Chapter 1 of 1

久生十蘭

まだ十時ごろなので、水がきれいで、明るい海底の白い砂に波の動きがはっきり映る。その白い幻灯のなかで、小指の先ぐらいの小さな魚がピッピッとすばやく泳ぎ廻っている。

硝子細工のような透明な芝蝦の子。気取り屋の巻貝。ゼンマイ仕掛けのやどかり。……波のうねりが来るたびに、みんないっしょくたになって、ゆらゆらと伸びたり縮んだりする。

「わァい、やって来たぞォ」

「やっつけろィ、沈めてしまえ」

「助けてえ、落ちる、落ちる」

渚から二十間ばかり沖へ、白ペンキ塗りの一間四方ぐらいの真四角な浮筏を押し出して、八人ばかりのお嬢さんたちが、二組に分れて、夢中になってあがりっこをしている。

手懸りはないし、ちょっと力を入れるとすぐ傾いでしまうので、なかなかうまく這いあがれない。

骨を折って、ようやくの思いで攀じのぼると、筏の上は水に濡れてつるつるしているし、敵方がすぐ脚を引っぱりにくるので、わけもなく、またボチャンと水の中へ落ちてしまう。

敵方は、海岸から馳せ集まった混成軍。味方は、詩人の芳衛さん、絵の上手なトクべえさん、陽気なピロちゃん、男の子の鮎子さんの四人。日本女学園のやんちゃな連中で、片瀬の西方にある鮎子さんの別荘を根城にして、朝から夕方まで、海豚の子のように元気いっぱいに暴れまくる。

「わァい、万歳、万歳」

「眼玉やーい、河童の子。口惜しきゃ、ここまであがって来い」

浮筏の上から渚のほうを見ると、広い浜辺は、まるでアルプスのお花畑のようだ。

赤と白の渦巻や、シトロン色や、臙脂の水玉や、緑と空色の張り交ぜや、さまざまな海岸日傘が、蕈のようにニョキニョキと頭をそろえている。

理髪店の出店のような小綺麗な天幕の中で取り澄ましている海岸椅子。

濃緑色の浜大蒜と白い砂。

白金色の反射光のなかで、さまざまな色と容積が、万花鏡のように眼もあやに寝そべったり動き廻ったりしている。

思い切った背抜や、大胆な純白の水浴着。お洒落な寛長衣、小粋な胸当。

コテイの袖無しに、ピゲェのだぶだぶズボン。金属のクリップをつけた真っ赤な寝巻式散歩服。石竹色のカチーフ。

大きな墨西哥帽。そろそろとお歩いになる桑の実色のケープ。

それから、砂遊びをしている子供たち。走り廻る小犬。

ドーナツのような朱や緑の浮輪。黄と紺を張り交ぜにした大きな鞠で鞠送りをしている青年と淑女。歌をうたっているパンツの赤銅色。ライフ・ガードの大きなメガフォン。きりっとした煙草売り娘。アイス・クリーム。

波打ち際では、三艘のカノオが、ゆっくりゆっくり漕ぎ廻っている。

腹いっぱいに空気を詰め込んだゴムの象や麒麟や虎。そのひとつずつに五六人のお嬢さんが取っついて、ここでも沈めっこをしている。

沖のほうでは、クロールが白い飛沫をあげる。濡れた肘に陽の光りが反射してキラキラ光る。

波の上に、のんきに浮いている泳ぎ自慢のお嬢さんたち。薄桃色やグウズべリー色の海水着が水蓮の花のように押しあげられたり見えなくなったりする。

ゆるいうねりが来て、浮筏がガクンと大きく首をふる。

筏の上では、男の子の鮎子さんが、蟇のように筏にしがみついて頑張りつづけている。

敵のほうは鮎子さんを引きずり降ろそうというので、水の底を潜ったり、バシャバシャ波を立てたりしながら、えらい勢いで攻め寄せてくる。

味方の軍勢は、それを押しのけたり、沈めたり、蹴っ飛ばしたり、たいへんな奮戦ぶりだ。

鮎子さんが、金切り声をあげて、筏の上から指揮をする。

「トクべえさん、あんたの足ンとこへ、真っ黒いのが潜って来たぞォ。蹴っ飛ばせえ、やッつけっちまえ」

もう敵も味方もない。すっかりこんがらかってしまって、そばへ来たやつを、誰かれかまわずとっ捕まえては沈めにかける。

誰も彼もみな、眼が塩ッ辛くなって、シバシバして開けていられない。咽喉の奥がからからになって、鼻の中がツンツンする。

そこで、休戦ということになる。筏につかまって、みなゲエゲエやる。いろんな苦情が起こる。

男の子の鮎子さんが、黒いお嬢さんをつかまえて、

「あんた、さっき、あたしの背中を拳骨でゴツンとやった」

と、抗議を申し込んでいる。

お嬢さんのほうも負けていない。

「あんたは、あたしの顎をいやというほど蹴っ飛ばしたわ」

と、やりかえす。

こちらでは、陽気なピロちゃんが、筏につかまったまま、絵の上手なトクさんと足で蹴合いをしている。詩人の芳衛さんが、ニコニコ笑いながら、上品な傍観者の態度をとる。鮎子さんの背中をゴツンとやったのは、じつは芳衛さんなんだ。

遠い沖のほうから、ピカピカ光る金髪が、平泳でゆっくりこちらへ泳いで来る。

毎朝、時間をきめて泳いでいるのだとみえて、たいてい昼すこし前に、沖から戻って来て、

「お早よう、お嬢っちゃん」

と、挨拶しながら、浮筏のそばを泳ぎ抜けてゆく。

皆の意見は、英国人だということに一致している。かくべつ根拠のあることではない。言葉使いが丁寧で、アクセントが綺麗だからという理由によるのである。年齢については、陽気なピロちゃんが、こんなふうに断定をくだした。

「あの英吉利人は、今年、二十七なのよ」

詩人の芳衛さんが、訊きかえした。

「ふうん、どうして、二十七なの」

ピロちゃんで威厳をもってこたえる。

「どうしてってことはないさ。ワイズミュラーは今年二十七でしょう。だから、あの英吉利人も二十七でなくちゃならないんだ」

なるほど、ワイズミュラーによく似ている。映画に出てくるワイズミュラーのようにふやけた顔はしていないが、身体の釣り合いや、腕の長すぎるところなんか、たいへんよく似ている。いかにも若々しく、元気で、そのくせ、考え深そうな眼付きをしている。

それにしても、ずいぶん遠くから泳いで来るのだとみえて、浮筏のそばを通り過ぎるころは、いつでもすこし疲れたようなようすをしている。元気な時は、挨拶をして、そのまま泳ぎ抜けて行くが、時には、十分ほど筏に片手をかけて息を入れて、それからまた岸へ向って泳いでゆくこともある。

「有難う、お嬢さん」

普通の挨拶のほかに、ヘップバーンが出てくる映画の『若草物語』の原作、オルコット夫人の有名な小説『四人姉妹』にかけているのらしい。

なるほど、うまくいったもんだ。そういえば、もの静かな、すんなりした白い手がご自慢の長女のメグは詩人の芳衛さんに当るし、色が浅黒くて、きりっと身体のしまった男の子のようなジョーはいうまでもなく鮎子さん。内気で音楽好きのベスは、陽気なピロちゃん。お姫様のように上品で、絵の好きな末娘のエーミーはトクべえさん。……まるで、ご註文のように、キチンとあてはまる

ところで、ピロちゃんも、鮎子さんも、トクさんも、(リットル)といわれることをあまり感じよく思っていない。

「あたしたちは、もうウィメンなんだぞ。ちゃんと一人前に扱ってくれえ」

絵の上手なトクさんが、ふんがいして、いった。

「あたしたちは、すくなくとも(リットル)なんかじゃないぞ。リットルなんていわれて、黙っているわけにはゆかないわ。……英語の『リットル』という言葉のなかには、たしかに、軽蔑する意味もあると思うんだ」

ピロちゃんが、大真面目に、うなずく。

「あたしも、そう思う。……あの英吉利人のやつ、たしかに、あたしたちを馬鹿にしているんだ」

黙って水浴着の裾を引っぱっていた芳衛さんが、すこし皮肉な調子でいった。

「ほんとうに、(リットル)ではいけないわねえ。……でも、お見受けするところ、どなたも、(グレート)とはいえないようだわ」

このひと言のために、筏の上は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「芳べえのばかやろ。国民精神が稀薄だぞ!」

「ひとの真面目な議論をまぜ返すのはよくないです」

芳衛さんは、みなにやり込められて黙ってしまった。

一人前の淑女たちを『リットル・ウィメン』などと呼んだ仕返しに、ワイズミュラー君のことを『ローリーさん』と呼ぶことにした。小説では、『四人姉妹』の隣りに住んでいる、ローレンス家のちっちゃな坊やの名前である。

いっぱいに開け放した硝子扉から、薄荷入りの、清すがしい朝の海風が吹き込んでくる。

白い紗の窓掛けを蝶のようにひらひらさせ、花瓶のダリヤの花をひとゆすり、帆前船の油絵の額をちょっとガタつかせ、妖精が戯れてでもいるように大はしゃぎで部屋の中をひと廻りすると、反対の窓からスット抜けて行ってしまう。

絵の上手なトクさんも、陽気なピロちゃんも、男の子の鮎子さんも、誰も彼も、あわてふためいて、御飯をかっこんでいる。

お味噌汁は熱くてすぐ飲めないから、早く冷めるようにお椀に盛ったまま、ずらりと窓際に並べておく。御飯をかっこんだら、出がけに、立ったままで、ぐいと一息にやるつもりなのである。

誰もものをいわない。鮎子さんだけは、みんなのように早くかっ込めないので、肚を立てて何かひとりでぶつぶついっていたが、いよいよ置いてゆかれそうになったので、御飯に水をかけてひっかき廻す。ピロちゃんもまねしてやり出す。誰も彼も大あわてだ。

いったい、何を泡喰っているというんです? あわてずにはいられない。海が逃げてゆく。

絵の上手なトクさんが、

「一ィ」

と、いって、立ちあがる。窓際へ駆けて行って、味噌汁をひと息に飲みほす。

「はい、すみました。……鮎子さんも、ピロちゃんも、芳衛さんも、いつまで食べてるの? いやァね」

男の子の鮎子さんが、口惜しがって、茶碗の底に御飯をのこしたまま、

「二ィ」

と、立ちあがる。

芳衛さんが、すぐ、それを見つける。

「ずるいぞ。……卑劣ですよ、あなた」

鮎子さんは、半べそをかいて、また食卓へ坐る。その間に陽気なピロちゃんが、

「二ィ」

と、立ちあがる。

めいめい茶碗と箸を持ってお勝手へ馳け込む。

手早く茶碗を洗ってキチンと食器棚の中へ並べる。食卓の上を大きな羽箒でサッとひと撫で。どこにもご飯つぶなんかこぼれていない。それがすむと、キチンと窓際に整列する。

右へならえ! 番号!……一、二、三、四。

東京駅でヒットラー・ユーゲントの一行を見てから、鮎子さんたちの組に、いつの間にかそんな気風が乗り移ってしまった。

規律。質素。服従。団体精神。――こういう新しい感覚が、きゅっと皆の心をつかんで、にっちもさっちもゆかないようにしてしまった。この休暇ちゅう、規律正しい生活をしようと申し合わせたのである。

規律。――六時起床、九時就寝。御飯は必ず三杯食べること。四杯食べたい時は、唾を呑み込んでおく。

服従。――これは、キャラコさんが来てから。

質素。――観念上の問題。形より心のほうを重く見ること。(例。――上等のお菓子でも不味そうに食べること)

団体精神。――一致協力して敵に当ること。

朝御飯を無理やり三杯おし込むのも、窓際に整列するのも、みな青年隊の精神に即したことで、なかんずく、浮筏でほかの組の女の子を沈めにかけるのは、その最も偉大な発露なのである。

規律・規律・規律!

どっちみち悪い気風ではない。それこそ、薄荷入りの海風のようなすがすがしいものが、皆の心に吹き込んで、胸をいっぱいに膨らせる。四人ながら、みな、この新しい生活形態に満足して、時には感激のあまり涙をこぼしそうになる。

服装の点検が終ると、一列縦隊に隊伍を組み、足並みそろえ、れいの行礼歩調というやつで、岡から浜のほうへ降りて行く。ヒットラーの観兵式をニュース映画でごらんになったことがおありでしょう。……長靴をはいた兵隊さんが、膝の関節をまげずに、爪先でじぶんの額を蹴あげるようにしながら行進する、あの奇抜な歩調で。

ところで、この示威運動はあまり民衆の支持を得ない。四人の質実な精神は理解されないのである。低俗な民衆の眼には、どうも、すこし素頓狂に見えるらしい。

砂浜で寝転んでいる赤銅色の青年たちが、気色を悪くして聞えよがしに叫ぶ。

「おうい、見ろみろ、また気狂いどもがやって来やがった。なんでェ、あの脚つきは。あいつら、頭の加減でも悪いんじゃないのか」

俗説に耳を藉すな。そんなことでへこたれるには及ばない。新しい行動にはいつも迫害を伴うにきまっている。

キッと口を結んで、穴のあかんばかり、まっすぐに海を瞶めたまま、えらい混雑の中を神憑りのような足どりで波打ち際まで行進する。

そこで、お次ぎは団体精神の発動にうつる。

敵軍はいないか。向ってくるやつはいないか。広い渚をゆっくりと眺めわたす。あまり、平和な眼付きではない。

陽気なピロちゃんは、すこし注意散漫の傾向がある。ほかの三人が熱心に団体精神の予備行動を始めているのに、ピロちゃんだけは、ぼんやり沖のほうを眺めながら、こんなふうにつぶやく。

「あら、また、あのヨットがいるわ」

鮎子さんが、釣り込まれる。

「ほんとだ。どうして、毎朝おなじところにじっとしているんだろう、妙だな」

トクさんが、かんたんに片付ける。

「釣りでもしてるのさ」

鮎子さんが、ふうん、と鼻を鳴らす。

「へえ、あんな沖で釣りをするのかい? あそこは海流からはずれているから、魚なんかいるはずはないんだ」

ピロちゃんが、同意した。

「あたしもそう思う。魚なんか釣ってるんじゃないわ」

トクさんが、ききかえす。

「じゃ、何してるの?」

鮎子さんが、口を尖らす。

「何をしてるかわからないから、それで妙だというんじゃないか」

右手に、三浦半島のゆるい丘陵がつづいている。その遠い遠い沖合いに、一風変わった赤い帆のヨットが浮んでいる。原色版のナポリの風景などでよく見る『ファルファラ』という、蝶々のような恰好の帆をもった、この辺ではあまり見かけないヨットである。

この風変りなヨットは、きまった時間にどこからかやって来て、江の島の聖天島と稲村ヶ崎を底辺にする、正三角形の頂点で錨をおろし、二時間ほどそこに停っていて、それからまたどこかへ行ってしまう。

毎朝、十時から十一時半ぐらいまでの間、きまってこれが繰り返される。ひめじ釣りにしては時間がおそすぎるし、鮎子さんのいう通り水脈筋からもはずれている。いったいどんな目的で毎朝きまった時間に、きまったところに停まっているのか、それがわからない。このヨットを見かけるようになってから、これで五日になる。

芳衛さんが、結論をつける。これを倫理の先生の口まねでやってのける。

「……たぶん、海岸のザワザワした雰囲気が、諸君を刺激して、いささか神経質にしているんだと思います。……とにかく、諸君はあまり懐疑的です。……ことに、鮎子さんのごときは、何を見ても、怪しいとか、奇妙だとかいわれるが、鮎子さんが懐疑を持ったものをよく調べて見ると、怪しかったり奇妙だったりしたことはただの一度もないのです。……よろしいか。要するに、あれは一艘のヨットでしかない。毎朝、きまった時間にやって来て、きまったところに停まっているヨットに過ぎない。……それが、どうしたというんです? 放ってお置きなさい。やりたいようにやらせようじゃないか。どっちみち、われわれには関係のないことです、エヘン」

これには、みな、噴きだしてしまう。

あまり腹の皮を捩ったので、ヨットのことなど忘れてしまう。

三人のうちで、いちばんこだわっていた鮎子さんが、まっ先にザブンと水の中に飛び込んで、クロールで浮筏のほうへ泳いで行く。

「やったな!」

一斉に水の中に飛び込む。すさまじい競泳になる。

陽気なピロちゃんが、鮎子さんの腹の下を潜り抜けて、筏のすぐそばで海豹のようにひょっくりと顔を出す。間髪をいれずにえらい水飛沫をあげながら、鮎子さんとトクさんが到着する。芳衛さんだけは途中で棄権して、ゆっくりと平泳で泳いで来る。

筏のまわりに、今日は一人も女の子がいない。浜じゅうのお嬢さんたちは、四人の青年隊に手ひどく沈めにかけられ、すっかり懲りて誰も寄りつかなくなってしまった。

そこで、止むを得ず、四人だけで仲良く筏のうえに攀じ登る。

空には、ひとひらの雲もない。海は紺碧の色をして、とろりと微睡んでいる。濡れた肌にほどよく海風が吹きつけ、思わずうっとりとなる。どうも、これは退屈だ。

鮎子さんが、脾肉の歎をもらす。

「つまらない、誰かやって来ないかな」

すこし離れたところで、麒麟の浮嚢で遊んでいる五六人のお嬢さんの組へ叫びかけて見る。

「おゥい、やって来いよゥ」

お嬢さんたちは、聞えないふりをして、自分らだけできゃッきゃと騒いでいる。昨日、四銃士にさんざ水を飲まされた連中だ。

鮎子さんが、口惜しがって、ぶつぶついう。

「よゥし、あとでひどい眼にあわしてやる」

この時である。注意散漫のピロちゃんが、また妙なものを見つけた。

「おや、ローリーさんが、あそこで妙なことをしている」

なるほど、すこし妙だ。

いつもは、ゆっくり過ぎるくらいゆっくり平泳で泳いで来るのに、今日はどうしたというのか、まるで癇癪でも起こしたように、ひどい飛沫をあげて泳いでいる。

クロールともつかず、横泳ぎともつかず、ひどく出鱈目に手足を動かし、それも、急っ込んだり、のろくなったり、たいへんに不規則で、見ようによれば、ふざけているともとれるのである。

そんなふうにして、浮筏から三十間ばかりのところまで近づいて来た。

ところで、そこまで来ると、またすこしようすが変わって来た。眠りかけているひとのような、ぼんやりとした表情で、ものぐさくのろのろと水をかいている。時々、まったく腕の運動が休止して、ガブリと水の中へ沈み込むと、またあわてたように忙がしく手足を動かす。が、それも瞬時のことで、すぐ運動が緩慢になり、がぶッと水の中に潜ってしまう。そして、この、がぶッがだんだん頻繁になる。

芳衛さんが、顫えを帯びた低い声で、いった。

「ふざけてるのかしら」

誰も、返事をしない。

みな、吸い取るような眼付きで、ローリーさんの不思議な運動を眺めている。

鮎子さんが、しっかりした声を、だす。

「ローリーさん、溺れかけているんだ」

三人の背筋を、何か冷たいものが、すッと走る。チラチラと互いの顔を見かわす。みんな蒼い顔をしている。三人の眸が、たがいに、どうしよう、どうしよう、といっている。

鮎子さんは、両手で膝をかかえながら、

「……どうしたんだろうな、腓返しでもしたのかなァ」

と、ひとりごとみたいにつぶやいていたが、だしぬけに、ザブンと水の中へ飛び込むと、鮮やかなクロールでローリーさんのほうへ泳いで行く。

これで、三人も決心がつく。間をおかずに、すぐボチャン、ボチャンと飛び込む。

三人が行きついた時には、ローリーさんは、もう浮きあがる力がなくなって、水の表面から三尺ほど下のところで、俯伏せになったままゆらゆらと不気味にゆれていた。

鮎子さんが、三人のほうへふりかえる。

「あたし、いま、引っぱりあげてくるからね、手足をつかまえて、みんなで筏ンとこまで持って行こうよ」

白い蹠をヒラヒラさせながら、いったん、ずっと深くもぐって、両手で下からローリーさんの腹を押しあげるようにして浮いてきた。顔じゅう、水だらけにしながら、

「大丈夫だよ。まだ、死んでやしない。……狼狽ちゃいけないんだ。ゆっくり持ってこう、ゆっくりね。……筏にのっけたら、あとは、岸まで筏を押していけばいいんだから、わけはないや」

手足を持って四人で泳ぎだす。みな元気になる。陽気なピロちゃんが、頓狂な声をだす。

「でも、ずいぶん、でっかいなァ。……大人命救助だぜ、これァ」

みな、ぷッとふき出す。

ローリーさんを筏に押しあげるのがひと苦労。筏の鎖をはずすのでまたひと騒動。しかし、どうにか、それもうまくゆく。ローリーさんは、長い手足を筏からはみ出させ、筏の上に頬をつけて、ぐったりと眼をつむっている。

四人の青年隊は、

「え※やサ、え※やサ」

と、勇ましく掛け声かけながら、筏を押して岸のほうへ泳ぎ出した。

キャラコさんが、やって来た。

ひとつずつ部屋をのぞく。

女中もいれないで四人だけの『神聖の間』になっている海に向いたサンルームの扉をあけてみたが、ここにも誰もいない。

ところで、思いがけなくどの部屋もキチンと片づいているので、これにはキャラコさんもびっくりしてしまう。

毎年の例ならば、寝間着とラケットが同居したり、鞄がひっくり返ったり、戦場のような騒ぎになってるのに、見ると、いろいろな遊戯の道具は、みな、ちゃんと棚の上に片づけられ、ラケットは袋に納められて釘にかかり、靴やサンダルは爪先をそろえてズラリと窓際へ並べられてある。床はきれいに掃かれているし、花瓶の水もまだ新しい。まるで、兵舎の舎室のような整然たるようすをしている。

キャラコさんが、笑いだす。

「おやおや、たいへんだ。どうしたというのかしら……」

ふと見ると、毎日の献立を予告する黒板に、大きな字で、こんなことが書きつけてある。

メグ『虚栄の市』へ行く

『メグ、虚栄の市へ行く』というのは『四人姉妹』の第九章の小標題だが、しかし、これが何を意味するのか一向わからない。

「何のつもりで、こんなことを書きつけてあるのかしら。……きっと、また、何かあったのにちがいないわ。……ほんとに、手に負えないひとたちだこと」

釘にかかっていた望遠鏡をはずすと、硝子扉のところへ行って海の上を眺める。が、浮筏の上には誰もいない。白ペンキ塗りの筏が、酔っ払いのようにゆらゆらと体をゆすっているばかり。

そこで、渚のほうに眼鏡を向けて見る。

どぎつい色彩がいっぺんに眼に飛びついて来る。

ようやく見つけた。……派手な海岸日傘の列からすこし離れた、浜大蒜の中で鮎子さんとトクさんと、ピロちゃんが胡坐をかいて、むずかしい顔で何か話をしている。どうしたのか、芳衛さんの姿だけが見えない。

鮎子さんが、口を尖らせて何かしゃべっている。ピロちゃんとトクさんが、ひどく仔細らしい顔つきで、いちいちそれにうなずいている。

キャラコさんが、つぶやく。

「あたしの予想通りだった。やはり、何か変わったことがあったんだわ。……いったい、何があったのかしら」

キャラコさんは、すこし不安になる。帰るまで待っていられないような気がして、女中の菊やに迎いに行ってもらった。

三人は、すぐ、やって来た。

やって来るにはやって来たが、ひどく元気のないようすをしている。ふだんなら、犬ころのように飛びついて来て、おおはしゃぎにはしゃぐところなのに、ひとりずつ窓際の椅子にかけて、うっそりとうつむいている。

「おやおや、どうしたんです。みな、ひどく元気がないわね」

ピロちゃんが、ニヤリと愛想笑いをする。そして、すぐまた、むずかしい顔をつくる。

キャラコさんが、ニコニコ笑いながら、一人ずつ顔を眺めわたす。

「また、何かあったのね? ……何があったの? ……『メグ虚栄の市へ行く』って、いったい、何のこと?」

鮎子さんが、しぶしぶ、口を切る。

「メグ、ってのは、芳衛さんのことで、虚栄の市、ってのは、海浜ホテルのことなの」

「面白そうな話ね。……つまり、芳衛さんが海浜ホテルへ遊びに行ったということなのね」

ピロちゃんが、うなずく。

「ええ、そうなの」

「でも、海浜ホテルが『虚栄の市』ってのは、なぜなのかしら」

鮎子さんは、首をふって、

「海浜ホテルが『虚栄の市』だというんじゃないの。それには、もっと別なわけがあるんです」

そういって、ピロちゃんとトクさんのほうへ気の弱い眼差しを向ける。

「話しても、いいかしら?」

ピロちゃんが、怒ったような声を、だす。

「鮎子さん、あんた、今日、ハキハキしないわね。キャラコさんに隠して、あたしたちだけで、うまくやれると思っている?」

「そうは思わないよ。……ただね、キャラコさんがいないと、すぐ、妙ちきりんなことばかり始まるんで、うんざりしてしまうんだ。……少女期ってのは扱いにくいね。……とにかく、ひどくむずかしいや、ひとのことでも、自分のことでも……」

トクべえさんが、上品な声で、口をはさむ。

「あたしだけの感情を述べさしてもらえるなら、いま、そんな呑気なことをいってはいけないのだと思うわ。……あたしだけが、そんなふうに感じるのかも知れないけど、今度の事件は、あたしたちが気づかないところに、なにか重大なことがたぐまっているような気がしてしようがないの。あたしたちなんかには、手のつけられないようなものが、モヤモヤしているように思われるのよ。……うまくいえないけど」

キャラコさんが、沈着な顔つきで、いう。

「とにかく、何があったのか話してみたらどうかしら。……できるだけ、くわしくいってみてくださいね。……感じたことではなく、なるたけなら、眼で見たり、耳できいたりした事実だけのほうがいいわ」

鮎子さんが、口を切る。

若い英吉利人が、毎朝、びっくりするような遠い沖から泳いで来ること。……われわれ四人を『リットル・ウィメン』と呼んだこと。だから、こっちで竹箆返しに『ローリー坊や』と名前をつけてやったこと。……そのローリーさんがあぶなく溺死しかけたので、四人で筏に乗せて岸まで持って行ったこと。

ピロちゃんが、それにつづいた。

……すると、ローリーさんは、そのお礼だといって、海浜ホテルの晩餐に四人を招待したこと。鮎子さんがまっ先に、そんなもの食いたくねえや、といったこと。海岸で知り合っただけの、どこのどういうひとかわからない外国人の招待などに、軽々しく応じないほうがいいということにみなの意見がまとまったこと。

「ねえ、キャラコさん、もちろん、あなたもそう思うでしょう。……向うの気持はわかるけど、あたしたちが、そんなものにやすやす応じるような不見識な娘たちだと思っているのかしら? ……そういうものの考え方に、何か、いやなところがあるわね。鮎子さんが、だれがそんなものを食いに行くもんかって肚を立てたのは、たいへん、至当なことだったわ。……それから、あたしたち、……すくなくとも、ここにいる三人は、ローリーさんに、あまりいい感じを持たなくなったの」

キャラコさんが、うなずく。

「よくわかったわ。……それで芳べえさんのほうはどうなの」

キャラコさんには、どんなことが始まっているのか、だいたい察しがつく。なるほど、ちょっと軽々しくは裁量できかねるようなむずかしさがあった。

あまりこちらが敏感に察するのはよくないと思いつつ、すこし心配になってきて、

「……つまり、芳衛さんがローリーさんのところへ遊びに行くというのね」

うっかり口走って、キャラコさんは、顔を赧らめた。

女学生がホテルにいる西洋人のところへ遊びに行く……。自分より若いひとたちの前で口にのせるような言葉ではない。キャラコさんは、閉口して俯向いてしまった。

しかし、三人のほうは、そんな意味にはとらなかった。

鮎子さんが、眼玉を大きくひ※剥きながら、勢い込んで、いった。

「そうなんだよ、キャラコさん。……芳衛さんは、ご自慢のオーガンジの服を着て、毎日、三時になると、女王様のようにそっくり返ってローリーさんたちの『お茶の会』へ出かけて行くんだ。……そのお茶の会っていうのは、SSヨット倶楽部の連中の会で、気障なシャナシャナした男や女が大勢いるんだって。……これが、『虚栄の市へ行く』ということなの」

ピロちゃんが、頓狂な声をだす。

「……ヨットといえば、キャラコさんに、まだ『赤い帆のヨット』の話をしなかったね、トクべえさん」

「そう、まだしなかったわ」

トクべえさんが、れいの感じを混ぜながら、奇妙な赤い帆のヨットの話をした。

みな、芳衛さんのほうを忘れてしまって、赤い帆のヨットについて、思い思いの意見を述べたてた。

鮎子さんが、いった。

「キャラコさん、海流からはずれたところで、わざわざ魚を釣るなんて馬鹿なはずはないんだけどあなたどう思う?」

キャラコさんの頭に、ちょっとした考えがひらめいた。

「……ローリーさんが、毎朝、ずっと沖から泳いで来るといったわね。……その時、沖に、赤い帆のヨットがいるの? いないの?」

トクべえさんが、考えるような眼付きをしながら、こたえた。

「どうだったかしら。……よく、気をつけてなかったけど」

鮎子さんが、突然、大きな声を出す。

「たしかに、いたような気がする!」

ピロちゃんが、うなずく。

「そういえば、なるほど、そうだったかも知れないわ」

キャラコさんが、いった。

「ローリーさんというひとは、毎朝、そのヨットから泳いで来るのじゃないかしら」

なるほど! ピロちゃんも、鮎子さんも、トクべえさんもゾクッとしたような顔で互いに眼を見合わせた。

キャラコさんが、つづけた。

「……赤い帆のヨットが、定った時間に、きまった場所へやって来るのだとすると、従って、ローリーさんも、毎日、きまった時間に、きまった場所から岸へ泳いでいることになるわけね」

三人が一斉に叫ぶ。

「そうだわ!」

ピロちゃんが、真剣の眼付きで、

「でも、なぜ、そんなことをするのかしら?」

「それは、あたしにもわからないけど、こんなことは考えられるわね。……もちろん、これは、あたしの想像よ。……ともかく、ことさら、赤い帆をつかったりするのは、どこからでもはっきり見えるようにするためで、蝶々のような風変りなかたちの帆をあげるのは、他のヨットと紛らわしくないようにして置くためだともとれるわ。……それから、もうひとつ。……この要塞地帯で、わざわざ目立つようなことをするのは、そのゆえに、逆にひとの注意をそらそうとする意図なのじゃないかしら」

いつの間にか、三人は椅子から離れて、キャラコさんの足下の床へ坐り込んでしまった。

「そうだとすると、たいへんなことになって来たな。すると、つまり……」

そこまでいって、急に口を噤んでみなの顔を眺めわたした。その心は、すぐ、みなに通じた。しかし、誰もそのあとを続ける気にはなれなかった。この思いつきは、馬鹿ばかしいようでもあり、恐ろしいようでもあった。

みな、急に声が低くなって、額をあつめて、ごしゃごしゃと話し合っているところへ、芳衛さんが、細かい花模様のある、提灯のように裾のひらいたオーガンジの服を着て、気取ったようすで入って来た。

馬鹿ねえ、といいながら、まっ直ぐに黒板のほうへ歩いて行って、その上の字を拭き消すと、いつもとちがった、ひどくつきつめたような顔で皆のほうへ戻って来て、床の上へ坐り込みながら、囁くような声で、いった。

「諸君、たいへんよ。……じつはね、あたし、今日まで、やれるだけやってみたの」

それから、もう一層声を低めて、

「ひょっとすると、ローリーさんは、たいへんなやつなのか知れないんだぞ!」

から騒ぎではなく、『赤い帆のヨット』とローリーさんの関係に見きわめをつけることが、五人の義務になってきた。

いろいろな現象をとおして、できるだけ注意深く事実を観察すること。その結果を綜合し、これに結論を与えることは、こういうことに熟達した専門家に任せるほうがいいというキャラコさんの意見だった。

「芳衛さん、あなたが『お茶の会』へ出席して、ローリーさんを監視するようなことはよしたらどうかしら。そんな子供じみたことで、ローリーさんから何か探り出せるわけはないんだし、何より、傍観者の態度を捨てないことが、だいじだと思うんだけど……」

芳衛さんは、もちろん、それに服従した。

そのかわり、ツアイスの二百倍の望遠鏡でヨットとヨットの中の人間の動作を観察する役目が与えられた。

それを記録する係りが、ピロちゃん。……トクべえさんは、ローリーさんがヨットから海へ飛び込む時間を正確に記録して、毎日の時刻の変化を図表で表わしておくこと。……鮎子さんは三人の助手。そのほかに『観察』が終ったら、それを持って、横須賀の造艦部に勤務しているお父さんのところへ行く役目が振り当てられた。

所定の五日が終った。

芳衛さんの報告書は、なかなか美文だった。

一、ヨットを操縦しているのは、『SSヨット倶楽部』のミス・ダンドレーと称している婦人。ヨットの中の動作はきわめて単純なり。クッションにもたれて常に読書す。時には、ローリー氏が朗読し、ミス・ダンドレーがこれを傾聴することあり。ミス・ダンドレーは、ローリー氏に対して、きわめて冷淡なる態度を示す。これに対して、ローリー氏は、不満を訴えるがごとき動作をなすことあり。他に著しき事実なし。ただ、ローリー氏がヨットを離れんとする際、きまって口論するがごとき身振りを相互に交換す。いかなる意味なるや、解し難し。

トクべえさんが、『ローリーさんが海へ飛び込む毎日の正確な時間表』を呈出した。それは、次のようなものだった。

八月十九日 午前九時十二分

同 廿 日 午前十時

同 廿一日 午前十時四十八分

同 廿二日 午前十一時三十六分

同 廿三日 午後零時二十四分

キャラコさんが、ちょっと、考えてから、

「この時間表で見ると、ローリーさんは、毎日、正確に満潮の頂点で海に飛び込んでいることになるのね」

そして、鮎子さんに、

「お父さまに、すぐ、こちらへ来ていただけないかしら」

といった。心配な時にする、れいの、むずかしい顔をしていた。

ゆうがた、鮎子さんのお父さんの松永氏が、別荘へやって来た。

四人の調査の結果を聴き終わると、瞬間、たいへん緊張した顔つきになったが、すぐ、顔をひきほぐして、

「なるほど! 諸君は、ブラブラ遊んでいたわけではなかったんだね。……なかなか大したもんだぞ、これは」

そういって、あとはなんでもない他の話に紛らわしてしまった。

二人の外国人が、ローリーさんを媒体にして、相模湾の湾流の調査をしていたのだった。

ローリーさんの身体の重さは、ちゃんと計量されてあるので、ローリーさんが泳ぐ速度に係数を掛け合わせると、満潮時の潮流の速度と日々の変化がわかる。

ミス・ダンドレーの共謀者は、江ノ島の江ノ島楼の二階から、ローリーさんが規定の一点を過ぎる時の浮揚度、潮流の抵抗、湾入の方向、毎日の潮流の速度の変化などを、速度計や、ストップウオッチや、磁石式羅針儀を使って綿密な研究をしていたのだそうだった。

ところで、ローリーさんのほうは、この研究には何の関係も持っていなかった。ミス・ダンドレーが、一と月の間、ヨットから岸まで泳ぐ勇気があるなら、あなたの求愛に応じましょうといったので、熱烈にそれを実行していただけのことだった。それにもかかわらず、ローリーさんも間もなく、日本から退去を命じられたということを、一ヵ月程のち、五人が聞いた。

鮎子さんが、ふうんと、いった。

「ローリーさんは、なかなか詩人だったんだね。見なおしたよ」

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