3
颯と風が吹いて通る。木の葉がざわざわと騒ぐ。木の葉の騒ぐのとは思いながら、澄んだ耳には、聴き覚えのある皺嗄れた声や、快活な高声や、低い繊弱い声が紛々と絡み合って、何やら切りに慌しく話しているように思われる。一しきりして礑と其が止むと、跡は寂然となる。
と、私の心も寂然となる。その寂然となった心の底から、ふと恋しいが勃々と湧いて出て、私は我知らず泪含んだ。ああ、成ろう事なら、此儘此墓の下へ入って、もう浮世へは戻り度ないと思った。
九
先刻旧友の一人が尋ねて来た。此人は今でも文壇に籍を置いてる人で、人の面さえ見れば、君ねえ、ナチュラリーズムがねえと、グズリグズリを始める人だ。
神経衰弱を標榜している人だから耐らない。来ると、ニチャニチャと飴を食ってるような弁で、直と自分の噂を始める。やあ、僕の理想は多角形で光沢があるの、やあ、僕の神経は錐の様に尖がって来たから、是で一つ神秘の門を突いて見る積だのと、其様事ばかり言う。でなきゃ、文壇の噂で人の全盛に修羅を燃し、何かしらケチを附けたがって、君、何某のと、近頃評判の作家の名を言って、姦通一件を聞いたかという。また始まったと、うんざりしながら、いやそんな事僕は知らんと、ぶっきらぼうに言うけれど、文士だから人の腹なんぞは分らない。人が知らんというのに反って調子づいて、秘密の話だよ、此場限りだよと、私が十人目の聴手かも知れぬ癖に、悪念を推して、その何某が友の何某の妻と姦通している話を始める。何とかが如何とかして、掃溜の隅で如何とかしている処を、犬に吠付かれて蒼くなって逃げたとか、何とか、その醜穢なること到底筆には上せられぬ。それも唯其丈の話で、夫だから如何という事もない。君、モーパッサンの捉まえどこだね、という位が落だ。
これで最う帰るかと思うと、なかなか以て! 君ねえ、僕はねえと、また僕の事になって、其中に世間の俗物共を眼中に措かないで、一つ思う存分な所を書いて見ようと思うという様な事を饒舌って、文士で一生貧乏暮しをするのだもの、ねえ、君、責て後世にでも名を残さなきゃアと、堪らない事をいう。プスリプスリと燻るような気を吐いて、散々人を厭がらせた揚句に、僕は君に万斛の同情を寄せている、今日は一つ忠告を試みようと思う、というから、何を言うかと思うと、「君も然う所帯染みて了わずと、一つ奮発して、何か後世へ残し玉え。」
こんなのは文壇でも流石に屑の方であろう。しかし不幸にして私の友人は大抵屑ばかりだ。こんな人のこんな風袋ばかり大きくても、割れば中から鉛の天神様が出て来るガラガラのような、見掛倒しの、内容に乏しい、信切な忠告なんぞは、私は些とも聞き度ない。私の願は親の口から今一度、薄着して風邪をお引きでない、お腹が減いたら御飯にしようかと、詰らん、降らん、意味の無い事を聞きたいのだが……
その親達は最う此世に居ない。若し未だ生きていたら、私は……孝行をしたい時には親はなしと、又しても俗物は旨い事を言う。ああ、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、憶出すのは親の事……それにポチの事だ。
十
ポチは言う迄もなく犬だ。
来年は四十だという、もう鬢に大分白髪も見える、汚ない髭の親仁の私が、親に継いでは犬の事を憶い出すなんぞと、余り馬鹿気ていてお話にならぬ――と、被仰るお方が有るかも知れんが、私に取っては、ポチは犬だが……犬以上だ。犬以上で、一寸まあ、弟……でもない、弟以上だ。何と言ったものか? ……そうだ、命だ、第二の命だ。恥を言わねば理が聞こえぬというから、私は理を聞かせる為に敢て耻を言うが、ポチは全く私の第二の命であった。其癖初めを言えば、欲しくて貰った犬ではない、止むことを得ず……いや、矢張あれが天から授かったと云うのかも知れぬ。
忘れもせぬ、祖母の亡なった翌々年の、春雨のしとしとと降る薄ら寒い或夜の事であった。宵惑の私は例の通り宵の口から寝て了って、いつ両親は寝に就いた事やら、一向知らなかったが、ふと目を覚すと、有明が枕元を朦朧と照して、四辺は微暗く寂然としている中で、耳元近くに妙な音がする。ゴウというかとすれば、スウと、或は高く或は低く、単調ながら拍子を取って、宛然大鋸で大丸太を挽割るような音だ。何だろうと思って耳を澄していると、時々其音が自分と自分の単調にいたように、忽ちガアと慣れた調子を破り、凄じい、障子の紙の共鳴りのする程の音を立てて、勢込んで何処へか行きそうにして、忽ち物に行当ったように、礑と止む。と、しばらく闃寂となる――その側から、直ぐ又穏かにスウスウという音が遠方に聞え出して、其が次第に近くなり、荒くなり、又耳元で根気よくゴウ、スウ、ゴウ、スウと鳴る。
私は夜中に滅多に目を覚した事が無いから、初は甚く吃驚したが、能く研究して見ると、なに、父の鼾なので、漸と安心して、其儘再び眠ろうとしたが、壮なゴウゴウスウスウが耳に附いて中々眠付れない。仕方がないから、聞える儘に其音に聴入っていると、思做しで種々に聞える。或は遠雷のように聞え、或は浪の音のようでもあり、又は火吹達磨が火を吹いてるようにも思われれば、ゴロタ道を荷馬車が通る音のようにも思われる。と、ふと昼間見た絵本の天狗が酒宴を開いている所を憶出して、阿爺さんが天狗になってお囃子を行ってるのじゃないかと思うと、急に何だか薄気味悪くなって来て、私は頭からスポッと夜着を冠って小さくなった。けれども、天狗のお囃子は夜着の襟から潜り込んで来て、耳元に纏り付いて離れない。私は凝然と固くなって其に耳を澄ましていると、何時からとなくお囃子の手が複雑で来て、合の手に遠くで幽かにキャンキャンというような音が聞える。ゴウという凄じい音の時には、それに消圧されて聞えぬが、スウという溜息のような音になると、其が判然と手に取るように聞える。不思議に思って益耳を澄ましていると、合の手のキャンキャンが次第に大きく、高くなって、遂には鼾の中を脱け出し、其とは離ればなれに、確に門前に聞える。
こうなって見ると、疑もなく小狗の啼き声だ。時々咽喉でも締られるように、消魂しく々と啼き立てる其の声尻が、軈てかぼそく悲し気になって、滅入るように遠い遠い処へ消えて行く――かとすれば、忽ち又近くで堪え切れぬように啼き出して、クンクンと鼻を鳴らすような時もあり、ギャオと欠びをするような時もある。
十一
私は元来動物好きで、就中犬は大好だから、近所の犬は大抵馴染だ。けれども、此様繊細い可愛げな声で啼くのは一疋も無い筈だから、不思議に思って、窃と夜着の中から首を出すと、
「如何したの? 寝られないのかえ?」
と、母が寝反りを打って此方を向いた。私は此返答は差措いて、
「あれは白じゃないねえ、阿母さん? 最と小さい狗の声だねえ? 如何したんだろう?」
「棄狗さ。」
「棄狗ッて何?」
「棄狗ッて……誰かが棄てッたのさ。」
私はしばらく考えて、
「誰が棄てッたンだろう?」
「大方何処かの……何処かの人さ。」
何処かの人が狗を棄てッたと、私は二三度反覆して見たが、分らない。
「如何して棄てッたんだろう?」
蒼蠅よ、などという母ではない。何処迄も相手になって、其意味を説明して呉れて、もう晩いから黙ってお寐と優しく言って、又彼方向いて了った。
私も亦夜着を被った。狗は門前を去ったのか、啼声が稍遠くなるに随れて、父の鼾が又蒼蠅く耳に附く。寝られぬ儘に、私は夜着の中で今聴いた母の説明を反覆し反覆し味って見た。まず何処かの飼犬が椽の下で児を生んだとする。小ぽけなむくむくしたのが重なり合って、首を擡げて、ミイミイと乳房を探している所へ、親犬が余処から帰って来て、其側へドサリと横になり、片端から抱え込んでベロベロ舐ると、小さいから舌の先で他愛もなくコロコロと転がされる。転がされては大騒ぎして起返り、又ヨチヨチと這い寄って、ポッチリと黒い鼻面でお腹を探り廻り、漸く思う柔かな乳首を探り当て、狼狽てチュウと吸付いて、小さな両手で揉み立て揉み立て吸出すと、甘い温かな乳汁が滾々と出て来て、咽喉へ流れ込み、胸を下って、何とも言えずお甘しい。と、腋の下からまだ乳首に有附かぬ兄弟が鼻面で割込んで来る。奪られまいとして、産毛の生えた腕を突張り大騒ぎ行ってみるが、到頭奪られて了い、又其処らを尋ねて、他の乳首に吸付く。其中にお腹も満くなり、親の肌で身体も温まって、溶けそうな好い心持になり、不覚昏々となると、含んだ乳首が抜けそうになる。夢心地にも狼狽て又吸付いて、一しきり吸立てるが、直に又他愛なく昏々となって、乳首が遂に口を脱ける。脱けても知らずに口を開いて、小さな舌を出したなりで、一向正体がない……其時忽ち暗黒から、茸々と毛の生えた、節くれ立った大きな腕がヌッと出て、正体なく寝入っている所を無手と引掴み、宙に釣す。驚いて目をポッチリ明き、いたいげな声で悲鳴を揚げながら、四足を張って藻掻く中に、頭から何かで包まれたようで、真暗になる。窮屈で息気が塞りそうだから、出ようとするが、出られない。久らく藻掻いて居る中に、ふと足掻きが自由になる。と、領元を撮まれて、高い高い処からドサリと落された。うろうろとして其処らを視廻すけれど、何だか変な淋しい真暗な処で、誰も居ない。茫然としていると、雨に打れて見る間に濡しょぼたれ、怕ろしく寒くなる。身慄い一つして、クンクンと親を呼んで見るが、何処からも出て来ない。途方に暮れて、ヨチヨチと這出し、雨の夜中を唯一人、温かな親の乳房を慕って悲し気に啼廻る声が、先刻一度門前へ来て、又何処へか彷徨って行ったようだったが、其が何時か又戻って来て、何処を如何潜り込んだのか、今は啼声が正しく玄関先に聞える。
十二
「阿母さん阿母さん、門の中へ入って来たようだよ。」
と、私が何だか居堪らないような気になって又母に言掛けると、母は気の無さそうな声で、
「そうだね。」
「出て見ようか?」
「出て見ないでも好いよ。寒いじゃないかね。」
「だってえ……あら、彼様に啼てる……」
と、折柄絶入るように啼入る狗の声に、私は我知らず勃然起上ったが、何だか一人では可怕いような気がして、
「よう、阿母さん、行って見ようよう!」
「本当に仕様がない児だねえ。」
と、口小言を言い言い、母も渋々起きて、雪洞を点けて起上ったから、私も其後に随いて、玄関――と云ってもツイ次の間だが、玄関へ出た。
母が履脱へ降りて格子戸の掛金を外し、ガラリと雨戸を繰ると、颯と夜風が吹込んで、雪洞の火がチラチラと靡く。其時小さな鞠のような物が衝と軒下を飛退いたようだったが、軈て雪洞の火先が立直って、一道の光がサッと戸外の暗黒を破り、雨水の処々に溜った地面を一筋細長く照出した所を見ると、ツイ其処に生後まだ一ヵ月も経たぬ、むくむくと肥った、赤ちゃけた狗児が、小指程の尻尾を千切れそうに掉立って、此方を瞻上げている。形体は私が寝ていて想像したよりも大きかったが、果して全身雨に濡れしょぼたれて、泥だらけになり、だらりと垂れた割合に大きい耳から雫を滴し、ぽっちりと両つの眼を青貝のように列べて光らせている。
「おやおや、まあ、可愛らしい! ……」と、母も不覚言って了った。
況や私は犬好だ。凝として視ては居られない。母の袖の下から首を出して、チョッチョッと呼んで見た。
と、左程畏れた様子もなく、チョコチョコと側へ来て流石に少し平べったくなりながら、頭を撫でてやる私の手を、下からグイグイ推上げるようにして、ベロベロと舐廻し、手を呉れる積なのか、頻に円い前足を挙げてバタバタやっていたが、果は和りと痛まぬ程に小指を咬む。
私は可愛くて可愛くて堪まらない。母の面を瞻上げながら、少し鼻声を出し掛けて、
「阿母さん、何か遣って。」
「遣るも好いけど、居附いて了うと、仕方がないねえ。」
と、口では拒むような事を言いながら、それでも台所へ行って、欠茶碗に冷飯を盛って、何かの汁を掛けて来て呉れた。
早速履脱へ引入れて之を当がうと、小狗は一寸香を嗅いで、直ぐ甘そうに先ずピチャピチャと舐出したが、汁が鼻孔へ入ると見えて、時々クシンクシンと小さな嚔をする。忽ち汁を舐尽して、今度は飯に掛った。他に争う兄弟も無いのに、切に小言を言いながら、ガツガツと喫べ出したが、飯は未だ食慣れぬかして、兎角上顎に引附く。首を掉って見るが、其様な事では中々取れない。果は前足で口の端を引掻くような真似をして、大藻掻きに藻掻く。