Chapter 1 of 4

ある夏、阿曽祐吉という男が、新婚匆々の細君を携帯して、アルプスのシャモニーへ煙霞の旅としゃれたのはよかったが、合の夢もまだ浅い新妻が、ネヴェという質のわるい濡れ雪を踏みそくなって、底知れぬ氷河の割目に嚥みこまれてしまった。

それはモン・ブランの麓、アルジャンティエールから六時間ほどのぼったところにあるラ・トゥルという危険な氷河で、マァヘッドのアルプス案内記にも、ガイドを要すと特に注意しているのに、阿曽はホテルからザイルとピッケルを借りただけで、案内も連れずに出かけたのである。

阿曽がシャモニーからアルジャンティエールのグラッソンネというホテルへ移ってきたのは、八月ももう末で、山の天候が変りやすい時季だった。その頃になると、雪質が一時間ごとに変化するといわれるくらいだが、そのうえ、四時近くになると、霧が出て山の形相を一変させてしまう。行きにあったボン(氷河の割目にかかった雪の橋)が跡形もなくなり、立往生してまごついているうちに、凍って霧に巻かれて遭難するというような椿事がよく起こる。

これはあとで問題になり、ポンヌヴィルの裁判所まで持ちだされたが、ホテルのマネージャアは、たいしてスポルティフにも見えない貧弱な日本人夫婦が、こんな悪い時季に、氷河専門の案内者でも汗をかく、ラ・トゥルの氷河へ出かけようなどとは夢にも思わなかった。

フランスには、山岳局が規定した「登山法」というものがあって、生命の危険を保護するたてまえから、登山者の行動を制限し、あまり勝手なことをすると処罰されることになっている。ホテルのマネージャアが観光客にたいする監視の義務を負ってるわけなのだから、そうと知ったら、力ずくでもひきとめたこったろうが、そこまでの想像力が働かなかったのは、是非もなかった。というのは、アルジャンティエールという氷河がホテルのすぐ前まで雪崩れさがっていて、氷河見物といえば、その辺をブラブラすることにきまっていたから、ザイルも大袈裟なと苦笑したが、それ以上のことは考えもしなかったのである。

二人がホテルを出発したのは、六時ちょっとすぎ。部屋付の給仕が下のテラスまで送って出た。ムッシュウは綰ねたザイルを肩にかけてピッケルを持ち、マダムは緑色のサングラスをして、水筒を吊っていた。昼食は氷河の近くの山小屋でするつもりだったので、食糧は用意しなかった。

二人はホテルの前の道をおり、氷河がおしだした漂石のガラ場をのらりくらりと歩いて行った。給仕がテラスから挨拶をすると、マダムが振返って、

「ヤッホー」と手を振った。それがマダムを見た最後になった。

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