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間もなく検視官と屯所の医師がやってきて、型のような検視を行った。それが終って陶の身体を棺に納めようとするとき、一塊の肉が脛から剥離してポロリと戸板の上に落ちた。俺は袖で顔を蔽って泣いた。
陶が生きていると思っていた間は、さしたる感情もなかったが、もうこの世に居ぬ、この世では逢うことが出来ぬと思うと、後悔とも愛憐とも名状のつかぬ思いが湧涌してとめることが出来ぬ。俺はこの湖畔ではじめて陶に逢い、この湖畔で陶に別れることになッた。最初の日、陶がボートの中で語った話や身振り、結婚してからのさまざまな邪気ない遊戯、忘れていた細かいことが記憶に甦ってきて、事ごとに涙を絞らせる。
棺は広間に安置した。陶がオルガンを奏いて一人で遊んでいたその部屋である。棺の前には陶が好んでいた秋薔薇の花と博多人形を供えた。思えば、愛らしくもまた純真な妻であった。陶がどれほど優しく、真実で、愛情が深かったか、死なれて見るとそれがよくわかり、それだけに諦められぬ。今にして思えば、陶こそは、この世で真実に俺を愛してくれたたった一人の女だった。俺とても、心から陶を愛していたのだが、未熟な性情が迸出を阻んでいたのに過ぎない。今ならばと言ったッて、陶はもう死んでしまった。おのれの馬鹿がわかッた時には、陶はもうこの世におらぬのである。
棺の前に坐って、滅々と棚曳く線香の煙を見ていると、いかにも今生の別れというような気がして悲しくていたたまれぬ。人のいないところへ行って、思うさま泣いてやろうと思い、庭のつづきから裏の林へ入って行った。
小道の両側には、杉、楢、檜などが繁りに繁って、陽の目を蔽い隠すばかり。啄木鳥の声が樹林に木精し、深山にでもいるような気持がする。暮近い、暗い小道の落葉を踏みながら悒々と歩いているうちに、急に涙が胸元に突ッかけてきた。杉の幹に額をあてて泣いていると、その辺で、枝の折れるような音がした。
陶が両袖を胸の上でひきあわせ、顔を白ませて夕闇の中にボーッと立っている。俺は悲しみのために頭が狂い、また妄覚にとッつかれるようになッたのかと思い、影のようなものをぼんやりと眺めていた。陶は濃紫のお高祖頭巾をかぶり、同じ色の吾妻コートを着て、やはり俺のほうを瞶めている。しかし生きた人間でない証拠に、顔の輪廓が薄れたり朦朧となったりする。なんであろうと懐しくてたまらぬから、
「陶」
と声をかけると、陶は子供のようにしゃくりあげながら飛込んできて、息のつまるほど俺の首を抱きしめてオイオイ泣いた。
陶が死んだのではなかったと思うなり、陶の生きているところを誰かに見られたら、それこそ事だとうろたえだした。このあたりはまだ林の入口で村童がよく枯枝を拾いに来る場所だから、俺は陶の背を撫でながら、
「大きな声をだすな、人が来てはならんから」
と言うと、陶は急に泣きやんで、涙に濡れた大きな眼でジッと俺の顔を瞶め、
「貴君を殺して妾も死ぬつもりで来たンですから、もう名聞なんかどうだっていいんです。ねえ、どうか一緒に死んで頂戴」
と言いつつ、帯の間から鞘のまま短刀を抜きだして見せた。
世に能弁利口、人に取入ることの巧妙な者があって、それが千万言を費そうとも、陶の一言ほどには俺の心霊を振蘯させ得なかッたろう。俺は真実陶に愛されていたことを、この時率然とコンプレヘンドした。俺の筆をもってしては、この時の感情は描出すことが出来ぬ。仮りにバイロン、ギョエテの如き名筆を持っておったとしても、同様に不可能だッたろうと思われる。
俺は嬉しさのあまり泣いていた。陶がハンカチで度々俺の涙を拭ってくれていたようだッた。俺は子供が大切な玩具でも握っているように、無闇に力を入れて陶を抱き締めながら、
「よく戻って来ておくれだッた。俺は貴様に逢いたくて、今もそこで泣いていたンだぞ」
と埓もなくおなじことを繰返していたそうだ。陶が笑いながら今でもその真似をして見せる。
二人は縺れ合うようにして林の奥の小屋に行き、そこで交媾した。立木を柱に取って板屋根を差掛けた掘ッ立小屋で、入口が土間になり、四、五畳の古畳を敷いたところに居炉裏が切ってある。山番が雨に逢った時の避難所だッたが、今は立寄るものもない。
二人は抱合いながら口措かずに喋言り合った。陶はどんなに俺を愛していたか、俺に嫌われていると思って、どれほど淋しい日を送っていたか、その淋しい日が、どれほど苦しかったか。
「だから、あなたのかわりに、あのひとに来てもらったンです。あの人に言いました。妾は奥平だと思って、あなたとナニするンだから、貴君もそのつもりになって、出来るだけ上手に真似をして下さいって。うまく貴方になってくれた時だけ、ナニしたのでした。いけなかッて? 妾はやッぱり操を穢しましたの」
と邪気なく俺の顔を見あげ、
「妾はそう思いません。なぜって、妾は貴方とばかり、ずウっといっしょにいたンですもの」
「それで、貴様の相手は誰だッたのだ」
陶はフンと鼻を鳴らして、
「これだけは、殺されても言うまいと思ってたンですけど、今なら申します。実は、高木だったンです」
「矢張り左様だったのか」
「知っていらしたの」
「死骸が湖から上った時、真青になッて飛んで来て、合掌したり念仏を唱えたり、平素にない振舞をするから、ハヽアと気がついた。あれ以来、高木は別荘番も女中も追出してしまって、広い別荘にたった一人で蟄居しているそうだが、大方、一人でキヤキヤしているのだろう。あいつは気の弱い奴だから、そんなことばかりしていると、いずれ首でも縊ってしまう。高木は血便が出るほど勉強して、俺を無罪にしたンだから、それ位の罪は、とっくに消滅している。俺はもう何も怒っておらぬヨ。貴様にたいしても、高木に対しても」
俺はありッたけの下着を脱いで陶に着せかけ、大急ぎで別荘に駆戻った。陶の夜着代りにする厚手の外套を二枚と懐炉を抱えて出ようとすると、座敷の隅に、通夜の客に配る折詰弁当が積んであったから、ついでに三つほど盗み出して小屋へ戻った。二度目には、首尾よく座布団と茶の入った土瓶を盗み出したが、途中、ふところで熱い茶がこぼれ出して火傷をした。
読経のはじまる頃にまた別荘に帰ったが、心が弾ンでいるもンだから、焼香の途中で噴出しそうになって閉口した。翌日、高木と二人で東京へ行って、無事に埋葬を済ませた。何処の誰とも判らぬ者の葬式に、高木ははじめから終いまで泣き通しだッた。どうしてそんなに泣くのかと訊ねたら、此頃、気鬱病で訳もなく泣きたいのだから、放って置いてくれと言った。
小屋の中に少しずつ品物が増えた。欠茶碗に沢庵を盛るようなことはあっても、さまで日常に事欠かぬようになった。俺は妻を殺して愛人を獲たとでもいうところだが、ここに至っては二人の間にもうどんな嘘も見栄もない。俺が約束の時間通りに訪ねて行くと、陶は小屋から飛出して来て俺に抱きつきながら、
「よく来て下すったわねエ、嬉しいこと」
と、待ちかねていた愛人に言うような斬新な情意をこめて囁く。それが俺には無性に嬉しかった。町で仕入れて来た乏しい食物を埃の立つ古畳の上に並べ、それを二人で喰べると、外套をかぶって一時間ほど眠る。
或日、俺は陶に言った。
「俺はこの生活が楽しくてたまらぬから、死ぬまで続けたいと思うのだが、此処にいて、お前が生きているところを見られると、監獄やなにかと煩わしいことが起るから、いッそ家も財産も抛って日本のどこかの隅ッこで、自由気楽に暮らしたいと思うのだが」
と言うと、陶は掌を拍って、すぐ賛意を表した。俺は陶の手を執って、
「しかし、金など持ち出すと発覚するから、ホンノ着のみ着のままで飛び出すのだヨ、死ぬまでこんな貧乏な暮しをしなければならぬのだ、それで宜いか」
陶は、いいわねエ、そうしましょう、と立上って勇躍抃舞し、すぐにも出て行きたい風だッた。
次の朝、いつもの時間に小屋へ行くと、陶が駆出してきて、昨夕、林の入口で高木に逢いましたと言った。俺は思わず眉を顰めて、
「それは拙いことをした、そして話でもしたのか」
「イイエ、妾を見ると、目玉をコーンなに剥きだして、後退りして、這うようにして逃げて行きました。幽霊だと思ったんでしょうから、大丈夫ヨ。なにしろ、妾が墓の下へ入るところまで見届けた人なンだから」
「イヤ、なんとも言えぬ。然し、高木なら口止めする自信がある。一寸、行って来る」
二時間ほどの後、小屋へ戻って陶に言った。
「オイ、高木が首を吊っていたヨ。天井の梁にぶらさがっていた」
陶はだまって俺の顔を見返した。高木の口をふさぐために、俺が行って締め殺したと思っているわけでもあるまいが、なにか解せないような顔をしている。しかし別に何も言わなかった。俺は畳の上へあがると、陶の手を弄びながら、
「高木が死んだのを見たら、考えが変った。失踪なぞと生温いことせずに、俺が死んだことにしてしまおうと思うのだ。つまり、高木に失踪して貰って、俺の方は、自殺したことにする、高木の死骸を林の奥へぶらさげて置いて、俺の身代りにするのだ。そうすれば、綺麗サッパリこの世の縁が切れるというものだからナ」
夜の十一時頃、ボートを漕ぎ出して高木の家の裏手に着け、高木の死体を積込んで帰った。陶が岸に待っていて二人で運んだ。陶は足を持ち、俺は頭の方を持って、林の奥の方へ入って行った。死体は腹の立つほど重く、手懸りが悪い。月はあるが、木の葉が厚く繁っているので、下草までは届かぬ。茨や山葡萄の蔓が組合い絡合う暗い林の中で不器用な品物を運ぶのは楽でない。俺が転ぶと、陶も転ぶ。気の毒にも高木はいくつ掠傷をこしらえたか知れない。それでももう少しもう少しと、出来るだけ奥へ行った。そんな風にして一時間以上も歩いた。行手は楢の密生林で、それ以上は先へ進まれぬので、この辺でよかろうと繩で輪差をこしらえて高木の首を嵌込み、その端を持って欅の木へ攀登った。手頃な枝に繩を搦んで引っ張ると、陶は高木の足を持ち、低い声でヨイショ、ヨイショと掛声をしながら押しあげた。
下から見あげると、高木は俄に白髪の増えた顳顬を銀色に光らせ、観念したような、どこか仔細らしい顔をしてぶらさがっている。骨折が劇しかったので、なにか立派な芸術品でも仕上げたような満足を感じ、俺は懐手をしながら、一刻ぼんやりと眺めておッた。
●図書カード