一
春雨の降る四月の暗い日曜日の朝、渋谷の奥にあるバラックの玄関の土間に、接収解除通知のハガキが、音もなく投げこまれた。
自分の家には、毛色のちがう名も知らぬひとがはいりこみ、当の持主の家族は、しがない間借りか借家で、不自由しながらゴタゴタしているのは、戦争に負けたせいだと思っても、あきらめきれるものではなかったろう。収用にかかっていた物件は、すべて講和発効と同時に返還されるだろうという噂は、前の年の暮れあたりから、そろそろと立ちかけ、知合いのなかには、わざわざ調達局まで念をおしに行ったひともあった。
終戦の年に接収された個人住宅が、四月二十八日をもって、一斉に解除になり、七年ぶりで持主の手に返されることになったというよろこばしい通知は、どこの家庭でも大歓迎されたことだろうが、わが石田家では、破産宣告か、死亡通知でも受け取ったような、痛烈な衝動を受けた。
われわれの家……といっても自分で建てた家ではない。株か相場でドカもうけをし、政党屋の仲間入りをするようになった石田氏の養父にあたるひとが、麻布三河台にあった大名の古屋敷に、洋館を継ぎ足してこしらえたもので、唐草模様の鋳金の鉄扉のついた大きな石門のむこうに、仙洞御所のような御所造りの屋根が見えるという、奇妙な家だった。
洋館といっている一廓も、ずいぶん古めかしいものだったが、御所造りの日本家屋のほうには、びっくりするような古代の空気がよどんでいた。
長持ち部屋だの、用途不明な部屋が、あちらこちらにあり、入り側になった廊下には、必要もない段々をつけて、わざと上ったりおりたりさせ、上の厠といっている二ノ間つきのご不浄は、畳を敷きつめた六畳ほどの広さで、地袋の棚には、書見台と青磁の香炉が載っているといったぐあいである。
そのかみの大名の客間だったところは、廊下から七寸高い上段の間になり、床脇の棚は醍醐の三宝院の写し、縁の手摺りは桂御所のを、杉戸は清閑院の御殿のを写し、なにもかもみな写しで、つい大正のはじめごろまでは、畳縁に鶴ノ丸の小紋を散らした上段の間に、紋綸子の大座布団を敷き、銀糸の五つ紋の羽織りに上田織りの裏付けの袴をはいた殿さまが、天目茶碗と高坏を据え、反り身になって、
「うちゃの!」
などと老いたる鶯のような声をだしていたのだそうである。
そのころ、わが石田一家は田舎に疎開していたので、現場に居合わさなかったが、麻布の家が接収されるときには、日米相互の誤解にもとづく、滑稽な、もんちゃくがあったらしい。
祖父は敗戦に昂奮して、なぜか自分は戦犯になるものと固く思いこんでいた。疎開をすすめても応じなかったのは、頑固な自負心によることだったが、門から玄関まで敷いた上り道の白砂には、空襲のあるような日でも、いつもキチンと箒目がついていた。いつ迎いに来てもおどろかないという、見識のあるところを見せたわけで、さすが石田はちがったものだ、などといわれて、いい気持になっていたふうだった。
十二月二日に、N宮はじめ各界の名士五十九名に逮捕命令が下ったが、そのなかに、当然あるべき石田という名がないので、祖父は、むやみに腹をたて、逃げようにも行先がなく、やむをえず居残りになっていた家扶や家令に、さんざんにあたりちらしたそうである。
それから三日ほどした朝、執事の田村が居間へ走りこんできて、
「入りまして、よろしゅうございますか」
と会釈する間ももどかしそうに、
「ただいま、表玄関へ、ジープが」
といった。祖父はジロリと田村のほうへ振り返ると、
「いっそ、お待ちかねだ。紋服を出せ。袴はいらんぞ」
と外出の支度をいいつけた。
そこへ、家扶の大井が、背の高いひとを案内してきた。祖父は、
「お迎い、ご苦労」
と、うなずいてみせたが、みょうなぐあいに、頭をぐらぐら揺すぶりだしたと思うと、あおのけにドンとひっくりかえって、眼をあけたまま大きな鼾をかきだした。
背の高いひとは、収用住宅の検分にきた、綜合病院の書記にすぎなかったので、度胆をぬかれて、けげんな顔をしていた。
大井と田村は、熟した苺のような赤い顔で、調子の高い鼾をかいている祖父の枕元に坐り、
「先生も、あまり、そそっかしい。ジープが来たと、申しあげただけなのに」
「ともかく、きょうのジープが、命とりになったか……いや、悪い運勢であった」
などと、勿体らしい愁傷顔をしていた。
背の高いひとは、家扶や執事の話を聞くなり、この老人の強がりは、ほんの見せかけで、内心は逮捕命令が出るのを恐れ、毎日ビクビクしていたのだと、一流の率直さで見ぬいてしまったので、おかしいやら、気の毒だやら、挨拶にも困っていたが、激発の原因はわれわれの側にあるのだから、この病人はこちらでひきうけるといって、そのまま病院へ連れて行った。
四日目の朝、祖父の顔色が、苺色から桜桃色にまで薄れ、子供のようなやすらかな寝息をたてはじめた。そのうちに、ぽっかり眼をあき、枕元に背の高いひとが二人も坐っているのを見ると、巣鴨の監房の中だと勘ちがいしたらしく、
「寝たままで、失礼いたします。お取り調べは、今日でしょうか」
と頓狂な挨拶をし、見舞いにきていた人々を失笑させた。担当の医者は、
「ここは巣鴨ではないから、ご心配なく……あなたは脳溢血で倒れたので、いま、病院にいるのです」
と説明し、血斑のありかを地図のように書いてみせた。
祖父は一と月ほどしてから麻布の家へ帰ったが、家屋収用を戦犯逮捕と勘ちがいして、恐怖のあまり卒倒し、アメリカの注射で助かったいきさつは、すぐ、みなに知れた。
「ここは巣鴨ですか」には、笑わぬものはなく、石田は見かけ倒しの臆病ものだということになって、それ以来、訪ねてくるものもなくなった。
祖父は長い間の習慣で、毎日、客間に坐って、誰か来るのを待っているので、それとなく家扶が注意したが、長年、お追従とおべんちゃらに馴らされてマイルドになった頭には、なんのことやら、よくのみこめないふうだった。
洋館の客間の暖炉棚に載っているスイス製の千日捲きの置時計は、むかしは祖父の自慢のものだったが、よほど前から動かなくなり、丸い玻璃鐘の中で赤く錆びついていた。
時も刻まず、装飾にもならず、ただそこに置いてあるというだけの死んだ機械は、ちょうどそのひとの象徴のようなものだったが、一日中、それを睨みつけていながら、いっこうに気がつかない。世間から見捨てられてしまったとも知らずに、毎日、反り身になってぎょろぎょろしていたが、訪ねるひともない客間のソファに、なすこともなく、ぽつねんと掛けているうちに、昼夜のあまりにも長いのにうんざりし、一日ごとに消耗して、家屋接収の通知が来た朝、眠るように死んでしまった。