶった、シャヴァンヌの絵のようなあのひとの俤だったのです」

森川夫人は、思わず怒りに胸をふるわせて、叫ぶような声で、いった。

「房枝は、あなたに捨てられた女よ」

チャーミングさんは、静かに手でおさえながら、

「……ツルゲーネフの小説にありますね。……広い世の中へ出て行ったら、こんなちっぽけな田舎娘とくらべものにならぬような美しいやさしい女が大勢いると。……その男は、すがりつくようにする娘をふり捨てて都会へ出て行った。……しかし、白髪になるまで、その田舎娘ほどやさしい、そして真実な女にめぐり逢うことができなかった。……この、後悔ほどつらく悲しいものはありません。これは、放蕩児が受けなければならぬ劫罪なのです。……私は、放蕩に疲れきったあとで、ようやく、真実な愛のねうちをさとったのでした。……私はむかしのひとの俤を探して歩きました。……それから、もう何年になるでしょう。……そして、この期になって、思いがけなく落葉松にかこまれた池のそばでその俤に出逢ったのです。……むかしのあのひとのように清らかで、むかしのあのひとに生き写しでした。……夢でなければ、それこそ不思議だと、その時、私はそう思いました」

なんという不思議な男だろう。ものうげな、しみじみとしたその声をきいていると、ひき込まれて思わず夢心地になる。

森川夫人は、いっしんに気をとりなおして、

「さあ、もうずいぶんしゃべりましたね。そのくらいにして置いてください。……あなたは、梓があたしの娘だとわかったら、あの娘からだまって手をひいてくださるでしょうね。……あの娘の幸福を思ったら、どうぞ、黙ってここから出て行って、二度と梓の前に現われないでください」

チャーミングさんは、悲しそうに首を振って、

「でも、私に別れたら、梓さんはきっと死んでしまうでしょう」

森川夫人の頭のすみを、あわれに取り乱した梓さんの姿がチラとよぎった。やるせない涙がクッと胸さきにつっかけて来た。梓は、ほんとうに死ぬかも知れない。妹もあの時そうだった。いよいよ最後の決心をしなければならない時が来たと思った。

(たとえ、どんなひどい嘘をついても!)

森川夫人は、微笑しながら、

「あなたは、ほんとうにあの娘を愛してらっしゃいますか」

「あなたは、何んということをおたずねになるのです」

「そんなら、……もし、そうなら、あなたは、あの娘を死なせるようなことはなさらないでしょうね」

「いのちがなんでしょう! ……夫人さん、あなたは愛情というものを、たいへん低く見ていらっしゃる」

森川夫人は、しずかに、いった。

「愛情というものを信ずればこそ、そう申しあげるのです。……朝治さん、ほんとうのことをうち明けますが、じつは、梓は房枝の娘なのです。これは、どういう意味か、あなたにはよくおわかりになるでしょう。あたしの申しあげることは、これだけですわ」

それから、十五分ほどすると、チャーミングさんは、影のようになって、よろよろと山小屋を出て行った。

夕食がはじまったが、梓さんは広間へ降りてこない。

チャーミングさんが山小屋へやって来ると、キャラコさんは、みなをひとまとめにして乾燥室へ押し込んで『おはなし』をはじめた。梓さんは、すっかり落ち着いてニコニコしながらきいていたが、三十分ほど前、ちょっと、といって二階のほうへあがっていったきり、乾燥室へ戻ってこなかった。みなは寝室へ長くなりに行ったのだとばかし思っていたが、部屋の中は、からっぽだった。

玄関へ行ってみると、梓さんのスキーがなかった。森川夫人が思い切った告白をしたすぐあとで、玄関のほうで、何かかすかな物音がした。梓さんはたぶん、そのとき出て行ったのだろう。

森川夫人は蒼くなって泣き出した。もの狂わしく、キャラコさんを広間へ呼び入れると、チャーミングさんに手をひかせるために、梓さんがチャーミングさんの娘だなどと、ありもしない事を言い切った事情を手短かに物語って、

「キャラコさん、梓はあのお話をきいて悲しがって死にに行ったんです。……どうぞ、梓を助けてね、助けてちょうだい」

キャラコさんが玄関から駆け出して、スロープを見おろすと、さっき降った雪の上に、山のうらの白樺の平地のほうにつづいている真新しいシュプールを見つけた。梓さんは木戸池へ行ったのだ。森川夫人が、泣きながらいった。

「玄関に物音がしたときに梓が出て行ったのだとすれば、今ごろはもうだいぶ行っているわけね。今から行って、うまく追いつけるでしょうか」

トレールを迂回せずに、尾根を伝っていきなり天狗岩の上へ出て、藪の急斜面を池のほうへ滑降しさえすれば、どうにか追いつける自信があった。

「ねえ、追いつけるでしょうか」

キャラコさんは、ちょっと考えてから、しっかりした声でこたえた。

「やってみますわ」

「丸池ヒュッテの男たちに一緒に行ってもらわなくてもいいかしら」

「あたしひとりのほうがいいと思いますわ。あまり、おおげさにしないほうが」

夫人は、不安そうに、

「それもそうね」

と、いって、両手の中でギュッとキャラコさんの手をにぎりしめると、

「キャラコさん、ほんとうにお願いしてよ。あなただけが頼りなのですから」

「ええ」

「どうぞ、梓を助けてやって、ちょうだい」

キャラコさんが、強くうなずく。

「どんなことがあっても!」

おろおろと取り乱す夫人を励ますように、その腕へ手をかけてゆすりながら、元気な声で、いった。

「だいじょうぶですわ、おばさま、そんなにご心配なさらなくとも。……きっと無事に連れて帰って来ますわ。お約束してよ」

キャラコさんは、たいへん落ち着いていた。すくなくとも、表面はそんなふうに見えた。あわてふためく芳衛さんやトクさんを差図して魔法瓶に熱い紅茶を詰めさせ、厚い毛の下着とブランデーをルックザックにいれて背負うと、キュッと口を結んで玄関からすべりだした。

雪の上に月が照り、空も、斜面も、林も、影も、なにもかも、みな真っ青で、まるで夢幻の世界のようだった。

五人は、嵐に追いまくられた小鳥のようなようすで、二階の寝室でひと固まりになって坐っていた。芳衛さんは揺椅子のなかへ沈みこみ、トクさんは寝室のはしへ腰をかけ、鮎子さんとおしゃまのユキ坊やは、しんとした夜の雪山を眺めながらためいきをついていた。陽気なピロちゃんだけは、例によって、床の上へ胡坐をかいてのん気な顔で西洋雑誌の絵を眺めている。

(梓さんが、自殺するために池のほうへ急いでいる……)

あまり唐突すぎて、どう考えていいのか、理性でも感情でもうまく処理することができなかった。

鮎子さんが、長いためいきをつく。窓ガラスに額をあてたまま、虫の鳴くような声でつぶやいた。

「キャラコさん、うまくやってくれるといいな。……もう、どのへんまで行ったかしら……」

陽気なピロちゃんが、ゆっくりと頁を繰りながら、大きな声でいった。

「心配しなくとも大丈夫だよ。きっと帰ってくる」

ユキ坊やが、ふッ、と短いすすり泣きの声をあげる。

「あてにならないわ。そんなこと誰れが保証するの。……ひょっとして、梓さん、死んで帰ってくるんじゃないかしら」

誰も返事をしなかった。

みなの心に、不安な思いが、またドっと雪崩のように落ちかかって来た。

(死んで帰ってくるかも知れない……)

……キャラコさんが、シオシオと山小屋の扉口へ姿をあらわす、そして、

「とうとう、間に合わなかったわ」

と、低い声で、みなに告げる。

キャラコさんのうしろから、木戸池小屋の小屋番にかつがれた梓さんが入ってくる。熱情家で、誰れよりも聡明だった梓さんが、死体になって広間の長椅子の上に横たえられる。……棒のようにカチカチになった髪に氷がキラキラとからみつき、胸の上に手を組み合わせて、ひっそりと眼を閉じている。死んでしまった梓さんの白いさびしそうな顔……。

芳衛さんが、揺椅子の中で、急に身体を起こす。椅子が、ひどい音をたててキュッと鳴った。鮎子さんとユキ坊やが、おびえたように、ギョッとこちらへ振り返った。

芳衛さんが、嗄れたような声で、いった。

「どうしよう。……ともかく、たいへんなことになったわね。……悲惨だわ、あたしたちにしたって……」

鮎子さんが、眼をあげてチラと芳衛さんの顔を眺め、また、すぐ眼を伏せてしまった。

芳衛さんがどんな意味のことをいっているのか、すぐ、みなの心に通じた。これは、梓さんだけのことではない。ここにいる同じ年ごろの五人の人生にもたいへんな関係のある問題だった。

「梓さんのやつ、助かってくれるかしら。さもないと、やり切れないことになるわ」

トクさんが、寝台の上で身体をゆすった。

「ほんとうに、助かってもらいたいわ」

芳衛さんが、とつぜん甲高い声をだす。

「要するに、あたしたちは観念だけで生きているんだということがよくわかったよ。……ともかく、たいへんな教訓だったわ、あたしたちにとっては!」

トクさんが、悲しそうな眼つきで、うなずいた。

「……あんたのいう通りだわ。……それにしても、すこし、情けなすぎるわね。あたしたち、恋愛だけでしか生活を豊富にすることを知らないのだとすれば!」

芳衛さんは、頭を振って額へふりかかる髪の毛をはらいながら、

「そうよ、そのほかに、いったい、何があるというの?……生活の目標もなければ、生活する力もない。……なんでも知っている。そのくせ、具体的なことは何ひとつ知らない。正直なところをぶちまけると、本の読み方さえろくに知っていないんだわ。これではあまり希望がなさすぎるわね。だから、こんなことになるんだわ。……もちろん、梓さんの罪ではない。……要するにあまりあたしたちをほったらかしすぎるからいけないんだ。あたしたちの時代にてんで眼を向けようともしないのがいけないんだわ。……学校を出さえすれば、あとは嫁にやってしまうだけなんだから、せいぜい勝手なことをさせて置くさ。……こんなのを、自由というのかしら。……むしろ、惨酷といったほうがいいわ。……いい加減に扱われているんだよ。たしかに、見捨てられているんだ。……あたしたち、まだ独り歩きなどできないんだから、こんな意味で、個性なんか尊重してもらいたかないわ」

トクさんは、感情の迫った声で、いった。

「その通りだわ。……古い生活の形式が死んで、まだ新しい生活の形式が生まれて来ない。あたしたちは、いま、そんなちぐはぐな時代にいるのね。とりわけ、あたしたちのような、間もなく世間へ送り出されようとしている若い娘がいちばん苦しんでいるんだわ。……どうしていいかわからない。どこを目あてに生きてゆけばいいのか見当がつかない。だから、恋愛なんかにばかり追従するようになるんだわ。情けないわね」

トクさんが、とつぜん寝台からすべりおりると芳衛さんの方へ歩いて行って、二人で手をとり合って劇しく泣き出した。

「梓さん、気の毒だ」

「あたしたちもよ!」

鮎子さんとユキ坊やは、無言でうつ向いていた。

陽気なピロちゃんが雑誌を捨てて立ちあがると、二人の肩の上にそっと手を置いた。

「泣くのよしなさいね。……梓さんは死にやしないよ。……すくなくとも、死にになんか行ったんじゃないと思うわ」

ユキ坊やが、眼を輝かせながら、大きな声で、叫んだ。

「ボクも、そう思う!」

「梓さんは、死にになんか行ったんじゃない。すくなくとも、そう考えるべきだわ。ボクたちは、そんな弱虫じゃないんだ」

芳衛さんが、泣きやんだ。

「そうね。……せめて、そんなふうに希望を持たなければ、とても、やり切れないわ」

ピロちゃんが、やっつけるような口調でいう。

「希望じゃない、真実さ。……あたしたちは、お互いの勇気を、もっと信用し合わなくてはいけないな」

「だから、いい教訓だといったわ」

「ほらね、ちゃんと知ってるじゃないか。……泣くことも、恐がることもいらないんだ。だまって信じてればいいんだよ、梓さんの理性を」

ユキ坊が、とつぜん横合いからひったくった。

「あたしたち、いくども誓い合ったわね。いろんな場合に理性でやってのけよう、って。……自分たちの時代のためにも、もっと、しっかりする義務があるって。……梓さんだって、たぶん、それを忘れちゃいないよ。決して、馬鹿げたことはしない。あたし信じてる!」

ピロちゃんが、うなずいた。

「そうなんだ。……キャラコさんを見ろよ。ちっとも、うろたえてもいなければ、あわててもいなかったぜ。キャラコさんは梓さんの理性をちゃんと信用しているんだ。……間もなく、きっと連れて帰ってくる」

鮎子さんは、うれしそうに手を拍ち合わしながら、

「そうよ、そうよ。きっと、連れて帰ってくるわ。すくなくとも、そう考えるほうが、友情というもんだわ」

トクさんが、ようやく泣きやむ。

「そうね、たしかにそうだったわ。……でもね、……じゃ、いったい、何しにわざわざ池へなど行ったのかしら」

ユキ坊やが、はぐらかすように、いった。

「こんなことぐらいじゃ死なないって、よく自分自身にいいきかせるためにさ」

ピロちゃんが、たしなめる。

「そんなふうに、ふざけるのはよしなさい。……何しに行ったか、って? トクさん、それは、あなただって知ってるはずだわ。……つまり、ひと泣き、泣きに行ったのさ。それくらいのことはゆるさるべきだわ。あたしたちは、まだ若いんだから……」

みな、すこしずつ元気になった。鮎子さんが、また、だしぬけに大きな声で、いった。

「……ねえ、梓さんが死にに行っただなんてまっさきに騒ぎ出したのは、いったい誰だったの?」

ピロちゃんが、こたえた。

「森川夫人さ」

「ああ、そうだったわ。それで、みな、釣り込まれてしまったのね、いやだわ」

芳衛さんが、人がちがったような快活な声で、いった。

「そんなにも、あたしたちを知らなすぎるんだわ。すこし、説明してあげる必要がありそうね」

トクさんが、すぐ受けて、

「そうね、慰安のためにもね。……ともかく、おばさまをあんなふうにひとりで放って置いてはいけないわ。みんなで行って、何かお話でもしてあげましょうよ」

ピロちゃんが、元気よく立ちあがった。

「賛成だ。ボク、うまい話をしてやる」

五人が広間へ降りて行ってみると、森川夫人が、煖炉のそばの安楽椅子に沈み込んで、ひとりで泣いていた。

五人は、森川夫人を取り巻いて床の上へ坐った。

ピロちゃんが、のんきな声で、いった。

「おばさま、そんなにお泣きにならなくとも大丈夫ですよ。梓さんは、もうじき帰って来ます。なにしろ、キャラコさんがちゃんと引き受けたんだから。……おばさま、あなた、ちっともご存知ないんですよ。あたしたち、どんなに元気があるか!……子供のようにしか見えないのは、あなたのお勝手だとしてもね!」

踏みつける雪が、スキーの下でキュッキュッと鳴る。

雪の原のはるか向うに、栂の樹に吹きつけられた雪が団子のようにかたまりついて、大きな雪人形のような奇怪なようすで立っている、降ったばかりの雪の上に、シュプールが、一本、まっすぐにその方へつづいている。梓さんがすべって行ったあとだ。

それにしても、なんという広大な雪の世界だろう。涯しもない茫漠たる雪原がただ一面に栄光色に輝いて、そのすえは同じような色の空のなかへ溶けこんでいる。雪の大海原。しんとした蒼い光暈の中を、たった一人で進んで行くと、このまま月の世界へでも入って行ってしまいそうなふしぎな幻想に襲われる。

キャラコさんは、とりとめのない、蒼白い雪原の中で、さかんな雪煙りをあげながら緩傾斜のトレールをしゃにむにのぼって行った。

キャラコさんは、梓さんがこのくらいのことで自殺するはずがないと固く信じていた。しかしまだ人生の複雑な起伏をあまり多く経験していないので、こんな場合、感情がどんな昂揚のしかたをするものか、はっきりとわかりかねるところがあった。

梓さんは、房枝叔母さまを捨てた無情な愛人は、実は、チャーミングさんで、しかも、自分がそのひとの子供だということまで聞いてしまったのにちがいない。梓さんばかりではなく、この年ごろの少女にとっては、これは、たしかに致命的な打撃だったに相違ない。

キャラコさんは、梓さんのしっかりした気質に充分期待をかけているのだったが、打撃のひどさを考えると、その自信もゆらぎかける。もしや、と思うと、気がうわずって来て、つい焦り気味になってしまう。

(ともかく、すこしでも早く行きつかなくては!)

無事なうちにつかまえることができたら、娘への愛のために、錯乱して嘘までいう母の心というものをわからせて見せる自信があった。それさえ説明すれば、自分の不幸な恋愛が、頭の弱い母をどんなに悩乱させたかはっきりと了解するにちがいない。

今、さし迫った問題は、神秘的なようすをしたあの青い池の水が梓さんを呑み込む前に、うまくそこへ行きつけるかどうかということだった。さすがに、気が気でなかった。

天狗岩の下まで行きつくと、近道をするためにスキーもはいらないような藪の深い急坂勾配をまっすぐに登りはじめた。見透しもつかないほどの密林で、それに、セカセカと急ぐので足の調子がうまく行かなかった。海豹皮がきかなくなってズルズルとすべり落ち、そのたびに雪の積った枝に足をとられてみごとにひっくり返った。藪がひどいのとルックザックを背負っているのとで、起きあがるまでの苦労はなみたいていのことではなかった。

汗が顎を伝わって胸のほうへ流れ込み、咽喉がカラカラに乾いて呼吸をするたびにヒリヒリと痛んだ。このままここでへたばってしまうかと思われるようにひどい苦しさに耐えながら、笹や木の枝につかまって一歩一歩登って行った。

見あげるような大きな岩塊のすそを廻って、ようやくその上へはいあがると、すぐ眼の下に木戸池が西洋の手鏡のようなかたちをして、ひっそりと銀色に光っていた。

池を取り巻いている落葉松の林の中に、黒い人影がひとつ見える。

梓さんだった。

梓さんは、雪の上に坐ってぼんやりと池を眺めていた。

キャラコさんは、思わず心の中で叫んだ。

(間に合ってよかった!)

キャラコさんは、大きく呼吸を吸い込むと、池のほうへ逆落しになっている急傾斜をすべり降りはじめた。樹の空いているところを見透かしては、十尺ぐらいの空間を直滑降で飛ばし、樹の幹のすぐ前で雪煙りをあげて急停止する。キャラコさんは、スキーに大して自信がないので、それこそほんとうに、命がけの仕事だった。

やっとの思いで密林の急斜面をすべり降りると、池の縁についてゆっくりと梓さんのほうへ近づいて行き、スキーをぬいで、黙ってそのそばに並んで坐った。

梓さんは、キャラコさんがやって来たことに気がつかないように、振り向いても見ようとしない。吸いとられるような眼つきで、薄氷の張った池の面をジッと見つめている。頬も唇もすき透るように蒼くなって、まるで蝋人形のようなようすをしていた。

キャラコさんは、なんともつかぬ深いため息をつく。

いいたい事はいろいろあるし、どうすれば慰めることができるかよく知っていたが、そんなことは、まるっきり必要がないように思われ出してきた。こうして黙ってそばに坐ってさえいれば、それで、充分心が通ずるのだと思った。

月が、西へ廻り、雪の上の影が、ゆっくりと池の水ぎわのほうへ移って行く。

永久とも思われるような長い時間だった。二人はひとことも口をきかずに、ひっそりと雪の上に坐っていた。

キャラコさんは、もう山小屋のことも、森川夫人のことも、芳衛さんたちのことも、なにひとつほかのことは考えていなかった。雪の冷たさも、夜の寒さも、まるっきり感じなかった。ただ梓さんが気の毒で、そのことだけでいっぱいだった。

(いま、どんな悲しい思いが梓さんのこころの中にあるのだろう。……でも、梓さんは、ひとりでいるのではない。こうして、あたしが、そばに坐っている……)

このことだけは、いくぶんでも梓さんを慰めるにちがいないと思った。

ほのかな夜明けのけはいがして、林の中で小鳥が、チチと鳴きはじめた。

キャラコさんは、ふと気がついて、ルックザックから魔法瓶を取り出し、熱い紅茶を茶碗に注いで、それを梓さんのほうへ押しやった。

梓さんは、チラと眸をあげ、大きな深い眼でキャラコさんの顔を眺めると、おずおずと茶碗のほうへ手を伸ばしてそれをとりあげた。両手の中に茶碗をはさんで、しばらく手を温めてから、そっと口のほうへ持って行った。

キャラコさんが、低い声でたずねた。

「美味しくて?」

梓さんが、眼を伏せたまま、コックリと、うなずいた。

「……やはり、生きていてよかったわ。……なんであるにしろ……」

そういって、飲みかけた茶碗を雪の上に置くと、両手を顔へあてて劇しく泣き出した。

Chapter 1 of 1