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天保八年十二月の末、大手前にほど近い桜田門外で、笑うに耐えた忍傷沙汰があった。盛岡二十万石、南部信濃守利済の御先手物頭、田中久太夫という士が、節季払いの駕籠訴訟にきた手代の無礼を怒って、摺箔の竹光で斬りつけたという一件である。
奥州南部領は、元禄以来、たびたび凶荒に見舞われ、天明三年の大飢饉には、収穫皆無で種方もなく、三十万の領民の四分の一以上が餓死するなどということがあり、三十世備後守信恩のときから、百五十年に及ぶ長々しい貧窮をつづけていたが、利済の代になると、貧乏も底が入って、城の上り下りに、濠端で諸商人の訴訟を受けるところにまで行きついた。
肴屋、油屋、荒物小売、煙草屋、八百屋そのほか雑多な手代面が、三十人ぐらいも濠端の柳の下に屯していて、殊更、駕籠擦りあう登城下城の混雑を見さだめ、信濃守の駕籠につき纒って、「商いの道が立ちかねまする、なにとぞ、お払いを」と、うるさくねだりこむのである。
掛取りの居催促は、いまにはじまったことではなく、江戸の上邸では、毎年、四季の終りに、いつもこういうさわぎが起きる。三十三世修理太夫利視のときには、芝の増上寺から借りた二千両の金の期限がきても返済できずにいたところ、増上寺の坊主どもが八十人ばかり上邸へおしかけ、登城しようとして玄関先に出てきた修理太夫の袂をとって強談したような例もあるが、途上の待伏せは、これが最初であった。
訴訟の手代どもは、こうすれば、外聞を恥じ、代金を払うだろうというつもりがあるので、駕籠の左右について走りながら「わずか三両と二分二朱。おねがいにござりまする。なにとぞ、お払いを」と臆面のない高声でやる。お徒士、駕籠廻りはもとより、中間、杖突きのはてまで、みな無念に思うのだが、どうすることもできない。
田中久太夫は、平山行蔵に剣を学び、実用流の奥儀を極めた藩第一の剣士であった。あるとき門弟の一人が賊を斬り、田中を招いて、日頃、お取立てにあずかった手の裏をごらんくだされと自慢顔で披露した。
田中は見るなり不機嫌な面持ちになって、「美しく斬ろうなどと考えると、その隙に逃げられ、落度をとるようなことがある。要は、殺すことが主意なのだから、左手で髻でも掴んで急所を衝けば、かならず一刀のもとに斃すことができる。斬口の美しさを披露するような性根では、上達の見込みがないから、今日かぎり破門する」と叱責したことがあった。
田中久太夫は徒士の御先手で駕籠脇についていたが、あまりの煩しさに、ついとり逆上せ「三両、三両」と叫びながら、駕籠脇に迫ってきた才槌頭の襟首を掴むなり「おのれ」といって、ぬかるみへ取って投げた。これまでの例では、どんな悪口をいっても、南部藩士の刀を抜いたのを見たことがないので、手代どものほうは気が強い。ふて腐ったようなのが三十人ばかり、
「なんだなんだ」といいながら、寄り身になって久太夫のほうへ詰め寄ってきた。
先頭にいるのが、赤木屋という油屋の手代で、これが音頭取らしく、
「よくも仲間を取って投げやがったな。訴訟するのが気に入らざ、斬るなと突くなと、儘にしてみやがれ、どうする」と柄にもない強がりをいって、久太夫の袴腰に手をかけた。
久太夫は苦笑いしながら駕籠について歩いていたが、よくよく虫の居どころが悪かったのだとみえ、急に顔色を変えて刀の柄に手をかけた。
「赤木屋、おれは田中久太夫だが、見事、斬られてみるか」
赤木屋の南部藩の田中久太夫は使い手だということは知っていたが、抜くはずがないと多寡をくくって、
「南部の稗飯食いに、人が斬れるのか。面白れえ、やってみろ」と減らず口をきいた。
七尾駒三郎は、ぬかるみの中に立ちどまって、この始末をながめていた。久太夫の業物は、先年、糊口に窮して米一斗と替え、鞘の中には摺箔の竹光しかおさまっていないことを知っている。久太夫の籠手に生気が動くのを見るなり、
「田中、抜くなよ、物笑いになる」と後から声をかけたが、久太夫は、
「よし、斬ってやる」といいながら竹光を抜き、ひと打ちとばかりに振りかぶった。
赤木屋の手代は、あっと叫んだが、逃げると後から斬られると思うので、逃げることもできない。
「もし、この通り、このとおり」と手をあわせながら、中腰になって久太夫のまわりを廻って歩く。後へ退くどころか、ぬかるみに足をとられ前方へのめずったりする。久太夫としては、相手が身近に来れば、刀をふりおろさぬわけにはいかないが、三十人からの手代どもが、遠巻きにしてじっと成行を注視しているので、それもできない。
いかにもよく似せてあるが、竹光は竹光、斬ることもできなければ、斬れるわけのものでもない。赤木屋の手代が切尖の届くところへよろけてくると、それとなくうしろへ身を退らせて、三尺ほどの間隔を保ち、つくりつけの人形のように八双に刀をふりかぶったまま、荒い息をついている。
赤木屋の手代のほうは、いかに貧窮したとはいえ、久太夫ほどの使い手が、竹光を差していようなどとは思わない。あぶない横這いの足許、油断のない久太夫の手許、師走のさなかに大汗になり「この通り、この通り」と手を擦りあわせ、これはもう必死の形相でジリジリと居所変えをしている。
七尾駒三郎は同輩の危難を見捨ててはおけず、行列から外れて濠端に居残ったが、なまじっかな仲裁では、手代どもをつけあがらせることになるから、いい加減なことはできない。腰の刀はこれもよく出来た南部の竹光、義に勇んでそいつをひき抜けば、久太夫とおなじ羽目になる。駒三郎は、海彦が波をしずめのかたちで両手を前に出し、「しずまれ、しずまれ、大手が近い。すこしは場所柄をわきまえろ。しずまれというのに、しずまらぬか」と御下乗の衛士のいうようなことをいって、遠くから久太夫を宥めにかかった。
南部利済の駕籠は、危いところで虎口をのがれ、大堰のあるお濠の角を曲って、外桜田のほうへ急ぐ。それを追うようにして、池田丹波守の駕籠が下ってくる。松平伊予守の行列がくる。駕籠脇のお徒士は、柄袋をはねて刀の柄に手をかけ、この騒ぎを尻眼にかけながらさっさと通りぬけて行く。
塘松の梢に今朝降った雪が消え残り、木枯に吹きよせられた真鴨が三羽、薄氷の上で羽づくろいをしている。濠端の久太夫と赤木屋の手代は、活人画中の人物のように、ものの四半刻ばかり、そこで凝り固まっていたが、そのうちにどちらの顔にも疲労の色が濃くなり、斬るか斬らせるか、一挙に埓をあけなければ、このうえは、ひと時も保合えぬようなところにまで迫ってきた。
久太夫は貧苦で削ぎたった頬をひきつらせ、虚空を睨んでニヤリと笑い、「貧はすまじきもの」などと独語をいい、血走った眼で手代の顔を睨みつけていたが、
「下郎め、うぬがために、終生の恥辱をとったぞ」と大喝するなり、手代の真向へ、やツとばかりに竹光の刃を立てた。
赤木屋の手代は、ひえツと息をひき、のけ反ったままぬかるみにへたりこみ「斬りやがった、斬りやがった、あゝ、ひどいことをする」と頭をおさえて子供のように泣きじゃくっていたが、身に受けた傷が、蚯蚓腫れほどでもないことをさとると、俄かに立ちあがって、
「なんだ、竹箆か。うぬは、これで何度そくいいを練りやがった。刃傷の証拠にする。それをこっちへよこせ」といいながら、諸手で刀身に掴みかかった。
これをとられると、恥の上塗り、久太夫は狼狽して、
「なにをする。これ、手を離せというのに」と入り身になって刀を庇う。とろうとする、やるまいとする。たがいにおし揉みあっているうちに、二人の手から竹光が落ちる。朴の鍔をつけた竹の刀は、大手の辻々を吹きめぐってきた一陣の旋風に巻きこまれ、「あれよ」という間もなく、虚空高く舞いあがった。
ちょうどそこへ津軽越中守の駕籠が下って来た。駕籠脇のお徒士はおどろいて空を指さし、「あれ、抜身が飛んで行く」と口々に叫び、この世にあろうとも思えぬ奇観をながめていたが、そのうちに、一人が思わず噴きだしたので堰が切れ、御先手の中間も、行列の総体が腹を抱えて笑いだした。
久太夫の竹光は、雪もよいの低い雲の下で、旋風の風道にしたがって生き物のように高く低く舞い遊んでいたが、濠を越え、吹上の御苑のあるあたりで、ふっと見えなくなってしまった。
久太夫は腕組みをしたまま呆然と縁石の傍に佇んでいたが、涙をためた大きな眼で駒三郎のほうへ振返ると、
「おれは腹を切るが、ひだるい腹では斬りにくかろう。今生の名残りに、思うさま飲み食いしてから、心しずかにこの世にお暇をするつもりだ。深志甚左を誘って、夕刻から相伴をしに来てくれ、語り残したこともあるで」といった。
上邸内の久太夫のお長屋は、割場といっていたもとの会所の跡で、板敷のところを道場にして、そこに久太夫が一人で住んでいる。
七尾駒三郎と深志甚左衛門は、降りだした雪を踏みながら久太夫の長屋へ出掛けて行くと、久太夫は三畳だけ畳を敷いたところに切腹の場をこしらえ、貧乏徳利と竹皮包みを膝の前にひきつけて、二人の来るのを待っていた。
座につくと、深志は「今日がお別れになるのだそうだ」と笑いながら久太夫に会釈した。「おぬしは勝手なやつだ。長年のよしみも思わず、一人だけで、楽なところへ抜けて行こうというのかい」
「おれは行くよ。おぬしらは六十、七十まで生きのびて、馬鹿な苦の世界で、いいだけ仰っつ反っつするがよかろう。冥土の明窓から見ていてやるぞ」
気がついて、駒三郎がたずねた。「腹を切るというが、鰺切庖丁ひとつ見あたらぬ。なんで腹を切る気だ」
久太夫はうなずいて、
「よく気がついてくれた。腹を切るのに、脇差の借り立てもなるまいから、切れものはここに用意をしておいた」
そういって、膝前の貧乏徳利を顎でさしてみせた。
深志は感慨を催したらしく、武者窓越しに露路の雪を見ながら、
「それで、おぬしは徳利のカケラで腹を切ろうというのかい、いかに窮してあげくでも、これはまた詰りきったことだ。南部の貧乏も、これで底が入ったというものだ」と、つぶやくようにいった。
久太夫は、片口から五郎八茶碗やら、ありあうものに酒を注ぎわけ、
「なにも詰りはせん」とやさしい調子でやりかえした。
「南部の侍は貧乏で、腹を切る刀も持たぬが、そのかわり腹の皮はごく柔いで、瀬戸物のカケラでも切れると、いうところを見せてやるのだ。しっかりと見届けてもらいたい」
深志がいった。
「いかにも検分をしようが、瀬戸物で腹を切るのでは、さぞや、ふんだんに血汐をふりまくことだろう。有難い役目ではないな」
久太夫は片口の酒をグイ飲みして、
「これも因縁事のうちだと思え。正徳二年のことだった。三十二世利幹公の代、大晦日の午すぎから、れいのごとくに掛取りが二十と何人押しかけてきた。元日になっても動かず、歳旦の式を挙げることができないのでみな弱り切った。おれの大曽祖父、同名、久太夫と深志の大曽祖父の恒右衛門が、それならば、腹でも切って埓をあけようかといって、割場の詰合いへ掛取りを呼びこみ、辞宜にも及ばず、下座に並んで腹を切って見せた。それで掛取りは退散した。なりとかたちはちがうが月も十二月も末、相手もおなじく商家の手代面……南部の血筋は、大概、商家に責め殺されるときまったが、こんなことを、何度繰返せばいいのか、それがおかしくてならぬ」
「商人といえば利視公の代にも、そんなことがあったそうな」と駒三郎が後をひきとった。
「ご帰国に先立って、旅の仕度を商家へ注文されたが、金をやらぬので代物をよこさない。お別れにきた客が、朝から上邸に詰めかけていたが、昼すぎになってもお発ちになるようすがない。呆気にとられて、挨拶をして、みな帰った。おれの曽祖父が八方走りまわり、半蔵門の八戸の上邸から二百両ほど借りだしたが、それでは足らぬ。つい先の月、お輿入れになったばかりの奥方の化粧料のうちから、五十両ばかり拝借し、それで、ようやくご出立にということになった」
田中久太夫は御先手物頭、武芸指南役で九石二人扶持、七尾駒三郎は中間小頭で六石五斗二人扶持、深志甚左衛門は物産奉行の調方で三石二人扶持、江戸勤番では軽輩の扱いだが、いずれも大曽祖父以来、五代にわたる譜代の臣で、本国では会所の御用の間に勤め、御家老附寄合組に入っている。先祖代々、南部領の飢饉の貧困の中に生きつづけたせいで、話といえば、つい貧窮問答に落ちてしまうのである。