一
時間からいうと、伊勢湾の上あたりを飛んでいるはずだが、窓という窓が密度の高いすわり雲に眼隠しされているので、所在の感じが曖昧である。
大阪を飛びだすと、すぐ雲霧に包みこまれ、それからもう一時間以上も、模糊とした灰白色の空間を彷徨している。はじめのころは、濛気の幕によろめくような機影を曳きながら飛んでいたが、おいおい高度をあげるにつれて、四方からコクのある雲がおしかさなってきて、旅客機自体が溷濁したものの中にすっぽりと沈みこんでしまい、うごめく雲の色のほか、なにひとつ眼に入るものもない。咽び泣くような換気孔の風の音と、佗びしいほどに単調なプロペラの呻りを聞いていると、うらうらと心が霞んできて、見も知らぬ次元に自分ひとりが投げだされたようなたよりのない気持になる。
この三年、白川幸次郎は、月に三回、旅客機で東京と大阪をいそがしく往復しているが、こんな夢幻的な情緒をひきおこされたのは、はじめての経験だった。どんよりとしているが、それでいて、暗いというのでもない。漠とした薄明りが、遠い天体からさしかける光波といったぐあいに、灰色の雲のうえにしらじらと漂っているところなどは、香世子が形容する死後の世界の風景にそっくりで、白川は脇窓の風防ガラスに額をつけたまま、
「ひどく、しみじみとしていやがる」
とつぶやいた。
とりとめのない、こういう灰色の風景は、悩ましい、胸をえぐるような、そのくせ、なつかしくもある痛切な心象につながっている。香世子がこの世から消えてしまったのは、もう三年前のことだが、まだその影響からぬけきれずにいる。白川も、これでは困ると思うのだが、いちど焼きついた心象は、払えば消えるというようなものではない。
十二月二十五日の朝、市兵衛町の交番から電話の通達があった。
「奥さんが、交通事故で亡くなられたそうで、そちらへおしらせするように、築地署から通達がありました。死体は聖路加にありますから、印鑑を持って、すぐ引取りに来てください」
「ちょっと、もしもし……それは、なにかのまちがいでしょう。私には家内なんかありませんがね」
「二号でも三号でもいいですが、ともかく、すぐ来てください」
雲の低く垂れた雪もよいの朝がけ、白川が聖路加へ行ってみると、ハンドルのかたちに、胸に丸い皮下溢血の血斑をつけた二宮の細君の香世子が、窮屈そうに屍室の寝棺におさまって、眼をつぶっていた。
クリスマス・イヴの十時すぎ、酔ったいきおいで築地のほうへ車を飛ばし、四丁目の安全地帯にぶっつけた。救急車で聖路加へ運ばれ、意識不明のまま二十五日の払暁まで保っていたが、間もなく苦しみだし、七時ごろ息をひきとった。臨終に、麻布市兵衛町、白川幸次郎の妻と、はっきり告知したと係官が白川につたえた。
「白川幸次郎の妻」の一件は、二宮に知らせずに無事におさめたが、臨終の告知は、息苦しい重石になって心のなかに残った。香世子との交際は、香世子が二宮忠平と結婚する以前からのことで、その間に、なにがしの想いがあったのだが、どちらの側でも、最後まで告白といったようなことはしなかった。
白川幸次郎が死んだ香世子の霊と交遊するように……というよりは、熱烈な霊愛に耽けるようになったのは、そういうことからであった。
肉体のなかに、魂が宿っている。ひとが死ぬと、魂は肉体からぬけだして、次の世界へ行く。
魂がいまの肉体に宿る前は、前世にいたので、この世、つぎの世、その先の世と、四世にわたって活動するが、方法によっては、死後の世界から現世へ連れ戻すことができる。
幽霊などという蒙昧な存在ではない。心霊電子ともいわれる高級なやつで、幽霊のように、じぶんからヒョコヒョコ出てくるような軽率な振舞いはしない。呼ばれれば、渋々、やってくるくらいのところである。
霊を呼ぶのは、「霊媒」という、そのほうの専門家がやる。その方法は、霊媒が一種の放心状態になって……というのは、じぶんの魂をひと時、肉体から出してやって空家にしておき、そこへ呼びよせた霊を入れるという手続きになるわけだが、借りものにもせよ、肉体があるのだから、霊は、ものも言うし、動作もする。
霊などというものが、ほんとうにあるのかないのか。あるとすれば、どんな形をしているのか。そういう心霊現象については、ポートモアの「心霊現象」やロッジの「心霊電子論」などという研究がある。死後の世界のことは、ロンブローゾが「死後は如何」で、メーテルリンクが「死後の生命」で述べている。
霊媒が無我の状態に入ると、なぜ心霊が宿るのか。霊というものは、そんなにやすやすと出てくるのか。そういった初歩の疑問にたいして、聖書に「神の告げを受ける人」があり、ギリシャには「神托者」というものがいたように、失神状態や恍惚状態は、むかしから神と人との唯一の交通の方法だったと、心霊学者が答える。
白川幸次郎が、香世子の霊に逢いに行ったのは、麻布広尾の分譲地のはずれにある、心霊研究会「霊の友会本部」という看板の出た浅間な二階建の家だった。
よく撓う大阪格子の戸をあけると、口髯ばかりいかめしい貧相な男が、袴のうしろをひきずりながら出てきた。
「当会の主事でございます。ご予約の方で」
「今朝ほど、電話でおねがいしておいた白川ですが」
「白川さま……お待ち申しておりました。どうか、お上り遊ばして」
安手な置床のある二階の八畳で待っていると、主事と名乗ったさっきの男が、蒼白い肌の艶をみせた、四十三四の肥りかげんの中年の女を連れて入ってきて、
「この方が霊媒さんで」
と白川に紹介した。
霊媒が床前の座蒲団に正坐すると、主事は白川を霊媒と向きあう位置に据えて、
「では、はじめますから」
と、立って行って電燈を消した。
床脇の長押に、一尺ほどの長さの薄赤いネオン燈がついているほか、灯影はなく、霊媒の顔がぼんやりと浮きあがっている闇の中で、トホカミエミタメ、トホカミエミタメとくりかえす祝詞調の主事の声が聞えていたが、そのうちに、白川のそばへすうっといざりよってきて、
「間もなく、お出になります」
と重々しい口調で挨拶した。
見ていると、寂然としずまりかえっていた霊媒の上体がゆらゆらと揺れだし、どこから出るのかと思われるような、人間の五音をはずした妙な声で、うむうむと唸りだした。
「あれが私の呼んだ霊ですか」
「さようです」
「なにを唸っているんでしょう」
冷やかし気味に、白川がたずねると、主事は白川の耳に口を寄せて、
「ああいう唸りかたをするようでは、この方は、じぶんが死になすったことを、まだ自覚していらっしゃらんのですな」
と、ぼそぼそとささやいた。
「自覚といいますと?」
主事はもっともらしい口調で、死後の世界へ入った心霊は、たとえてみれば、生まれたての赤ん坊のようなたよりのない存在で、死んだことすら自覚せず、死の間際に感じた苦しみのなかで、呻きながら浮き沈みしている。胃病で死んだものは、胃が痛いと叫びつづけ、肺病で死んだものは、息がつまりそうだともがくのだと、説明してきかせた。
霊媒は高低さまざまな、陰気な唸り声をあげていたが、急に身体を二つに折って、
「ここはどこ? ……なんて暗いんだろう……痛いな。ああ、痛い痛い。胸のまんなかの辺が、千切れそうだわ……助けてえ」
脈絡もなく、そんなことをしゃべりだした。主事は顔をうつむけて、しんと聞きすましていたが、
「これは怪我をして死なれた方ですな。だいぶお苦しいようですから、はやく声をかけておあげなさい……あなたはもう死んでいるのだと、おしえてあげてください。それで、いくらかでも、苦痛から救われるのですから」
「どう言えばいいのですか」
「ともかく、名を呼んであげて……あとは、私がここにいて、その都度お教えしますから」
白川は割りきれない気持のまま、
「香世子さん、香世子さん」
と悩める霊媒に呼びかけると、霊媒は額を膝におしつけるような窮屈な姿勢で、
「あたしをお呼びになるのは、どなたでしょう……あなた? ……白川さんですか? ……あたし、ここんところが、痛くてしようがないんです。なんとかしてくれないかしら……ねえ、助けてちょうだい」
冥土からいま着いたというような、ほそぼそとした声で、喘ぐようにいった。白川は思いが迫って、われともなく、
「ねえ、香世子さん」
と呼びかけながら、霊媒の肥った肩に手をかけた。主事は大あわてにあわてて、
「もしもし、そんなことをなすっちゃ」
白川の腕をとっておさえつけながら、
「身体にさわることだけは、やめていただかなくては……霊媒さんが眼をさますと、せっかく呼びだした霊がお上りになってしまいます。あなたがここでジタバタなすっても、どうなるものでもありませんから」
と苦い調子でたしなめた。白川はむしょうに腹がたってきて、
「話をさせるという約束だったろう。霊媒にさわるぐらいが、なんだ」
主事は弱りきった顔になって、
「ねえ、あなた、どうかまあ、落着いてくださいよ。霊のいられるところと現世との間に、無間のへだたりがあるということをですなあ……」
いい加減なことをいって宥めにかかったが、白川はこじれてしまって、主事のいうことなど相手にしない。
「いろいろな所作をして見せるが、苦しんでいるところなぞ、見せてもらわなくても結構だよ。なんの霊だか知らないが、おだやかに話ができないものなのか」
主事は大袈裟にうなずいて、
「ごもっとも、ごもっとも……失礼ですが、よっぽど深くお愛しになっていられた方とみえます。まったくどうもお気の毒な……でもまあ、この手をお離しなすって。そうギュッと掴んでいられては、話もなにもできやしませんから」
そういうと、れいの尤もらしい口調になって、
「では、こういたそうではありませんか。ともかくこの方に、じぶんはもう死んだのだという自覚を与えていただきましょう。お説のとおり、本来、霊に痛覚などあるはずはないので、肉体を持っていたときの記憶……アフター・イメージですか、まあそういった架空の肉体の苦患を、あるかのごとくに悩んでいるわけなのですから、お前は死んだのだと、はっきりわからせておあげになれば、それで、サラリと解脱することがおできになるのです」
「それを私がいうんですか」
「さよう、霊が信頼していられる方が言われるのがいちばんいいので……霊ご当人は、死んだなどとは思っていないのだから、なかには、怒りだす霊もあります……そこを、強くおしつける。そうしていると、霊のほうでも、はてな、ということになってですね、自分自体を見なおすと、なるほど肉体がない。おどろいて、私はどうしたんでしょうと聞きかえしてきますから、すかさず、お前は死んだのだと、いくども言う……たいていの霊は、そこで泣きだします。それを、しずかに慰める。それがまたたいへんで、相当クタクタになりますが、そのうちに、だんだんあきらめの境地に達して、生前の交誼を謝したり、じぶんのいる世界のようすを、ポツポツと話しだすようになる……そうなったら、もうしめたもので、おだやかに話ができるようになりましょう」
腑におちないが、そう聞くと、そういうこともあるのかと思い、
「香世子さん、白川です。わかりますか」
と声をかけてみると、霊媒は急に唸るのをやめて、トホンとしたようすになり、
「あゝ、白川さん」
と縋りつくようにいうと、焦点のきまらないへんな眼つきで、ウロウロと白川のいるあたりをながめまわした。
「どこにいらっしゃるの」
「あなたの前にいます。わかりませんか」
「声は聞えるんですけど、なにも見えないわ。どうして、こんなに暗いのかしら。明るくしていただけないかしら」
と、あわれな声をだした。
「お気の毒だが、ぼくの力ではだめらしい。香世子さん、自覚していないらしいが、あなたはもう死んだんですよ」
「あたしが? へえ、どうして」
「クリスマス・イヴに、酔っぱらって車をすっ飛ばしたでしょう。あのとき、尾張町の安全地帯にぶっつけて死んだんです」
「でも、現在、こうしているじゃありませんか」
「そこにいるのは、あなたの霊なんです」
「霊って、なんのこと?」
白川がグッと詰まると、主事がすり寄ってきて、
「負けないで、負けないで……弱っちまっちゃいけません。どうしても言い負かしてしまわなけれゃ」
と耳もとでささやいた。
香世子に、お前はもう死んだのだと納得させるのに、白川はえらい骨を折った。この押問答に三晩かかったが、三日目になると、さすがの主事も呆れて、
「こんなわからない霊も、すくないです。生前、どういう方だったのでしょう」
と肩を落して嘆息した。
「この方は邪心のあられた性格とみえまして、だいたいが、ひどくひねくれていらっしゃる。こういう霊は、いちどこじれだすと、誰の手にも負えぬようになるものでして、自然に心がとけるまで、お待ちになるほかはない……霊媒さんも、このところ、だいぶ疲労されたように見受けますから、この辺で、すこしお休みをねがって……」
と投げだしにかかった。
霊の友会の霊媒は、さる資産家の夫人で、道楽にそんなことをやっているということだが、肉置きのいい、ゆったりとした感じで、身の振りも大きく、卑しげなところはなかった。
白川が行きはじめたころは、主事の指導がないと無我の境に入ることができなかったが、しばらくすると、白川が手を握っているだけで、ひとりでやれるようになり、霊の来かたも、ずっと早くなった。
白川と香世子の対談は、いつも二時間以上もかかるので、一番あとにまわされて、夜の十時ごろからはじまる。霊媒は無我の境に没入しているので、意識はなく、香世子と二人だけの世界だから、遠慮も気兼ねもない。他人には聞きかねるようなことまでさらけだして、しんみりと語りあう。
香世子の霊も、だんだん対談のコツをおぼえてきて、自由にものをいうようになり、白川が忘れているような細かいことを思いだしては、懐しがったり、笑ったりし、話の途中で昂奮してくると、身もだえをしながら、
「あたし、どうしようかしら」
と白川の胸に倒れかかってくるようなこともある。
霊に肉体がないなどと、誰が言う。借りものとはいえ、体温の通った完全な五体をそなえているのだから、愛の接触に事を欠くことはない。押せば押しかえし、手を握れば、すぐ握りかえしてくるという濶達さで、その辺の機微は、霊の交遊の経験のない連中には、思いも及ばぬことであった。白川は霊界に足をとられて、抜きも差しもならなくなり、一年ほどの間、夢中低徊のおもむきで、根気よく現世と死後の世界を往復していたが、霊愛の修業も、霊の友会の解散で、はかなくも終幕となった。
白川が霊の友会に行きはじめたころ、玄関脇の待合でいろいろなひとの経験を聞いたが、なにかの折、ある男が、
「妻はですね、このごろ、もうひと時も私を離したくないふうでして、なぜ、はやくこちらの世へ来てくれないのかと、そればかり言います。妻の霊を呼びだして、救ってやったつもりでしたが、かえって苦しませるような結果になってしまいまして、私も責任を感じますので、思いきって、妻のいうようにしてやろうかとも考えております」
と、しみじみと述懐した。
その男が、七つになる女の子を道連れにして、千葉の海岸で投身自殺をした。それが問題になったのらしく、解散したのか、移転したのか、その後、出かけて行ってみると、会はもうなくなっていた。白川は大切な夢を見残したような気持で、当座は、ぼんやりとしていた。