三
何ものも、母堂の上機嫌を損うものがなかった。
いわんや、キャラコさんは、むやみに食べる。最後の一杯などは、もう、死んでもいいと思って、喉の奥へ送り込んだ。
あまりたくさん詰め込んだので、頭の奥のほうが霞でもかかったようにボンヤリしてきた。庭のほうから涼しい風がたえず吹きこんで来て、思わずウトウトとなる。手紙のことなどは、もうどうでもよくなる。意識のずっと向うへ押しやられて、朦朧とぼやける。良心も、キャラコさんも、いっしょになって、うつらうつらしはじめる。
「ほんとうに、よく食べておくれだったね。……でも、こんなじゃ、お嫁に行ったらどうするだろう。それが、心配だ」
母堂がこんなことをいっているのが、ぼんやりと耳にひびいてくる。
キャラコさんは、ニヤリと笑って見せる。ものをいう元気などない。そうするのが、せい一杯のところである。瞼がだんだん重くなって来て、とろけるように眠い。
母堂が、また、何かいっている。
「さあ、メロンをお喰り。……まだ、すこし若いかも知れないが」
メロン……、メロン……。いったい、メロンって何んのことだっけ?
「……おいおい、眠るつもりなのかい。寝るなら寝てもいいけど、喰べてすぐじゃ毒だよ。……離屋の悦二郎の書斎へでも行って見なさい。懸巣がいてね、それが、よく馴れて面白いことをする……光るものを投げてやると、嘴でヒョイと受けるよ」
離屋の書斎!
いっぺんに眼がさめた。
(そうそう、たいへんなことがあるんだった!)
キャラコさんの背筋を、また、こそばゆいものが上ったり下ったりしはじめる。
いままでの呑気な気持がどこかへ消し飛んで、日暮れがたのような滅入った気持になる。足元から絶えず風に吹きあげられているような、なんとも手頼りない感じである。
(こんな具合ではしようがない。どうせ、やるにはやるけど、まだ、はっきりした決心がついていないようだわ。やはり、それまで、待たなくては……)
キャラコさんは、あわてて異議をとなえる。
「でも、おるすにはいり込んだりしてはいけないでしょう。あとで叱られそうだわ」
母堂は、はッはと、笑い出して、
「あの、のんき坊主が、なんで、そんなことを気にするものですか。面白いから、行って見ていらっしゃいよ」
キャラコさんが、蚊の鳴くような声で、いう。
「今でなくては、いけませんの」
マジマジと、キャラコさんの顔を瞶めて、
「なんて、情けない声を出すの。ゴシャゴシャいってないで、すこし運動していらっしゃい。……さァ、立ったり、立ったり……」
キャラコさんが、あきらめてシオシオと立ちあがる。
「まいりますわ。……でも、おばさま、一緒に行ってくださるでしょう」
母堂は、ぷッと噴きだして、
「いやだ、このひとは。ひとりじゃ、こわいのかい。……ほんとうに、どうかしているよ、今日は。……よしよし、じゃア、一緒に行ってあげよう」
なんとなく、脚がふらつくところへもってきて、庭下駄の鼻緒がうまく足の指にはさまらないので、キャラコさんは時々よろめく。首を垂れて、いわば、屠所の羊といったぐあいにトボトボとついてゆく。
さっきは雲煙万里だと思っていたのに、こんどはいやに近い。ものの二十歩も歩いたと思ったら、もう離屋の玄関へ行きついてしまった。
式台の端の花けに昼顔がけてある。水をやらないものだから、花が、みな、のたりと首を垂れている。
「おや、おや、せっかくけてやっても、これだから……」
遠くから庭下駄の音が近づいて来た。玄関から女中が顔をだす。
「ああ、そうか。よし、よし、すぐゆく」
キャラコさんのほうへ振り返って、
「いますぐ来ますから、あなた、ひとりで入っていてちょうだい。税務署からひとが来たから……」
そういい捨てて、女中と二人で母屋のほうへ行ってしまった。
キャラコさんが、書斎の入口に立つ。息づまるような瞬間がきた。
書斎のなかは、妙にしんとしずまりかえり、時々、かすかに小鳥の翔の音がきこえるほか、なんの物音もひびいて来ない。
数寄屋づくりの檐の深い建物なので、日射しは座敷の中まで届かない。窓のそとは、くゎッと明るくて、樹々の葉も、庭土も、白く燃えあがっているのに、部屋の隅々はおんどりとうす暗くていろいろな家具が、畳の上によろめくような翳を落している。なんとなく妖しげで、これから犯罪が行なわれようとするのに、うってつけの場面である。
大きな本棚の中で本が立ったり寝ころんだりし、鳥箱や、鳥籠や、雀の巣などが雑然と載っている。その横に、ニスの剥げた大きな書机が、こちらへズラリと抽斗の列を見せて、ゆったりと坐っている。
一瞥しただけで、急に胸がドキドキしはじめる。克服してやろうと思って、せい一杯に息を吸いこむ。ところが、なかなか深呼吸ぐらいでは追いつかない。
(あたしは、いま、落ち着こうとしてるんだわ)
そう思った瞬間、自分の沈着にたいする日ごろの自信がドッとばかりに崩れ落ちて、まるで復讐でもするように、胸のドキドキが一層ひどくなる。
ベートーヴェンの運命交響楽、『忍びよる運命の跫音』といった工合に、鼓動のチンパニが重苦しいリズムに乗って、急調から急速調に、弱音から最強音へと発展する。
心臓ばかりではない。ドキンドキンはいたるところにある。こめかみにも、手頸にも、足の爪先にもある。身体じゅうのいたるところで、調子をそろえてドキンドキンとやる。
なんであろうと、いよいよ決心しなければならない時が来た。キャラコさんは、額に皺をよせ、ギュッと唇を噛んで書机を睨みつける。
書机は、わずか五六歩ばかり離れたところにある。青羅紗の上で、小さな紙きれが風に吹かれてヒラヒラしている。それが、さあ、やっておいで、わけはないじゃないか、と誘いかけているように思われる。そこまで歩いて行って、抽斗の中の手紙を盗みだすぐらいのことは、いかにも一挙手一投足のわざである。
(盗む……)
この言葉が、とつぜん異様な重苦しさで胸をしめつける。
耳のそばで、こんな声がきこえる。
(お前は、いま、飛んでもないことをやらかそうとしているんだぞ!)
キャラコさんの背筋を、ゾッとするような冷たいものが走りすぎる。
じぶんは、今日以後、一度も心にはじることをしたことがなかった、という、嬉しい感情を味わうことはできない。
(あたしは、いちど、ひとのものを盗んだことがある!)
この、忌わしい、情けない記憶は、今後、終生心にまつわりついて、じぶんを責め立てるだろう。明日からの朝の寝覚めは、もう、清々しさを失うであろう。
キャラコさんは息苦しくなって、両手で喉をつかむ。心の中で、灼けつくように、ねがう。
(早く、誰か入って来てくれればいい)
ところで、耳をすまして見ても、誰もこっちへやってくるらしい気配はない。庭にも母屋にも、人声ひとつきこえず、森閑とひそまりかえっている。このしずけさがキャラコさんの心を竦みあがらせる。とうとう、どたん場へ押しつめられてしまった。
一人のキャラコさんが、さいそくする。
――早くやっつけろ、どっちみち、やらなければならないんだ。
べつのキャラコさんが、こたえる。
――どういう動機で動いていいかわからないわ。
――動機もくそもあるもんか。ひと足踏み出しさえすれば、あとは自然にうまくゆく。
キャラコさんは、渋々承知する。死んだ気になって、ひと足書机のほうへ踏み出す。案外、わけはない。
一歩、二歩、三歩……。
いわゆる、忍び足というやつで、猫のように、虫のように、そろりそろりと這ってゆく。
ようやく、書机に行きつく。
キャラコさんが、元気のない声で、つぶやく。
「とうとう、やって来た」
書机は、すぐ眼の前に、手を伸ばせば届くところにある。
ところで、それは書机なんてものじゃない。まるで、城のように、絶壁のようにそそり立って、冷然とキャラコさんを見おろしている。抽斗は、みな、キュッと口を結んで触りでしたらただではすまさないぞ、というふうに意地の悪い眼をむいている。
キャラコさんは、ムッとする。敵愾心を起す。
(やろうと思えば、こんなことぐらいわけなくやれてよ)
思い切って手を伸ばす。右の、上から二番目の抽斗に指先が触れる。チカッと、火傷をしたような痛みを覚える。指が抽斗の曳手にかかる……
その瞬間、なにか形容し難い戦慄が、電光のように頭のてっぺんから爪先まで差しつらぬいた。
自分のうしろで、なにか、物に触れ合うような異様な気配を感じた。キャラコさんは、ぎょッとして、ふりかえる。
この部屋の中に何かいる!
もの静かな息づかいをしながら、微妙に動き廻っているものがある。
気のせいではない。何か模糊としたものが、まじろぎもせずに、じぶんを瞶めている。
キャラコさんは、不安な眼差しで部屋の中を見廻したが、なにものも見当らない。寒々とした気持になって、夢中で部屋の中を探し廻る。ふと、壁ぎわの寝台の下を覗くと、その下闇の中に、燐のようなものが二つ蒼白い炎をあげている。
お雪さんというペルシャ猫だった。
キャラコさんは、ホッとして、額の汗を拭く。
「おやおや、お雪さんだったの? 遊んであげたいけど、いま、ちょっとご用があるから、しばらく戸外へ出ていてちょうだい。……あなたに、見ていられると、あたし、困るの」
猫を抱きあげて窓から庭へおろしてやる。
お雪さんは、お愛想に、ザラリとした舌でキャラコさんの手の甲を舐めてから、足を振りながらゆっくりと母屋のほうへ歩いて行ってしまった。
これで、邪魔物はいなくなった。いよいよ、とりかかる番だ。
書机をギュッと睨みすえたまま、また、ゆっくりゆっくりそのほうへ歩いてゆく。こんどは、さっきよりも楽にゆく。
べつのキャラコさんが、宣言する。
――いよいよ、やります。
もう一人のキャラコさんが、はねかえす。
――いわなくともわかっている。早くやれ。
――いまやりかけている。あまり急かせないでちょうだい。……ほら、もう、曳手に手がかかった。
――グイと曳いちまえ!
――ひきました。……ほら、開いた。
二寸ほどあいた抽斗の口から、何か白いものがチラと見える。キャラコさんは、眼が眩んで書机のほうへ倒れかかった。
サヤサヤという羽音といっしょに、一羽の小鳥が窓から飛び込んできて、書机のそばの止まり木にとまった。背中が葡萄色で、翼に黒と白の横縞のある美しい懸巣である。
しばらくじっとしていたが、とつぜん、キャラコさんの頭をめがけて突進してきて、翼でちょっと払っては、また、止り木へ戻ってゆく。いくども、こんな動作をくりかえす。
キャラコさんが、かけすを瞶めているうちは、止り木の上でじっとしているが、眼を外したり、うつむいて抽斗に手をかけたりすると、頭を眼がけて烈しく突進してくる。
はじめ、キャラコさんは、見知らない人間が書机などをいじっているので、腹を立てたのだろうと思ったが、間もなく、かけすはじぶんと遊びたいのだということを了解した。
キャラコさんは、うれしくなって、大きな声で笑いだす。
「懸巣さん、こんちは。……なかなかお愛想がいいわね。……あんた、ひとりで、淋しいのね。それで、遊んでほしいのでしょう?」
かけすは、止まり木の上で、ちょいと首をかしげる。
キャラコさんは、手提げの中から銀貨をひとつとり出して、それをかけすのほうへ放ってやる。
かけすは待ちかまえていたようにツイと宙で受けとめ、一・二分嘴で啣えていたのち、それをそっと書机の端においた。
キャラコさんは、面白くて夢中になってしまう。
今度は、銀貨を四つ取り出して、それを、一つずつ、次々に放ってやった。
かけすは、それをひとつも取り落とさずに見事に受けとめ、散らからないように一枚ずつキチンと机の上に重ねる。
キャラコさんが、手を拍く。
「やァ、お見事おみごと。……たいへん、お上手ですわ。……ほんとうに、お利口なかけすさんだこと」
うしろに、のっそりと人が立った気配がする。おどろいてふりかえって見ると、それは悦二郎氏だった。
黒い服の上に鼠色のブルーズを着、肩に採集瓶をかけ、木の枝のようなものを手に持っている。チャペックの『虫の世界』の幕開きに登場する、あのベルトラン先生のような超俗なすがたである。
「暑い、暑い」
と汗をふきながら、立ったままで、いきなり、
「……じつは、林の中で、わからない鳥の声をききましてね。それを確かめるので、つい遅くなってしまったのです。……チッチョ、チッチョと鳴く。……どうも、なに鳥かわからないのですね。……それで、そのあとを蹤けてきいているうちに、チッチョのあとへ、チョッピィと鳴いてくれたので、ああ、これは仙台虫喰だとわかって、安心して帰って来たのです」
果して、悦二郎氏は、今朝の五時ごろから林の中で小鳥の声を追い廻していたのだった。チョッピィと鳴いてくれてご同慶のいたり。さもなければ、鳥のあとをしたって、軽井沢まででもついて行ったことだったろう。
キャラコさんは、がっかりと力を落とす。……それから、ゼンマイのゆるんだ時計のような声をだす。
「チョッピィと鳴いてくれて、ほんとうによかったわねえ」
心の中では、こんなことを考えていた。
(正直に緋娑子さんにいおう。かけすと遊んでいて、とうとう手紙は盗めませんでしたって……)
●図書カード