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夏水をかぶつた猿ヶ馬場耕地の田地は、出来秋の今となつては寔に見すぼらしいものであつた。ひこばえのやうにひよろ/\した茎からは、老女のちゞれた髪の毛を思はせるやうな穂が見える。それも手にとつて見るとしいなが多い。枯穂も少くない。刈つたところで藁の値うちしかないかもしれない。米として見た処で鳥の餌の少し上等な位にしか精げられないだらうと思はれる。地租特免になつても、小作ばかりの此貧村の百姓に何のお蔭があらう。骨つぷしの強い男共は、遠い上州の蚕場へ出稼に行つた。中には遙かに遠い北海道あたりへまで働きに行つた。やがて雪がふる。冬籠の中でこしらへる草鞋細工の材料の藁さへ乏しい寒さは、どうして凌いだものか。居残つた者はその当さへなしに、少しばかりの畑を耕して、勢のない鋤鍬を動して居るのである。
麦の芽が針程に延びて、木綿畑では、枯葉やはぢけたももの殻がかさかさと風に鳴る静かな朝のことであつた。この寂しい、死んだやうな村に一つの出来事が起つた。それは盗人が巡査につかまつたと云ふ事件であつた。
「儀平のとつさあしばられた。」
三十戸しか無い村中にこのことが忽ちのうちに響き渡つた。
「親様(昔の荘屋を親様と云てゐる)の土蔵破りだてや。」
「ほんだか。」
「まあ。おつかない。」
鋭い、いらいらした、尖つた気分は、重く澱んだ村中の空気をつきやぶつた。短い沈黙の後に、聞耳たてたひそひそばなしと、頓興ながやがや声とが入りまじつて起つた。ある者は片足ばきの藁草履で戸口を飛びだした。縄帯をしめしめ当もなく小走りにあるいてる若者もあつた。
「こらあ。吉次や、家へこいつてば。」
子供を表へ出すまいとして、家の口から呼びたてゝ居る女房もあつた。
盗人に腰繩をうつて、お巡査さんは少し跡からしとしとと歩いた。盗人は旅姿のままであつた。脚絆わらぢがけで、木綿たて縞の合羽を著た、きりつとした仕度であつた。お巡査さんは幾晩となく張り込んだ手柄を先づ村民から見て貰ひたいとも考へて居た。肥馬に跨り、革の鞭をとつて鞍の上から豊に睨み廻す時のやうな心持がかなり緊張を感ぜしめた。子供、子守、女親、一軒の主人、いろいろの人達がいろいろの顔付をして、ぞろぞろと後から跟いて行く。
親様のおつかさまも大勢の中にまじつて居た、気性のさつぱりした、それで居て情の深い、誰にもよく思はれて居る人である。二十代の若いときに、劇しい痛風症を煩つて左の足が少し跛となつた。あのやうな結構人にどうしてあんな悪い病気がとつついたのであらうと云つて、其当時村中の人は悲しいことの一つに云ひ合つて居た。家柄に対する尊敬と、人柄に対する憧憬とが此人の上に集つて、小さい村の云はば女王であつた。今日も村民はこの女王を真中に守護して、お練りをする時のやうにごたごたして居ながらも、此人の前に立ちふさがるやうなぶしつけをしようとするものはなかつた。
村全体を端から端まで測つて見たところで十町ともあるまい。それに親様の家と盗人の家とは余り離れては居ない。ものゝ五分もたゝないうちに一同は盗人の家についた。家は西に向いて居る。入口は土間の仕事場で、つゞいて東に茶の間があつて、その奥に座敷と寝間とが三つ割になつて間取られてある。本人とお巡査さんとおつかさまとは茶の間の先の縁に腰をかけた。縁と云つても一尺五寸ほどの板ばりで、埃と垢とで真黒になつて居る。前栽にはちよつとした坪がこさへてあつて、赤と黄との花をもつた鶏頭が二三本薄暗く咲いて居た。鳳仙花はもう実となつたし、曲りくねつた野生の小菊はまだ石蕾である。
茶の間の真中に真四角のゐろりがきられて、煤けた鍵竹の先には、黒焦に焦げた薬罐がかゝつて、木のころがぶすぶすとその下に燻つて居る。女房は下座の爐辺にすわつて挨拶さへもしない。
お巡査さんは、最初亭主にものを云つた。まだかくしてあるべき臓品は、すぐにここで出してしまへと云ふのであつた。この度の臓品と云ふものはまだ一品も警察へは出て居ないのである。
亭主は首を俛れてぢつと足許を見て居るばかりで、
「なんにもありません。」と云ひ切つて、其外のことは一語も云はない。
お巡査さんは女房を呼びかけて、同じことを云つた。女房はたゞ黙つて居る。
「家さがしをするが、いゝか」
お巡査さんはとうとう靴に手をかけた。いくらか脅し気味でもあつた。尋常にぬげばすぐぬげる短靴が、ちよつと脱ぎ悪くさうにも見えた。さつきから前栽の傍まで押しよせて、遠巻に見て居た村民の目には、気色ばんだお巡査さんの様子が読みとられた。中にはそつと唾をのみこんだものもあつた。
お巡査さんはたうとう靴をぬいだ。身をねぢつて茶の間の方へ向き直りながら立ち上つた。がちやりと剣の音がした。
女房の耳にはたしかに此剣の音が響いた。蒼かつた顔が一きは引きしまつた。口は結んだまゝである。
つかつかとお巡査さんは、室内へ押し込んで行つた。案内もまたずに座敷の中を覗いた。座敷と云つても藁莚を敷いた六畳ほどの何の飾もない垢にまみれた室である。次に寝間をのぞいた。一方は座敷の壁に、奥は目なし壁にしきられて、左手の高い窓から僅に日光をとりいれてあるつきりの、まるで夜の様である。小汚い寝具とぼろ着物が二三枚片隅によせかけてあつて、其外になんにもない。箪笥どころか箱らしいものすら見えない。顔をつきいれると、小便くさい臭が鼻をついてむせかへる程であつた。
お巡査さんは顔をしかめて歩みをもどした。なんにもない筈がないと思つて居た疑は、全く消え去つたのではないのであるが、さてどうしていゝか解らなかつた。で、やつぱり女房を責めつける外はないと思つて、ゐろりのはたの上座へむづと坐つた。
「こら。」お巡査さんは女房をぢつと見つめた。
「どうした。品物はどこへやつた。」
「おらとこでどうさしやつたか、おらあちつとも知らんがでござんす。」
女房は恐しくないことは決してない。鬼にでも攫まれたやうにさつきから身うちがふるへて居たのである。一所懸命になつて、爐縁に両手をついて見たり、お腹の中に手をさしこんで見たり、落ちつかう落ちつかうと心の中ではいろいろにあせつて見たりして、やつと之れまでもちこたへて来たのであつたが、お巡査さんが近く目の前に来て、きつとなつて、品物はどこへやつたと責めつけて来たとき、どうしたわけか、彼の頭の中に少しゆとりが出来て来た。返事もすらすらと云ひ得るやうになつた。人知れずほつと呼吸したやうな気持にもなつた。「之れなら落ちつける。」彼はかう思つて一寸も動くまいと覚悟を新しくした。
「貴様が知らんと云ふ筈があるか。」お巡査さんは女房が落着はらつた体を見て、詞を荒らげた。此次の女の出様によつては、殴りつけもしかねない気色にも見えた。
親様のおつかさまは見るに見かねて、中にはひつてやらうと思つた。自分もゐろりばたまで行つて、女房に云ひきかさうとした。
「おつかあ、それはわるいこつたがなあ。」
かう云つたとき此人は仏のやうな心になつて居た。土蔵をあける用事がなかつたので、四五日はなんにも知らずに居たのが、始めて盗まれたと気のついたときの驚き。よく見まはすと、処々に蝋燭のたれがおちて居る、一番いゝものを入れて置く箪笥が二抽斗とも空になつて居るので、一度は呆れ一度は怒りもしたこと。旦那様をよんで来て、こまかに調べて見ると、煙草入はあるが緒〆の珊瑚がはづしてある、家重代の伝はりものゝ印籠までが小箪笥の中からとり出されてしまつてある、どれほど胆の太い泥棒であるであらうか、殆ど物語にもありさうな宝蔵破りを思ひ浮べて、恐しさに二人顔を見合せて、しばらく詞も出なかつたこと。夕方になると、何ものかゞ土蔵のまはりにでも忍び寄つて居ると思はれるやうな、土蔵の中には人気がして、はひつて行つたら、恐しい眼で睨まれやしないかと思はれるやうな不気味がつゞいたこと。それが朝夕出入をして居る儀平とこの親父の仕業であつたと聞いた時は、驚きも怪みも一つになつて心頭から憤が炎のやうにもえたつた。先刻もお巡査さんの前に散々本人をきめつけた。臓品のありかを捜したいから証拠人になつて来て貰ひたいと云はれて、一儀もなく自分で出て来たときの心持では、どこの隅隅からでも引つ張り出さずにおくものかと云ふ気組で居たのであつたが、生来おもひやり深い此人の気立からして今此家の内の、むさくるしい、貧しい、どうして食つて行つてるかすら分らない有様を見ると、怒も憎しみもすつかり融けてしまつた。どうにかして女房を素直にあやまらせて、お上からあんまりがみがみ云はれないうちに、早くゆるして貰ひなさいと勧めて見る気になつた。
けれども女房の顔にはそんな和が少しも上らなかつた。髪はぐるぐる巻にして油つ気もないので後れ毛は容赦なく、骨ばつた頬のまはりに乱れて居た。鼻だけはやゝ形がいゝが、目元に険があつて、口がきりつと男の様にしまつて居た。すてばちになつたら何ものにも恐れないと云ふ毒々しい気性がしんねりむつつりした容貌の上にあらはれてゐた。流石おつかさまに向つては、唇をそらしても居られないのであつたが、さればと云つて、心からお詫をしようとは思ひこんでは居なかつた。女房はどこまでもふてぶてしく、強ひて空うそぶくやうな様子を作らうとするのであつた。
お巡査さんは此間もちつとも考をやすめなかつた。気のせいか、どうも女房の素振が可怪しく思はれてならなかつた。第一、自分等が付いて来てからと云ふものは、あの女はちつとも坐をたゝない。あわてないからだと云ふにしたところで、挨拶をするにも、あんまり落ちつきがすぎる……。と忽ち頭の中に或事かひらめいた。殆ど無意識的にお巡査さんは自分が今何の上に坐つて居るかを調べる為に、手を莚の下にやつてみた。麦藁を敷きならべた上にすぐ莚が敷かれてあつて、床板は全く無い。すつくと立つて女房の傍へ歩みよつて、肩をつかまへた。
「そこどけ。どいて見ろ。」お巡査さんはもう逃さないぞと計りに睨み下した。
この時の女房の様子は、実に不思議であつた。何もかも之れぎりだ。かう覚悟をきめたかのやうにも見えた。どんなことがあつても動くものか。かう決心したかのやうにも見えた。自分も良人と同罪だ。かう思つて恐しい罪人となることに顫へを感じたかのやうにも見えた。ありとあらゆる情感が一ぱいに溢れ出たとき、怨めしいとも思はずに涙が出る。そんなやうな気分で胸が全く塞つてしまつた。さうして一番はつきり此女の考として残つたことは、此品をとられてしまつてはすぐ食ふことが出来ない、自分と、三人の子供の命の蔵は、今自分が座つて居る莚の下にある、生きたいと云ふ一念で、良人は恐しい土蔵破りをまでした、その一念で、自分は怖さ、恥しさを忘れて、ぢつと座つて居た。ぢつと……、どんなことがあつても動くまいと思つて、ぢつと……、ぢつと座つて居た。……どうしてこゝが動かれやう。興奮した彼はくらくらと目が廻るやうに感じた。と地震のやうな激しい力が自分を地の底から持ち上げて、自分をはうりだしたやうに感じた。もうその時彼は爐辺から七八尺離れた方へはねのけられて居て、お巡査さんは、莚をひんむいて、穴蔵の口の蓋をとりのけようとして居るのであつた。
「あゝ。勘弁しておくんなさい。どうか、どうか、そればつかりは。」
よろよろした足取で彼はお巡査さんの両足にしがみつかうとした。
「何をする。」お巡査さんは、力強い腕をさしのべて、一つき突いた。女は一たまりもなく倒れた。そして込み上げてくる涙を絞つて泣きくづれた。
良人はたうとうひかれて行つた。十日や十五日は夢のやうにすぎてしまつたが、女房は良人の消息をきかうとも思はなかつた。どう云ふ手続でどう云ふ順序で良人がお仕置になるのであるか。彼には無論想像もつかない。たゞ泥棒をすれば赤い着物をきせられるものであると云ふことだけを考へて居るのであつた。
牢屋は町の外れの砂山の松原の中にあつた。嘗て近所の女房たちと一しよに、茄子や胡瓜の籠をしよつて町へ売りに行つたとき、監獄と云ふものを態々見物に行つたことがあつた。赤煉瓦の塀に沿つて彼等は疲れた足で廻つて見た。