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湖畔
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湖畔
久生十蘭
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Original Public Domain
Chapter 3 of 5

3

日疋は左手に花札を掴んだままそッちへ振返って、

「アレ、岡焼居士がまた妙なことを言っていますよ、人を馬鹿におしでない」

縁にいる陶の方へ流眄をつかいながら、

「そこにいるどなたかのように、澄ました顔で隠し食いなさるのとは違います。失敬ナ、妾はこれでも処女ですヨ」

思わせぶりなことを言って、明いたほうの手を北村の腰に廻し、

「北村さん、言わしてばかり置かないで、いッそ本色になって気を揉ませようか」

と、なにか妙な科をしてみせた。

一同はヨウヨウとか、チェストとか盛んに囃したてる。女学生風の海老茶袴は、アア耐らない耐らないと身体を揉んで立ちあがると、

「見せつけられてばかりいて、逆上てしまうワ」

と先刻の狐の傍へ行って、

「すこし散歩しましょう。よウ、ぶらつこうッてばねえ」

と手をとってひきたてた。

狐はされるままに立ちあがって、

「風は金波を揺がして遠く声あり、船頭、何ンぞ耐えん今夜の情か、オイ、戸外へ行くと、怖いことがあるぜえ、承知かア」

と言いながら庭へ下り、手を取合ってこッちへやってくるので、恐入って湖畔までひき退ると、狐の書生は女学生の八ツ口から手を入れて肩を抱き、縺れるように裏の林へ入って行った。

俺は玉紫陽花の咲いている叢にしゃがんで息をころしていた。考えれば考えるほど不埓な所行だから、踏込んで叱りつけてやろうと思ったが、雑輩どもに怒気を見られるのは不見識だから、一同が退散した後のことにしようと考えなおし、それまで時間を浮ヶ島の高木という弁護士の家でつぶすつもりでいくと、高木は賽ノ河原の知人のところへ碁を打ちに行っているというので、やむをえず湖畔の金波楼という料亭で不味い酒を飲みながら時を消していた。

十一時近くになったので、下司どもも退散したろうと、庭先からいきなり母屋へ行くと、退散どころか先刻にも増した大活況で、大童になって雨の坊主のと騒いでいる。これではいつまで待っていても埓が明かぬと思って、縁から座敷へ上ると、一同の狼狽ぶりは見るもあわれなくらいで、動顛して腰も立たず、雷にでも撃たれたようにその場に慴伏してしまッた。追々、召使どもも奥から走りだしてきたが、俺が前触れもなく供も連れず突然やって来たのを、自分らの失態の糺明に来たのだと思ったらしく、廊下に平伏したまま顔もあげない。

見るところ、座敷には陶もいないようだし、俺にしても、いつまでもそんなところに懐手をして突ッ立っている訳にもいかぬ。襖を開けて陶の居間のあるほうへ行こうとすると、日疋が急に俺の羽織の裾をひき、

「ご前様、どちらへ」

と馬鹿なことを訊ねながら、這うようにして膝行だしてきた。

「夫人は御気色が悪いとおっしゃって、さきほど御寝になりました」

と言うから、ウンと答えてまた行きかけると、日疋は前へ廻って、子供の通せんぼのように両手をひろげて立ちふさがった。

「なんですかソノ、たいへんにお悪いそうで」

言うこともしどろもどろなので、さては奥になにかあるなと、日疋をおしのけて奥へ突進んだ。

後ろで日疋がアレーと悲鳴をあげた。どう間違ったッて、こんな輩の前で端ない振舞いをするはずはないのだが、先刻からたまっていた鬱屈と憤懣が、未熟な酒の酔といっしょに一時に発し、どうしても感情を制止することが出来ない。廊下を踏み立て、陶の寝室へ行ってドアの握りに手をかけると、内側から鍵がかかっていてガタガタとうろたえ廻るのが手にとるように聞える。そのうちに庭に向いた硝子窓を開ける音がするから、猶予はならぬと、廊下にあった樫材の花台でドアの鏡板を打壊しにかかった。誰か後から抱きついて俺を引離そうとする。花台で頭を叩き割られなンだのがそいつの倖せだッた。

大荒れに荒れてドアを壊して部屋へ入ると、六枚折の屏風をひき廻した内側に明々と台ランプを点し、布団の上に括枕が二つ、枕元には燗徳利や小鉢まで置いてある。相手は窓から逃げたのだとみえて、窓際の畳の上に、白足袋と腰下げの煙草入が落ちている。足をあげて屏風を蹴倒すと、その蔭に、人形のように白くなった陶が諦めきったように坐っている。長襦袢の胸元がはだけて乳の上のあたりまで透け、丸い隆起にランプの光が斜に射しかけて、美事な影をつくっている。

俺の心の中で惹起ッた気持は、劣情と言おうか、嫉妬と言おうか、恍惚と言おうか、その三つが等分に入交ったようなとでも言ッたら、あたるかも知れぬ。しかし、それも一瞬のことで、俺の胸元に野蛮な激情が突っかけて来、束々と陶の傍へ行くなり、力任せに肩を蹴った。陶はアッと叫んであおのけに倒れ、腿脛も露わな前裾をつくろおうともせず、死んだようになって眼を閉じている。

それから後、どんな騒動をやらかしたかなに一つおぼえていない。大勢して俺の腕と肩を支え、むりやり座敷のほうへ引擦って行ったことだけが微かに記憶に残っている。気がついてみると、俺は人気のない座敷の真ン中に一人で寝かされ、冷汗を流して震えていた。

初更に近い様子で湖水をわたる夜風のほか物音もなく深沈と夜が更けている。陶はどうなったろうと、手を拍ってみたが、誰も出て来ない。召使どものいる下屋へ行ってみると、看護婦と下婢がひとかたまりになり、生きた空もないようにすくまっていた。

夫人はどうしたと訊ねたが、存じませぬというばかりで埓があかない。

いずれにしても結着をつけぬわけにはいかぬのだから、邸中を探したが、どこにも見あたらない。もしか貴様の傍にでもいるのかと子供部屋といっている別棟をのぞいたがそこにもいない。やむをえず、座敷へ戻って腕を拱いて考えていたが、俺の胸にあったのは、忿怒でもなく、悲哀でもなく、妬忌の念でもなく、どうして体面を膳おうかというそのことであッた。慮外な仕儀で、前後のさまもとりとめないほどだが、狷介不覊の、剛直のと世間から囃し立てられている俺にとって、この不都合は災厄以上のものであった。一座の中には事あれかしの弓削などもいたことだから、明日の夕刊あたりに毒々しい雑報調で盛んに書きたてることだろうが、俺の名が探訪ずれの筆の先にかかって散々にひきずりまわされ、俺の名聞に容赦なく墨を塗られるかと思うと、考えただけでも腹が立って身の内が震えてくる。

未練の鼻ッ垂しのと、俗嘲卑罵を浴びながら引込んでいるわけにはいかぬから、対抗上、姦通の告訴を提起することになるのだろうが、それもあまり褒めた話でない。衆人環視の公判廷で、「ハイ、この男に家内を寝取られたのに相違ございませぬ」などと陳述したら、それこそ恥の上塗りである。

俺は二進も三進もいかぬところへ落ち込んで藻掻いていたが、こういう不味い始末になったのは、あの時、手ぬるい扱いでやめてしまったからだと気がついた。殺さぬまでも、激情に任せて、斬るなり突くなりしていたら、それで一応の名分が立ち、笑われッぱなしになるようなこともなくてすんでいたろうにと、それが残念でたまらぬ。

やり損ったと思うと、気持が昂ってきて、ただ一つのことの外、なにも考えられなくなった。つまりは今からでも遅くない。思い切ってやってしまえということなのである。お手討も時代めいて些か烏滸だが、そうでもするほか、面目を保つ方法がない。そんなことを考えているうちに、自己的な才覚ばかりが発達して、どうでもやるほかはないという方へ気持が傾いた。

正直なところを言えば、本当の俺の気持はその時別な方へ働いていた。姦通の現場を見たときは、なるほど激発もしたろうが、陶があんな不埓を働いたについては、そうなるように押しやったこの俺にも、罪の半分はあることを承知している。俺は子供のときから失望することに馴れているし、陶の愛情などは最初から期待していなかったから矢張りそうだッたのかと思うだけで、腹も立たず、況んや、殺したいほどに憎む気にはなれぬ。ああした現況を俺一人だけが見、外に誰も知らぬという絶対の安心があったら、不心得を諭すくらいのところですましていたろう。

こうしてみると、俺という男は、どれほど卑怯で残酷で、且つ利己的な人間かということがわかる。名聞のため、自己一身の体面を保つために、憎んでもいぬ妻を殺そうという。人間は一銭のためにもよく人を殺す、その所行は残忍であろうも、俺の場合ほど卑劣ではなかろうと思われる。俺の心意は激情から醒め、既に冷理にかえっているのであるから、こういう気持では手にかけにくいが、絶体絶命の羽目だから、思い切ってやるほかはなかろうなどと考えている時、庭先に人がきたような気配がした。

顔をあげてみると、箱根笹の繁った松の下闇に陶がションボリと立っている。

「おい」

と声をかけると、陶は張り裂けるほど眼を見ひらいて、だまって俺の顔を瞶めている。

卒倒する前によくこんな眼つきをする。失神して倒れている奴は殺しにくかろうと思ったので、倒れられぬ用心に、

「陶、こッちへ来い」

と怒鳴ると、陶は蹌踉くように座敷へ上ってきて、畳に両手をついて頭をさげた。

「よく戻ってきた、戻るには戻るだけの覚悟をして来たのだろうナ」

と言うと、陶は貴様の寝て居る子供部屋の方へチラと眼を走らせてから、顔を伏せて微かに頷いた。

浮ヶ島の高木の家に着く頃、白々と夜が明けかけ、露で膝まで濡れあがって、その辺が痺れるようだッた。玄関の呼鈴を押したが、誰も起きて来ない。庭から縁側へ廻って、下駄で力任せに雨戸を叩くと、

「誰だッ」

と癇癪を起したような声がし、雨戸を開けて高木が顔を出したが、俺の恰好が凄かッたのか、アッと言って部屋の中へ駆け込みそうにした。

座敷へ上がって胡坐をかくと、高木は顔を引攣らせて畏まり、しきりに上眼づかいをしている。

俺はいきなりに、

「陶が不埓を働いたから、手討ちにした」

と言った。

高木はエーッと息をひいて、顎のあたりを慄わせていたが、やがて眼を丸くして、

「不埓といって、どのような」

と痴な口をきいた。

「密通の現場を押えたから、殺してやった」

「相手は?」

「そんなことを俺が知るものか。これから東京検事局へ自訴して出るから、俺の弁護をして無罪にしろ」

高木は膝に手を置いて俯向いて考えていたが、しばらくすると如何にも当惑そうな顔で、

「サー、私には出来そうもありませぬ」

と答えた。

高木は旧藩士の伜で、米国の費府大学で状師の免状をとり、まだ若冠だが出来がよく、訴庭で法官と輸贏を争ってもヒケをとるような男ではないが、因循する性質で、大切な時を尻込して失敗ってばかりいる。かねがね遺憾に思っていたもンだから癪にさわって、

「なにをフーリッシな、貴様に出来ぬことがあるものか」

とキメつけると、高木は両手で頭を抱えこんで、

「いやア、私などには、これはよッぽどの難件です。成算がありませぬ」

「だから、それを相談しようというのだ。それとも、引受けられぬ事情でもあるのか」

高木は顔をあげて、

「ナーニ、そんなことがありますものか」

と腕を組んで思案していたが、

「よろしゅうございます。及ばぬまでも奮発してみましょう。事実とすれば、驚き入ったことで、あのような御眷顧を受けられた夫人としては、実に忘恩な成され方ですから、その点に力を注いでリターニングすれば」

「左様さ、陶の方は、どう罵っても差支えない。材料が足りなければ口合をして事実を捏造しても構わん。しかしそれだけで無罪になりそうか」

「イヤー、それだけでは難かしゅうございます。なにか違法性の阻却された事実でもなくては」

「結構だな、そういう都合にしても貰おうか」

「と、おっしゃられても、そう手軽にはいきません。それはともかく景況を伺って置きましょう、どういう具合にして殺害なさッたのですか」

「首を締めて殺した」

「蘇生なさるようなことはございますまいか。自訴なさッた後で蘇返ったりしたら、飛んだ物笑いになりますから」

「衿を掴んで締めあげ締めあげしていくうちに、耳と眼から血が流れてきた。万が一にも蘇返るはずはない」

「何故、刀かピストルを用いられンかッたのですか」

Chapter 3 of 5
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