十五日 水曜
どこかで道草を食っていた最後のB29が一機、海よりも青い空の中をクラゲのように泳ぎながらゆるゆるとサイパンのほうへ帰って行った。
アンデルセンなら、お得意の童話の擬人法で、〈戦争……それは最後の装甲を解き、おのがベッドへ寝に行った〉とでも書くところだろう。
日本は降参した。とうとう奇蹟は起きなかった。
一夜のうちに大西洋の底へ沈んだアトランティド大陸のように、連合国がみなスッポリ海へ沈んで無くなってしまえと熱烈に期待していたが、駄目だった。芝生にふりそそぐ陽の光も、木の上を通る風の色も、なんの変りもないように見えるけど、これでもう今朝までのものとはちがう〈何物か〉なんだ。
それにしてもなんというすッとぼけた晴れようなんだろう。五年前の六月、フランスが降参した日もちょうどこんないいお天気で、〈空はあくまでも澄み、空気はさわやかで、このときほど美しい巴里はかつてなかった〉となにかの本に書いてあった。統計歴史学のお説だと、大きな国が倒れたり英雄が死んだりする日は、たいてい天気がよかったそうだから、その点では文句もいえない。
庭境いの夾竹桃の下で、ルルがごろごろ身体をころがしたり自分の尻尾にじゃれついてグルグル廻ったりしている。いかにもあそんでもらいたそうなようすだ。ご放送がすんでからママのおつきあいをしてロッキングに掛けていたが、べつに面白いこともない。クラブへ行ってみようとそっと立ちあがると、すかさずママがたずねた。
「どこへいらっしゃるんです」
「ちょっとクラブへ」
「クラブになにがあるんですか」
「なにがあるか、行ってみないとわかりませんのですけど」
「あなたはどうしてそうジタバタするんです。今日ぐらいは落着いていられないんですか」
うちの賢夫人は丑年生れの大人物で、覚悟をきめて坐りだしたら、背筋をおッ立てたまま、まる一日でも動かずに坐っていることができる。娘時代はひどい物臭さで、お琴も、お花も、ピアノも、手芸もうるさいことは一切やらず、一日中、居間でしんとおしずまりになっていた。パパは懶惰の美とでもいうようなのろのろの魅力にひっかかって結婚を申し込んだが、コセコセした才女型が外交官のお嫁さんの定型だった時代なので、法王庁におけるルーテルのように各方面から非常なヒンシュクをかったということだ。
パパ説では、妻君というものは、いるようないないような、たとえば雨とか虹とか、そういう自然現象のように、なんとなくまわりにトーヨー(たゆたい、漂うこと)しているのが理想なんだそうだが、新婚早々、二人で旅行したとき、汽車が東京駅を出て神戸へ着くまで、ママが姿勢を崩さずに悠然と坐っていたのにはおどろいて、こいつは馬鹿でないのかと心配したそうだ。
ところであたしは申年生れの小人物で、天気のいい日には先祖の原始感情がめざめ、枝から枝へ伝って歩きたいような衝動に駆られ、お尻がむずむずして椅子になんか落着いていられない。下手に無理をすると、血の中の先祖の猿が腹をたてて、おれをどうするんだ、おれを。キャッキャッと金切り声をたてながら身体じゅうをくすぐる。
猿は牛とちがう。牛のようにやれといったってやれるわけはない。それに満寿子さんの〈あの方〉と〈和平工作〉と〈アメリカ〉の三角関係がどう解決したか気にかかる。
「ともかくちょっと行ってきます。用事を思いだした」
あたしのいうことなんかてんで問題にしない顔でママがいった。
「あなたは今朝もいらしたでしょう。今日はもういいにしておおきなさい。戦争が終ったからって、すぐ解放されたような気になって、フラフラ遊びまわったりするのは利巧なひとのすることではありません。ママは反対よ」
「その点なら同感ですよ、ママ」
「これから先きどうなるのか、調印式がすむまではまだまだたいへんなんですから、もうすこししっかりしていただきたいですね」
「かしこまりました、夫人さま」
「ふざけるのはいい加減にしておきなさい。あなたっていったいどういうひとなんでしょう。こんな特別な日に平気な顔でいられるというのは」
平気な顔ってどんな顔のことか知らないけど、あたしの顔は生れつきこんなベティさんみたいな顔なんだ。頭の鉢はうんとおっぴらき、眼はびっくりしたようにキョロリとし、鼻は孫の手みたいにしゃくれている。おかあいらしいなんていってくれるひともあるけど、それはフロイドのれいの〈言いちがい〉というやつで、じつのところは〈変っている〉というつもりだったのにちがいない。夕陽があたると、火がついて燃えあがるかと思わせるかのふしぎな赤毛は、年頃になるとすこし下火になったが、脛のほうは時代とともに太くなって、どう見てもスラリとしていますなんていえない。
顔も、腓らッぱぎも、どこもここものんびりしていて、こんなパテティックな日には向かないとんまな出来なもんだからとかく誤解を受けて損をするが、平気がケロリという意味なら、あたしにもすこしいうことがある。
日本人がじぶんの国の敗けたことばかりいっていると、中国やフィリッピンに笑われるそうだ。これについてはトーマス・マンがうまいことをいっている。〈独逸人はじぶんの国が敗けたことに病的な誇りをもっている。破滅させた他国民の惨状は知らぬ顔で、ひたすらじぶんの悲劇に陶酔している〉って。
あたしたちは民族全体としての大きな不幸に逢ったことがなかった。ノルマン人に征服された英国人の苦しみも、プロシャに負けたフランス人の怒りも、いくども亡国の民になったポーランド人の絶望も経験していない。細長い平和な国にのんびり生きてきたので、戦争に敗けた悲しさなどは、いまのところまだ感じることも理解することもできない。つまりママのいう〈平気な顔〉なんだが、これでもママなんかの知らないところでポタポタ涙を流している場所が一カ所あるんだ。
「こんな顔も困ったもんだね。日本が敗けたというのに、馬鹿みたいに笑っているんだ」
ママはなにもいわずにだまって庭をながめだした。ママの日常はつかまえどころがないほど大きく、怒っているときでもふだんの顔とちがわないので油断していると、だしぬけに手が伸びてきて、襟がみをつかんで猫吊しにしたりする。しずまりかえっているようでも、なにが飛びだすかわからないのでうっかりしていられない。そろそろと椅子をずらして広縁の端でようすをうかがっていたが、いっこうなにもはじまらない。いくらなんでも静かすぎるのでのぞいてみたら、ママは庭へ顔を向けたままスヤスヤとおしずまりになっていた。
まったく無理もないというところだ。昨夜の〈宮城占領事件〉で、パパもママもあたしもとうとうまんじりともしなかった。戦争は二月に終るといったり、四月だといったり、五月、六月、七月、八月と毎月のように予言がでた。この二月以来、パパもママもただの一日も人間らしい寝かたをしていない。
七月二十一日の桑港放送が、〈条件は無条件降伏でも、取扱いは日本の抵抗期間の長さによって決定されるだろう〉という意味深長な放送をしたというので、あまり強がりをいっていると、せっかくの〈手加減〉をだめにしてしまいはしないかと、あたしのような子供まで毎日おろおろしていた。
十日の午後、〈女子挺身隊第一号〉……前関白総理大臣ドオショオ閣下の“みっともないお嬢さん”の一の乾分、桜会の咲子さんが厳粛な顔でやってきた。
「今朝の午前三時に終戦の御前会議がおわりました」
あたしは気のない顔でいった。
「また終戦か。これでもう二十六回目だ。その話なら聞きあきたよ」
「こんどこそほんとうなの。それで今夜の十二時にラジオで降伏の申入れをするんですけど、もう手遅れなんです。連合国は日本国民を抹殺することに相談をきめて、〈抹殺宣言〉の原子爆弾を今夜の八時から十時までの間に世田谷へ落すんだって。次の汽車で長崎へ逃げましょう。切符は買ってあります」
すごいことになったもんだ。あたしがおおあわてにたずねた。
「たいへんだ。長崎へ行って、それからさきどこへ逃げるの」
なにがお気にさわったのか、桜会はだしぬけに怒りだして、
「失礼ね。あなたみたいな馬鹿なひと、原子爆弾でふッ飛ばされてしまうといいわ」
とプンプンしながら帰って行った。
桜会の咲子さまは、池の魚のあばれかたで丹那の地震を言いあてた地震学者のお嬢さんだから、また鯰のご神託でも受けたのだろうが、どこに手ちがいがあったのかその日は空襲さえお休みで、ひと晩じゅう耳鳴りがするほどしずかだった。
フランスが独逸と伊太利へ休戦の申し入れをした六月十七日の放送で、八十一歳のペタン老首相が〈戦争をやめるようにつとめてみなくてはならない〉というべきところを、原稿の tenter de(つとめてみる)という言葉を読みおとして〈戦争をやめなくてはならない〉と放送したので、孤立した陣地で英雄的な抵抗をしていた全フランス軍は、涙をのんでいっせいに降伏してしまった。政府はあわてて、〈フランスの全軍に告ぐ。ちょっと待ってくれ。休戦の申入れをしてみてみただけで、戦争は終ったのではない。早まって降参なんかしてはいけないんだ〉と訂正の放送をしたが、そのときはもうあとの祭りだった。
ペタン首相が〈涙で眼が曇って字がよく見えなかった〉と弁解したら、ド・ゴールが〈たぶんお齢のせいでしょう〉とロンドンから憎まれ口をきいたが、フランスはいいところで手をうったので名誉だけは救われた。六月二十五日の〈国民に告げる言葉〉で、政府の自由はなお残り、フランスはフランス人のみによって行政されるだろうといっていたのが記憶に残っている。
貫太郎さんはペタン首相より六つも若いから、読みちがいなんかするはずはないが、日本はギリギリまでやってしまったので、フランスのようにはいかない。たぶんひどくみじめなことになるのだろう。あたしたちが心配していたのは、こういうディクティテッド・ピースになることだった。日本がポーランドのように負けっぱなしになって、日本人が旅券なしで世界中の貧民窟をうろつきまわらずにすむように、戦争継続派の頭に、このへんで切りあげるほうが利巧だという霊感のようなものがひらめいてくれないものかと、そればっかり祈っていたが、日本が早く降参すればいいなどと、ただのいちどもかんがえたことがなかった。
昭和十八年に日本へ帰ってきたその日から今日まで、あたしたちは一日の休みもなく戦争に協力した。一年半のあいだ、寝るにも起きるにもスラックスをぬいだことがなかった。男女国民総出陣の〈義勇隊兵役法案〉が通過したときも、草掻きの熊手で海兵隊とやりあうチャンスにめぐまれることも、すこしもおそれていなかった。
四代目クラブのクラブ・ハウスとあたしの家のある谷のうしろの台地は、べたいちめんに高射砲陣地で、射ちあげるたびに船酔いするくらい家が揺れ、雨やアラレと落ちてくる砲弾の破片で屋根瓦は一枚のこらず撃墜され、天井のスタッコは全員玉砕してしまった。陣地から立ち退けとうるさくいってきたが、パパも四代目クラブも一億総逃亡式の疎開に腹をたてていたので、なんといわれてもがんばって動かなかった。
四代目クラブのオール・ウェーブは早やばやと憲兵が持って行ってしまった。パパの書斎にあるやつは古びたりといえども〈トゥ・フランス〉型の六球だからカスカスぐらいには入るだろう。ドオショオ閣下の有名な〈法律第四十九号〉によって、一般市民がみだりに海外放送をきくと国防保安法違反で憲兵隊へひっぱられることになっているが、まだいちども敗けたことのない土つかずの日本が、どんな凛々しい休戦申し入れをするか、世界史のこの偉大な一頁は、どうしたって聞きのがせない。十一時すぎにうちの賢夫人がおしずまりになったので、子供芝居の悪漢の登場のようにヴァイオリンの震音つきで、ぬき足しのび足でパパの書斎へ忍びこんだ。
なんだかしらないけどぞっとするほどすごいんだ。このほうが面白くなってラジオなんかどうでもよくなったが、それでは国民の信義に欠けると思って、ダイヤルをひねくりまわすうちに、空の高いところをサラサラとわたって行く秋風のようなわびしい音が流れだしてきた。
セットの横っ腹に耳をつけると、〈戦争〉とか〈惨禍〉とか〈終止させることを〉とか、そんな言葉が風に吹きちぎられる酔っぱらいの歌声のようにとぎれとぎれにひびいてくる。虫の声もきこえないしんとした夜ふけに、ほそぼそとした白鳥の歌を傍受していると、日本がかあいそうになってきて涙がでた。
十一日の朝、広島へ現地視察に行ってきた理研のRさんが、クラブの朝食会で原子爆弾のすごさや広島のアビ叫カンの惨状について自由講話をしたあとで、ヴェランダでみなとお茶を飲みながら呆れ顔でいった。
「ピカッと光った一瞬に、第二総軍だけで戦死が八万に戦傷が二十万……日露戦争の二年間の全損害より多い犠牲者を出しているのに、新爆弾おそるるに足らずなどと強がりをいっています。いくら説明しても原子爆弾だと認めようとしないんですからね」
村井の陸さんがいった。
「畑なんて野郎は、最近、宮中にだいぶモヤモヤした空気があるようだが、新型爆弾のことを心配しているのなら、おれが出かけて行ってあくまでも頑張らせるなんてバカな気炎をあげているそうじゃないか」
「そうなんですよ。あの翌日、九州の第十四方面軍と大阪の第十五方面軍の司令官を広島へ呼んで、本土上陸にたいする作戦会議をやっているというんだから僕もやられた。人間というものはどこまでバカになれるかという、動物試験のデータを見せられているようでつくづく無常を感じました。こういう進行状態では原子爆弾の東京訪問は必至ですね。観念するほかないです」
十二日は一日じゅうサイレンも爆音もきかなかった。日本はアメリカに忘れられてしまったのではないかというような印象をうけ、そうだったらずいぶんうれしいとよろこんでいたら、十三日は朝の五時から夕方の五時まで、アメリカ空軍の現有勢力がみな引っ越してきたかと思われるような空中大ページェントの続演で、休戦の夢なんかどこかへふッ飛んでしまった。
情けなくなってクラブへ出かけて行くと、六右衛門さんと長謙さんと満寿子さんが、K公爵の秘書のHさんとヴェランダで話していた。今朝早くスイス政府経由で連合国側の正式回答を接受したが、そのうちの第一項と第四項が問題になって、無条件受諾と受諾拒絶に意見がわかれ、午後の閣議も結論がでないままで散会した。いま外相が両総長と逢っているが、あいかわらず意見が対立し、和平ののぞみがなくなったというようなことだった。
三十分ほどするとN新聞のTさんから、閣議中から陸軍部内に動揺の色が見えていたが、クウ・デタによる和平阻止の策動が露骨になり、四時ごろ阿南陸相をだしぬいて〈軍は全面戦争を決議せり〉という大本営発表をしようとした。このほうは間一髪というあぶないところでおさえたが、〈バドリオを倒せ〉という抗戦デモのビラをさかんに撒き、さっき外相官邸へ手榴弾を投げこんだものがあるといってきた。
六時ごろ、長謙さんが電話へ立って行ったが、緊張した顔で帰ってきた。
「いよいよ東京へ原爆が来るか。短波で傍受したところでは、回答にたいする日本側の意志表示が遅れているので、留保の裏になにか企図がひそんでいるんじゃないかというので、連合国側の態度がひどく硬化してきたというんだ。艦隊が房総沖に待機していて明日の朝までに日本側の通報がないと、東京総攻撃を開始するというようなニュースまで入っているそうだ」
満寿子さんがいつになく高い声でいった。
「結局のところ、アメリカは日本民族を抹殺してしまうつもりなのね」
長謙さんがびっくりしたようにいった。
「まさかそんなこともないだろうけど」
「いいえ、そうなのよ。主権の問題にしたってそうでしょう。〈ポツダム宣言には、天皇の国家統治の大権を変更する要求を含んでいないという了解のもとに〉という留保条件をつけて受諾したのに、それについてはなんの挨拶もないじゃありませんか。日本政府の形態は、日本国民の自由に表明する意志によって決定されるという第四項なんかは、あの方の主権を否定する肚だということがありありと見えすいているわ」
長謙さんが困ったようにボソボソいった。「でもね、〈天皇の主権は連合軍最高司令官の指揮のもとにおかれる〉と、ことさら〈天皇の主権〉という言葉をつかっているのは、言外にあの方の地位を承認していることを匂わせているんだ。はじめから否定する意志なら、どんなことがあってもそんな不用意な言いかたはしない。心配しないでもだいじょうぶだよ」
六右衛門さんがあとをひきとっていった。「九日の夜の御前会議で、あの方が伝統的な天皇の権限を越えて降伏を要求されず、気ちがいの軍部の督戦で、殺されたくない恐怖から、四百万の軍隊が最後の洞穴やギリギリの山奥にたてこもって死にものぐるいに抗戦をつづけたら、連合軍は硫黄島や沖繩以上の死傷者をださなくちゃならない。だからあの方の勇気と決断がどんなに多くの人命を救うことになったか、そのへんのことは連合国のほうがよく知っているよ。いまの日本には大統領になれるような大政治家がいない。天皇制を否定すれば、どこでおさまるか見当のつかないことになるが、そこまでの混乱を望んでいるとは思えない。もっともアメリカ以外にそういう国があることは否定しないが」
満寿子さんはすごい蒼い顔で庭の花むらをながめながらいった。
「なにを考えてIRC(万国赤十字)の仕事なんか手伝っていたのか気がしれない。これじゃ死んでも死にきれないわ」
パパも、ママも、四代目クラブも、おチビさんも、あたしも……わけのわからない赤ん坊と〈赤いひと〉を除いた日本人全体が、いまなにより心配しているのは連合国があの方をどういう取扱いするかということだ。
ヨーロッパにいるあいだじゅう、あたしたちは集まるたびにあの方のお話ばかりしていた。日本の前途が暗く見えだすとき、あの方がいられることを思うとすぐ希望が戻ってきた。
フランスの人民戦線の行動隊と、ソルボンヌ大学の〈王の親衛隊〉の突撃隊がコンコルドの広場で衝突した二月六日の壮烈な市街戦を、あたしたち(あたし、六右衛門さん、長謙さん、珠子さん、満寿子さん、島野の鸛一さん)は聖フロランタンとリュウ・ド・リヴォリが出あう角のグルネルさんの四階の窓から見ていた。
ユトリロの巴里の雪景色にそっくりなコンコルドの雪を血に染めながら、ソルボンヌの大学生がコムミュニストの行動隊と機関銃の射ちあいをしているあいだへ、騎馬巡査がニッケルのヘルメットを光らせながら突撃して来る。戦車が地ひびきをうたせて乗りこんでくる。戦争の局部を見ているようなすごい光景だった。この戦闘で大学生がたくさん死んだが、祖国のために進んで身を挺し見えない敵と戦っていたフランスの大学生の顔々がいまでもはっきりと眼にうかぶ。
あたしたちが〈王の親衛隊〉の百倍のまた百倍も……あらんかぎりの誠実と熱情をもってあの方を愛していることは、ツルゲネーフの言いかたを借りると、〈いかなる弁証法をもっても覆すことが〉できない。なにも満寿子さんにかぎったことではない。あたしにしたって一旦カンキュウあればいつなんどきでも蹴あいをする用意があるが、どうやら満寿子さんはすこしばかり見当ちがいなほうを睨んでいるようだ。
和平斡旋の頬かぶりや、こんどの参戦ぶりでもわかるように、あの方の主権を否定して日本をごたごたさせようとしているのは、じつはアメリカでなくて、アメリカよりだいぶ西寄りの、文明の平分線からウント北へあがった……ひとの領土を自分のほうへ引きつける力のある磁石を載せてフワフワ飛びまわるという「ガリヴァー旅行記」の〈飛ぶ島〉……これぞと思う国があると、飛行をとめてその上にいすわり、太陽と雨を遮って飢饉や疫病をおこして降参させる。それでもいうことをきかないと、ドスンとその国へ墜落して、家も人民もおし潰して全滅させるという、れいの〈飛ぶラピュタ国〉によく以たソピエタ国だくらいのことは、あたしのような子供にだってわかるんだけど、満寿子さんとアメリカの結びつきにはいうにいえぬむずかしいことがあるので、頭がこんがらかって、こんな単純なことさえ理解できなくなっているのらしい。すごく蒼い顔で考えこんでいるので、ことによったらことによるのでないかと心配になってきたが、他人にはどうしようもない問題なので、あたしとしてはなにもいわずにおいた。
八時ごろ家へ帰ると、ママが居間の長椅子で泰然とご読書をしていられた。ママぐらいの齢になると、この世になんの感激もなくなり、明日死ぬかもしれないということさえピンとひびいてこないんだ。むやみに腹がたってきて、大きな声でママにいった。
「あたしなんだか悲しくてしようがないんですから、そっとしておいていただきます。当分のあいだ、ご朝食に降りてきませんけど、どうかご心配なく」
本から眼もはなさずにママがいった。
「誰が心配なんかするもんですか。あなたこのごろすこし召しあがりすぎるようですから、すこしおひかえになるほうがいいわ」
「どうもありがとう」
「なにかまだおっしゃることあるの」
「いいえ、これだけです」
「そんなら早く行ってお泣きなさい」
戦争で人が死ぬのは、秋になると葉が落ちるようなもので一種の自然現象にすぎない。いまさらジタバタしたってどうにもならない。ちゃんと覚悟はできているのだけど、馴れないことってのはどうもうまくいかない。身体がへんにピクピクしてしようがない。いくら原子爆弾だって椅子に掛けて待っていてやるほどのことはないと思ってスラックスのままベッドへ入りこんだら、子供なんてたあいのないもので、いつの間にか眠ってしまったのだとみえ、眼をあけたら完全な朝になっていた。
ハムレットはデンマルクの陰気な宮殿で、〈死は……眠りにすぎぬ。おそらく夢を見よう〉と独白する。あたしにとっても今夜こそ眠り=死で、もう朝の景色なんか見ることはあるまいと観念していたんだが、ちゃんと朝になってお腹がすいているのにはおどろいた。とてもご昼食までなんかもちそうもない。馬鹿な宣言をしたもんだと弱っていると、サイレンが鳴って頭の真上へ艦載機がのしかかってきた。ママが防空壕へ入ったらさっそく冷蔵庫を爆撃してやろうと待っていたが、広縁のロッキングに掛けたまま動かない。しようがないので書庫の庇の下にあぐらをかいていると、雲の間から紙きれみたいなものが群れ鳩のようにグルグル舞いながらむやみに降ってきた。
日本の皆様へ という大きな活字が眼につく。
なんだと思ったら、日本国民に話しかけているメイド・イン・アメリカの日本語のビラなんだ。〈私共は本日皆様に爆弾を投下するためにきたのではありません。お国の政府が申し込んだ降伏条件を〉という愛想のいい書きだしで、十日の夜、あたしがラジオで傍受した日本の降伏申し入れと、アメリカの国務長官の回答の全文が印刷してある。
うちの庭はべたいちめん回答文で足の踏み場もなくなった。きれいなのをママに一枚やって、芝生に坐って満寿子さんを憤激させた回答文なるものをジュクドクグヮンミしているところへ、次官のFさんがやってきた。ロッキングに掛けてママにこんなことをいっている。
「内地の部隊の大部分は海岸のへんぴなところにいるので都会の爆撃のひどさを知らない。ある部隊などは兵隊に、日本の陸軍部隊がアメリカの西海岸へ逆上陸して、いま破竹の勢いでワシントンへ進軍しているなどといってきかせているそうで、そこへこんなビラを撒かれると、あの方が降伏などをされるわけがないというんで騒ぎをおこすかも知れない。一刻も早く終戦のご詔勅を発表しないととりかえしのつかないことになりますが、外地や第一線部隊に遅速なく伝達するにはラジオの放送以外にない。このほうはご勅許を得た模様ですが、玉音の放送などというのは日本に前例のないことだから、それならそれで予告もしなくてはならない。今日は最後の最高決定をするはずで朝から御前会議をしていますが、陸相あたりがゴタゴタいってきまらないらしい。一瞬を争う非常の場合なんだが、困りました」
夕方の五時ごろ、あす正午、重大放送があるというラジオのアナウンスがあった。夜の十二時近くパパが帰ってきたところへ、情報局から宮内省の内大臣府の広間でいま玉音の録音が終ったという通知があって、追いかけるように空襲警報がでた。福島、新潟へB29が二百五十機、高崎と熊谷と小田原がさかんにやられている。
パパは最高決定の通達に朝の八時までにスイス公使館へ行かなければならないとかで、書斎へこもってなにかゴソゴソやっているようだったが、朝の四時ごろN新聞のTさんが電話で、昨夜、十一時に軍部へ終戦の大詔が出たので陸軍省と参謀本部の少壮将校が非常に激昂し、上野の山では警備隊が降伏反対の幟をたてて騒いでいる。不穏な形勢だと知らせてきた。しばらくするとこんどは表町の刀自さまから、反軍と学生の集団が首相官邸と平沼さんの邸へ爆弾を投げこんで火をつけたから、そちらでも注意するようにというお電話があった。
パパは十日以前の陰気な顔になってつぶやいた。
「ようやく日本がいくらか残るというところまで漕ぎつけたのに、馬鹿なさわぎをして、なにもかもふッ飛ばしてしまおうというんだ」
十六年にはH男爵と日銀総裁の謀議。久原さんのモスクワ行きの計画。H宮は老体の遠山さんを蒋介石のところへやって和平調整をさせようとなすった。遠山さんはただひとこと、最後のご奉公をいたしましょうとこたえ、いつ出発命令が出てもいいように、毎朝、水浴をし、食べものをつつしんで待っていられたがだめになった。
十七年には東方会の中野さんが、戦争をやめるのは今だ。日本は全世界にむかって休戦をしなくてはならないといって、T宮、H宮、K宮、などと東条内閣を倒しにかかった。近衛さんなどは場合によっては直訴する決心までしたということだったけれど、東方会の全員百七十人が憲兵隊に検挙され、中野さんは宮さま方のお名を出すことをはばかって腹を切ってしまった。
ところであの方のほうは、アトミック・ボムブが広島へ落ちる六カ月も前、つまり米軍がマニラへ入城したころにもう降伏を決意なすって、広田さんにソ連大使を通じて和平交渉をすることをお命じになった。
二・二六のピストルの弾丸を記念品に身体の中に保存している公然の平和主義者、七十七歳の鈴木さんを首相にご親任になったのは、軍部の朋党組織にたいするあの方の無言の宣戦布告で、そのとき鈴木さんに、〈軍部がなぜこんな望みのない戦争をつづけるのか了解に苦しむ。これ以上人命を失うことは犯罪にひとしい〉というようなことをおっしゃったそうだった。
ソビエトは日本からの対連合国和平斡旋の働きかけを、六カ月もの間、上手にもみ消して、いちばんいいチャンスに参戦したが、それでもあの方は希望をお捨てにならず、ソ連が宣戦した翌日、近衛さんに単独拝謁をおおせつけられ、飛行機ですぐモスクワへ行くようにとおっしゃった。近衛さんは夫人さま同伴で広島へ慰問に行くという見せかけで、高崎の飛行場から旅客機に乗り、そのまま一気にモスクワまで飛ぶつもりだった。近衛さんはその前もカナダ経由でアメリカへ行ってルーズヴェルトと会談する計画で、毛皮の外套まで用意したということだった。
この不幸な戦争を一日も早く終らせようと、憲兵隊の九頭の蛇の目をぬすんで、どれだけの蔭の努力が払われたことだったろう。〈不死身の軍部〉をおさえつけて、ここまで漕ぎつけるには、人知れぬ長い血の歴史がある。それをわからずやがだめにしてしまおうというんだ。パパが口惜しがるのも無理のないところだ。
あたしの子供のころのパパの印象はあまり愉快なものではない。ママの話だとパパは二・二六事件に腹をたて、その日からキッパリとお酒をやめて陰気くさいひとになってしまったということだった。この戦争がはじまってからいよいよ皮肉なところが多くなり、ヨーロッパにいるあいだ、日本に帰って来てからも、明るい顔や笑った顔をただの一度も見たことがなかった。
もと駐英大使のYさんが、逗子のあるところで二月ごろからKさんなどと熱心に和平の相談していたが、誰が密告したのか、和平陰謀のかどで憲兵隊に検挙され、それがはじまりで、パパ、N県知事、Tさん、Sさんなど、ひごろ自由主義者と目されていたひとたちが四百人、つぎつぎに九段坂の灰色の建物へ連れて行かれた。けっきょく軍法会議にかけられて銃殺されるのだろうとママなどは覚悟していたらしかった。重臣から横槍が出てあぶないところで命だけは助かって帰ってきたが、それ以来、なにをきいても返事もしない苦虫中の苦虫になってしまった。
この調子だと、パパの苦虫は永久につづくのだろうとあきらめていたが、降伏の申し入れをした十日の夕方、役所から帰ってくるとニコニコ笑いながらママにいった。
「これからは辛いぞ。貫太郎さんは血と涙の生涯といったが、ほんとうだ。だがその時を越えれば、戦前の日本よりよくなる。希望をもとう」
それからあたしにいった。
「だいこん、お前だけだよ。そのいいときを見られるのは」
その日からパパは明るいひとになった。笑いもするし人並みにものもいうようになった。やれやれと思っていたら、たった五日笑っただけでまたもとの苦虫へ逆戻りしてしまった。
世界でいちばん不機嫌な、笑わない人種は、赤道アフリカのナナ族で、なにをしてやっても喜ばない憂鬱なやつらだが、それでもマニオックという澱粉薯のとれだすころになると、一年を通じて十日ぐらいはニヤリとすることがあるということだ。
パパなんかにすれば、過去六年の日本にはおかしいことなんかただの一つもなかったのかもしれない。それはともかく暗い闇の庭にすくんで、高崎や小田原が焼かれている空襲のアナウンスを聞きながら、けっきょく日本はどうなるのだろうと考えるのはあたしにとってもおかしいなんてことではなかった。
夜明けごろ爆撃が終り、パパがフロックに着替えているところへ、情報局のSさんから電話がきた。陸軍省と参謀本部の将校が何人とかが、近衛師団長をピストルで射殺したうえ、師団命令で部隊を召集して宮城を占領し、ご座所へ侵入してご詔勅の録音盤をさがしまわっている。べつの一隊は放送会館へ徹底抗戦の放送をしにきたが、空襲警報発令中なので、直通電話で東部軍司令部と交渉しているところだというニュースだった。
パパは受話器を放りだして、ものをいわずに書斎へ入って行ったが、しばらくすると大きな声で、
「馬鹿ッ、馬鹿ッ」
と怒鳴っているのがきこえてきた。なにをしているのだろうと思ってのぞきに行くと、パパは射撃会用のピストルをケースから出そうともがいていた。宮中へ駆けつけて、かなわぬまでも軍部と一戦しようというのらしいが、腹をたてているので、手が震えてケースのバネ錠がはずれないんだ。それであたしが出してあげた。
痔の悪いひとが痔だ痔だと愚痴をこぼすように、国家、国家とお題目をとなえる偽せ愛国者のことを、独逸ではシュターツ=ヘモロイデンというんだそうだ。
パパは国家なんてこともいわないし、あのうるさい愛国者、ドオデエの〈ショオヴァン氏〉のような空さわぎもしない。外交事務を管掌する一事務官の生活にキチンとはまりこみ、かつてハメなどをはずしたことのない沈毅冷静なパパが、前後不覚になってフロックにピストルというアルセーヌ・リュパンのような恰好で駆けだすなんてのは、パパの生涯における最大の椿事だった。間もなく録音盤は無事、クウ・デタは鎮定したという情報が入ったので助かったが、さもなかったら陸軍はパパのためにみな殺しにされてしまうところだった。
パパは心機一転した顔で車で出かけて行ったが、息をつくひまもないうちにまたサイレンが鳴り、B29や艦載機がむやみにやってきて、十三日にまさるとも劣らない騒ぎをはじめた。前大戦の〈休戦の日〉にはパリではノートルダムの大鐘が鳴り、サイレンがうなり、みな道路へとびだして、抱きあう、踊るという大乱舞をやったそうだ。これも休戦のお祝いなのかと思ったらそうでもないらしい。屋根の棟とすれすれのところまで舞いおりてきて、射つべきものはちゃんと射って行く。
日本はシャッポをぬいでお辞儀をした。戦争はすんだはずじゃないのか。これではしつっこすぎるというもんだ。
あたしは腹をたてて大きな声でいった。
「おい、よせよせ。いいかげんにやめろ」
ところがいっこうにやめない。録音盤が無事だったというのは嘘で、軍部はあの方に対立していよいよ一億玉砕の瘋癲命令を出したのではないかとあたしは邪推した。
もうどうにでもなってよろしい。さすがのだいこんもへろへろで、戦争とのお交際はおやめにしたくなった。防空壕の風通しのいいところへ太いだいこんを投げだしてアナーキーな恰好で眠っていると、
「ご放送ですからお起きなさい」
とママが起しにきた。
よろけながら広縁へ行くと、ご放送がはじまった。ご放送というから、あたしのような子供にもわかるようにお話しになるのだと思っていたら、漢字の多いお勅語でよくわからなかった。
「つまり、どうなの」
ときいたらママが、
「戦争は終ったとおおせになったのです」
とおしえてくれた。
なんだか嘘みたいだけど、うちの賢夫人がそういうんだからまちがいはないんだろう。フランス一周の自転車競争が終って、凱旋門の下へ走りこんだ選手のような疲れがでた。あたしがねぼけたような声でいった。
「そうですか。すんだんですか。やれやれですね。いやはや長かったよ」
ママがしずかな声でいった。
「日本が負けたというのが、どういうことなのか、あなたにはまだよくわからないのね。かあいそうに」
ママはぐっすり眠っている。ところであたしは眠くない。こんな日向であぶられているのは退屈だ。今朝のパパの事件をみなさんに放送してやろうと思ってクラブへ出かけて行くと、六右衛門さんが五人ばかりの鳶をつかって、クラブ・ハウスの横の芝生へ柱をたてさせていた。そのそばに村井の陸さんが煙草をすいながら見ている。なんだか知らないけど、ネルソン時代の大戦艦の主檣くらいもあるびっくりするような高い柱なんだ。
あたしが六右衛門さんにたずねた。
「ずいぶんでっかいね。なにをする柱なの」
六右衛門さんがめんどうくさそうにこたえた。
「旗をあげる柱だ」
「クラブの旗でもできたの」
六右衛門さんがいつもの曖昧な笑いかたをした。
「うまいことをいう。そうだよ、クラブの旗ができたんだ」
ルイ・ジュウベによく似た、ひどく苦味ばしった鳶の頭が手を払いながらやってきて、六右衛門さんにいった。
「いたしました」
「すぐあげられるのか」
「へい」
「じゃ、あげてくれよ」
「あっしどもでいたしますんですか」
「ああ、たのむよ」
鳶の頭は手下のところへ戻って行った。
「おい、みんな手を洗ってくれ」
裏へ行って手を洗って戻ってくると、頭は汚点ひとつない、まっ新の日の丸の旗を畳紙からだして綱に結びつけ、手下といっしょにえッえッとひきあげた。
旗はしなだれながら柱のてっぺんまであがって行って、そこでパンと音をたててひらくと、すぐ風に乗ってひらひらとひるがえった。青い空で、白と赤だけの新しい旗がつくりだす雰囲気は非常に新鮮だった。
日本はきょうから〈国〉でないんだから、〈国旗〉などというものは存在しないが、これでも昨日までは万国に確認された日本の登録商標で、あたしたちにとっては、ほかのどんなものでも代用することのできない大切な象徴だった。この旗によってどんなに鼓舞され、慰められ、この旗の下で、この旗を振りながら、どれだけの日本人が死んで行ったことだったろう。苦しい日、楽しい日、あたしたちの日々に、いつもこの旗がヒラヒラしていた。
休戦協定が締結された六月二十五日、ペタン首相が演説した。
この挙国哀悼の日、私の思いは、すべての戦死者と、戦争のために肉と愛とに深い痛手を受けた人々のうえにあります。その犠牲が、フランスの国旗を、高く、清く、保ちえさせたのであります。
スイスでは日の丸の旗はスケート場の標識で、〈きょうも辷れます〉という合図に高いところへあげる。おなじ日の丸でもスケート・リンクの旗は、きょうは氷の調子がよさそうだなどという実際的な感想しかわかせないが、オリンピックのスタディアムなどであげられた日の丸の旗を見ると、熱い、赤い、すこし酸っぱすぎるが、それがまた風味でもある煮葡萄酒のような感動がふつふつと胸の中に湧きあがるのはなぜだろう。
日の丸の旗はきょうからただの日の丸の旗にすぎない。クラブの旗にでも、レストランの旗にでも、使いたいように使っていいわけなんだろうけど、いくら日本が敗けたからってさっそくこんな扱いかたをするのは面白くない。あたしはむっとしていった。
「へえ、これがクラブの旗なのか。立派ないい旗だ。クラブではスケート・リンクをはじめるというわけなんだね」
陸さんがいった。
「なんて馬鹿なんだろう、こいつは。この旗が国旗に見えないのか、お前には」
折り返してまたあたしがいった。
「よく見えるよ。見えすぎるくらいだ。やはりこれは国旗なのか。そんなら伺いますがね、戦争のあいだ、誰がなんといってきてもあげないでいて、戦争に敗けてからあげたりするのはなぜなんですか」
六右衛門さんはポケットに手をつっこんだままコクのある渋い笑いかたをした。
「昨夜フト思いだしたんだ。あまりしまいこんでおくと虫がつくからな」
「はァ、国旗の虫干ってわけなのか。結構だよ」
四代目クラブも利巧じゃない。あたしは腹をたてて後も見ずに帰ってきた。