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湖畔
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湖畔
久生十蘭
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Original Public Domain
Chapter 4 of 5

4

「手許に無かったからだ」

「逆上なすッて、そんなものを持ち出す暇がお有りにならなかったのですネ、それはよろしい」

「オイオイ、俺は逆上などはせぬヨ。至極落着いていた。持出したくとも、別荘には刀もピストルもないのだ」

「どうでもよろしゅうございます。で、死体はどうなすッたので?」

「ボートに乗せて、重石をつけて湖へ投げこんでやった」

「どうしてそんなことをなさッたのです。なぜ現場へ放ッて置かれンかッたのですか」

「癪にさわってたまらぬから、湖水へ投込んでくれたのだ」

「場所はどの辺で?」

「仏ヶ崎の沖だ」

「あの辺は蘆ノ湖でも一番深い個所で、盛夏の候でも五十尋からありますが、貴君はそれを御承知の上で、そこへ捨てなさッたのですか」

「左様だ。それでは不都合か、具合が悪いか」

「ハー、それでは感動犯としての条件が怪しくなって来ます。承知でそういうことをなさッたというのはいけません。邸に置くのは穢らわしいから、湖畔まで引摺りだして夢中で押し落した、とでもいたしましょうか。そうでもいたしませんと」

俺は畳の上に足を投げだして、

「ボートで運んで捨てたッて、たいした不都合はなかろう、貴様は責任阻却と言ったが、そんなら俺は無罪ヨ。これでも俺は狂人なンだぜ。外国から帰るとき、印度洋の真ン中で確かに一度は発狂しているンだ。俺は狂人だから、なにをやッたって責任は持たんヨ。一切夢中でやったのだ、辻褄が合わンけれゃ、いっそう結構じゃないか」

と言うと高木は俯向いて苦笑していた。

六月十二日華族局へ隠居届を出し、その足で東京検事局へ、自訴した。即日、鍛冶橋監獄の未決監に繋がれることになッたが、第一回公判で高木が精神鑑定の請求をした結果、残欠治癒と鑑定され、十月一日、第二回の公判廷で、責任無能者の故をもって無罪放免の宣告を受け、同三日、出獄した。

出て見ると、果して評判がいい。この事件に対する世間の批判は、久しい以前から妻の不義淫行を知りつつ隠忍していた為、一度治癒した精神病が再発し、衝動的に殺人を行ッたもので、夫をして再度発狂させ殺人罪を犯せしむるにいたったのは、すべて妻の責任だということに一致していた。同族の誰彼はみな俺の同情者で、中には手紙で祝辞を述べて来るものもあるという次第だから、俺としても愉快ならざるを得ない。その月の五日、同族、関係者百五十名を柳橋の大中村に招いて盛大な出獄祝をやったが、これがまた非常に評判になッた。その方は栄福だったが、監獄はやはり監獄だけのことがあるので、獄中で些か健康を損じた。心神が屈託して仕様がない。それでしばらく静養するつもりで箱根の別荘へ行った。

予告しておいたので、前栽の植木なども手入れが届き、床の間に花を飾ったりして気を使っているが、あの日の思い出は払い退けることが出来ない。陶がションボリ立っていた箱根笹の上に霜がおり、風が吹くたびにサヤサヤ鳴る。陶の部屋へ行って見ると、机の上の青磁の花瓶に寒菊が二三本揷してある。日毎に取換えるのだろう。水もまだ新しい。嫌でも思い出させるものがあって、愉快でない。

朝ごとに霜が強くなり、神山の頂きが薄ッすらと白くなったと思うと、満山の楓葉が飛落し、一夜のうちに稜々たる山骨が露呈してしまった。俺は風邪気味で、懐炉を背負って憮然と庭を眺めていると、遠くから大勢の声が近づいて来て、玄関の方でなにか口々に呼び合っている。なにが起ッたのかと思っていると、甚造という下僕が走り込んできて、沓脱石に両手を突いた。俺は縁へ出て、

「なにを騒いでいるんだ、静かにしろと言え」

と叱りつけると、甚造は息を切らしながら、

「今朝、梅屋の重吉が深良の川口へ鰻の笯を揚げに行ったれば、蘆の根ッこに、ほとけさまがツラまッておりますゆえ、怖わ怖わ検分いたしましたところ、それが奥方様の御遺骸だッたンで御座いまして、なンともはや、お傷しいお姿で、それでみなでお運び申しあげ、只今、控の間へ」

「誰に断って、死骸なンぞ持ち込む。あまり勝手な真似をするな」

「では、岸へ放り投げて置けとでも仰言せられるのですか」

と、犬が怒ったような眼付で俺を見あげた。

「控えろ。湖水に身投げする奴は、年に一人や二人ではあるまい。もう半年も経っておるのに、どうして奥だと言う判定がつくのだ。彼処へ行って、皆にうろたえるなと言え」

「御言葉を返して、失礼では御座りまするが、誰が見ても、紛れのないことで」

と言って動かぬ。

心中に惹起された感情を、なんと名づけていいかわからぬ。真実のところ、俺は陶を殺してはいない。あの時、俺の決心は少しも鈍っていなかッた。俺は陶の胸上に馬乗りになり、少しずつ力を増しながら首を締めあげて行った。なぜ殺せなかッたと言えば、首を締めたこと、俺の手が陶の肉体に触ったことがいけなかったのだ。拙かった。陶は足の指を蟹のように折曲げ、薄眼の中で眸を寄せ、俺にしっかりと抱きつきながら口を開いてア、アと喘ぎ出した。顔には湯上りのような血の色が差し、髪の生際が艶めかしくシットリと汗ばんでいる。俺は力を入れながら、

「どうだ、苦しいか。ナニ、今すぐだ。我慢しろ」

と言うと、陶は俺の方に顔を差伸べ、首を振ってニッコリした。小さな朱い唇は、俺の接吻を求めているように、震えている。俺は身の内に名状し難い劣情を感じ、あわてて陶の肉体から飛び退いた。

それを敢えてするだけの正直さがあったら、俺の半生はこれほどまでに不幸ではなかッたろう。俺の心は白け生温くなり、人を殺すには最も不適当な状態になってしまッた。俺は懐手をしながら苦い顔をしていたが、

「命だけは助けてやるが、生きていると思ってはならぬ。貴様は今日限り死んだのだ、三島の蓮月庵へ行って尼になって一生暮らしていろ。名を名乗ることも、そこから出ることもならぬ」

と申渡し、陶をひき立てて庭から湖畔へ出、ボートに乗せて深良川の方へ漕ぎだした。湖尻峠を越えさせ、深良村から三島へ落してやるつもりだッたのである。

磨き出したような十日月が涓々と湖上に照り、風は蘆荻を吹いて長葉を揺らめかす。四辺闃として、聞えるものはオールの音のみ。陶は艇首に坐り、首を垂れて一言も言わぬ。俺も言わぬ。言うことがあり過ぎて、かえってなにも言われぬような心持であった。

四十分ばかり漕ぐと、深良の川口に着いた。俺は手を貸して陶をボートからおろし、財布のまま金を懐へ押し入れてやった。陶はお辞儀をすると、甲斐甲斐しく裾を端折って、笹原の中に細くついている小道へ入って行った。ボートを漕ぎ返しながら振返って見ると、陶は小高いところに立って、こッちを見ていた。

玄関脇の控ノ間へ行ってみると、白布で蔽った骸を戸板に乗せ、その周りに家傭どもと村の者が畏まっていたが、俺の顔を見ると、駐在所の巡査が恭しい手つきで白布を捲りあげた。

死体は鯨の脂肪肉かアルコール漬の胎児の標本かというような白けた冴えぬ色をし、わずか耳の上に残った五六本の髪の毛が眼玉の抜けた眼窩に入りこみ、耳の穴から青々と水藻が萌えだしている。脇腹の肉が無くなって、肋骨の奥に魚の白子のような臓腑が透けて見え、胴中に巻きつけた繩の端が尻尾のように尻の下から喰みだしていた。

誰か知らせてやったのだとみえ、高木が真ッ青な顔をして駆けつけて来たが、一目見るなりウーッと奇妙な声をだし、泣かんばかりのようすで、

「アー、実にどうも、お気の毒なことをした」

と言って合掌した。

馬鹿馬鹿しく、忌々しく手も足も出ないような心持でジリジリしていると、巡査は不愛想な俺の顔を見て、悲歎に暮れているとでも感ちがいしたのか、諄々と弔辞を述べてから、

「なにしろ、水に漬っておりましたことで、大分と御相好が変っておりまするが、然し、なんと申しましても、これは御内室の御遺骸であるべきはずなので御座いまして、間も無く、検視官も来臨いたしますが、その前になにか特徴を御発見下さいまして、閣下の御認案を頂きたいので」

すると高木は、叱責するような口調で、

「なにを下らん、認める認めンもないじゃないか。奥様の御遺骸でなくて、一体誰の死体だと言うんだ」

と蒼くなって捲したてた。

俺は高木を怒鳴りつけてやろうと思ったが、怒鳴るべき言葉が見当らない。どこの乞食の果てか知れぬ、こんな見苦しい死骸を背負いこむ位いなら、いっそ事実を公表したほうが優しなので、茶番じみた愁傷を尻眼にかけ、

「オイ、俺は陶を殺しはせぬヨ。陶は三島の尼寺にいるンだ」

と言って退けたら、さぞ清々するだろうと考えていた。

なるほど、それは痛快であろうも、それを言って退けると、生優しいことではすまなくなる。不実の申述をして裁判を進行結審せしめた廉で、違警罪に問われて監獄に繋がれねばならない。これこそは法に於ける嗤うべき遺漏の一つだが、殺したと虚偽の申述して無罪になった俺が、殺さぬと真実の申述をすれば、かえって有罪になるのだ。

この罪は秩序罪で、大罪というのではない。二年位いの懲役ですむから、その方は大して不都合はないとしても、事情を述べる段になると、俺の卑劣臆病な性情、軽薄浅膚な虚飾心が底の底まで評隲摘抉され、ありありと白日の下に曝らされねばならぬ。そればかりはなんとしても耐えられることでないから、それが厭なら、あくまでも殺人犯人になりすまし、これこそは俺が手にかけた当人の死体だと証言しなければならぬ。水死人の方はずいぶん迷惑だッたろうが、これは俺によって首を締められ、俺によって湖水へ投げ込まれた妻の死体だと、ついつい承認してしまッた。巡査を始め、一同の者は、非常に満足していた。

俺は奥へ戻って膨れッ面で坐っていたが、フト心中に萌した疑念のために、胸を刺貫かれるような思いがした。あの見苦しい肉塊は、真実、陶の死体ではないのか。死体は深良川の傍で上ったということだッたが、俺のボートが見えなくなってから、陶がそこへ身を投げたのではなかろうか、というその疑念である。陶は従順な一面、非常に思い詰める性情だッたから、それ位いのことはやりかねない。俺は陶を殺してはいないのだから、今迄は死骸を見てもなんの感情も惹起きなかったが、陶が投身したかも知れぬということになれば、話はまた別である。

俺は急に立って控へ行き、人目もかまわず白布を捲って見た。死体の肉身はいちじるしく腐爛し、魚族に喰いとられ、岩に擦れ、二た目と見られぬような惨状を呈しているが、元来、貧栄養湖の寒冷な水の中にあッたものだから、ところどころに完全な形が残っている。首から肩へかけたあたりの肉付は、生前華車な美しい身体だったことを示している。胸とてもその通りで、さぞムッチリした、豊かな胸だッたのであろう。その俤も充分に残っている。見れば見るほど陶の身体に似ているようで、そのうちに気もそぞろになッてきた。陶の下顎の門歯と犬歯の間に小さな虫喰孔があッたのを思いだし、恐る恐る顔をさしかけてのぞきこんで見ると、そこに見馴れた孔があった。俺は思わず尻餅を突いた。

これがあれほどまで美しかッた陶の身体なのか。黒曜石のような聡しい眼のあった個所には、眼窩が暗い孔を開け、桜貝のような愛らしい耳が着いていたところから藻草が青い芽をだしている。俺を抱き、俺に枕を貸したあの嫋婉やかな腕は、いまはことごとく肉崩れ落ち、水に晒された一本の白い腕骨にすぎぬ。

この世で出逢おうとも思わなかった無残無情を眼のあたりに見て、俺はさながら胸を引裂かれる思いだッた。自ら手こそ下さなかったが、行末、長く咲くべかりし清純の花を、おのれ一個の体裁をつくろうために、無残にも摘取って地獄の口へ追いやってしまった。自ら手を下した死体の前に坐っていても、これほどの慙愧の念は感じられまい。地獄の口が一旦嚥みこんだものを吐きだし、このようにも悲惨な有様にしてワザワザ俺の前に持ち運んだのは、それによって退ッ引ならぬ証拠を眼前に突きつけ、酷薄卑劣な罪業をいちいち思い当らせようとしているのに違いない。して見れば、この骸の上に残された傷も、汚点も、腐爛も、みな俺の臆病、卑劣、虚飾、自己心によって成された罪の紋章であらねばならぬ。

Chapter 4 of 5
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