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三十三
午後はいつも私が学校へ行った留守に、雪江さんが帰って来るので、掛違って逢わないが、雪江さんは帰ると、直ぐ琴のお稽古に近所のお師匠さんの処へ行く。私は一度何かで学校が早く終った時、態々廻道をして其前を通って見た事がある。三味線のお師匠さんと違って、琴のお師匠さんの家は格子戸作りでも、履脱に石もあって、何処か上品だ。入口に琴曲指南山勢門人何とかの何枝と優しい書風で書いた札が掛けてあった。窃と格子戸の中を覗いて見ると、赤い鼻緒や海老茶の鼻緒のすがった奇麗な駒下駄が三四足行儀よく並んだ中に、一足紫紺の鼻緒の可愛らしいのが片隅に遠慮して小さく脱棄ててある。之を見違えてなるものか、雪江さんのだ。大方駒下駄の主も奥の座敷に取繕ってチンと澄しているに違ないと思うと、そのチンと澄している処が一目なりと見たくなったが、生憎障子が閉切ってあるので、外からは見えない。唯琴の音がするばかりだ。稽古琴だから騒々しいばかりで趣は無いけれど、それでも琴は何処か床しい。雪江さんは近頃大分上手になったけれど、雪江さんではないようだ。大方まだ済ないンだろう、なぞと思いながら、うッかり覗いていたが、ふッと気が附くと、先刻から側で何処かの八ツばかりの男の児が、青洟を啜り啜り、不思議そうに私の面を瞻上げている。子供でも極りが悪くなって、々に其処の門口を離れて帰って来た事も有ったっけが……
夕方は何だか混雑して落着かぬ中にも、一寸好い事が一つある。ランプ掃除は下女の役だが、夕方之に火を点けて座敷々々へ配るのは私の役だ。其時だけは私は公然雪江さんの部屋へ入る権利がある。雪江さんの部屋は奥の四畳半で、便所の側だけれど、一寸小奇麗な好い部屋だ。本箱だの、机だの、ガラス戸の箱へ入た大きな人形だの、袋入りの琴だの、写真挟みだの、何だの角だの体裁よく列べてあって、留守の中は整然と片附いているけれど、帰って来ると、書物を出放しにしたり、毛糸の球を転がしたりして引散かす。何かに紛れてランプ配りが晩くなった時などは、もう夕闇が隅々へ行渡って薄暗くなった此の部屋の中に、机に茫然頬杖を杖いてる雪江さんの眼鼻の定かならぬ顔が、唯円々と微白く見える。何となく詩的だ。
「晩くなりました。」
とぶっきらぼうの私も雪江さんだけには言いつけぬお世辞も不覚出て、机の上の毛糸のランプ敷へ窃とランプを載せると
「いいえ、まだ要らないわ。」
雪江さんは屹度斯ういう。これが伯父さんの先生でも有ろうものなら、口を尖がらかして、「もッと手廻して早うせにゃ不好!」と来る所だ。大した相違だ。だから、家で人間らしいのは雪江さんばかりだと言うのだ。
其儘出て来るのが、何だか飽気なくて、
「今日貴嬢の琴のお師匠さんの前を通りました。一寸好い家ですね。」
「あら、そう」、と雪江さんがいう。心持首を傾げて、「何時頃?」
「そうさなあ……四時ごろでしたか。」
「じゃ、私の行ってた時だわねえ。」
「ええ」、と私は何だか極りが悪くなって俯向いて了う。
此話が発展したら、如何な面白い話になるのだか分らんのだけれど、其様な時に限って生憎と、茶の間辺で伯母さんの奥さんの意地悪が私を呼ぶ、
「古屋さん! 早くランプを……何を愚図々々してるンだろうねえ。」
残惜しいけれど、仕方がない。其切りで私は雪江さんの部屋を出て了う。
三十四
一番楽しみなのは日曜だ。それも天気だと、朝から客が立込んで私は目が眩る程忙しいし、雪江さんもお友達が遊びに来たり、お友達の処へ遊びに行ったりして、私の事なんぞ忘れているから、天気は糞だ。雨降りに限る。就中伯父さんの先生は何か余儀ない用事があって朝から留守、雪江さんは一日家、という雨降の日が一番好い。
其様な日には雪江さんは屹度思切て朝寝坊をして、私なんぞは徐々昼飯が恋しくなる時分に、漸う起きて来る。顔を洗って、御飯を喰べて、其から長いこと掛って髪を結う。結い了う頃は最う午砲だけれど、お昼はお腹が満くて食べられない。「私廃してよ」、という。
部屋で机の前で今日の新聞を一寸読む。大抵続物だけだ。それから編棒と毛糸の球を持出して、暫くは黙って切々と編物をしている。私が用が有って部屋の前でも通ると、「古屋さん、これ何になると思って?」と編掛けを翳して見せる。私が見たんじゃ、何だか円い変なお猪口のような物で、何になるのだか見当が附かないから、分らないというと、でも、まあ、当てて見ろという。熟考の上、「巾着でしょう?」というと、「いいえ」、と頭振を振る。巾着でないとすると、手袋には小さし、靴下でもなさそうだし、「ああ、分った! 匂袋だ」、と図星を言った積でいうと、雪江さんは吃驚して、「まあ、可厭だ! 匂袋だなんぞッて……其様な物は編物にゃなくッてよ。」匂袋でもないとすると、もう私には分らない。降参して了うと、雪江さんは莞爾ともしないで、「これ、人形の手袋。」
雪江さんは一つ事を何時迄もしているのは大嫌いだから、私がまだ自分の部屋の長四畳へ帰るか帰らぬ中に、もう編物を止めて琴を浚っている。近頃では最うポコンのベコンでも無くなった。斯うして聴いていると、如何しても琴に違いないと、感心して聴惚れていると、十分と経たぬ中に、ジャカジャカジャンと引掻廻すような音がして、其切パタリと、琴の音は止む……ともう茶の間で若い賑かな雪江さんの声が聞える。
忽ちドタドタドタと椽側を駈けて来る音がする。下女の松に違いない。後からパタパタと追蒐けて来るのは、雪江さんに極ってる。玄関で追付いて、何を如何するのだか、キャッキャッと騒ぐ。松が敵わなくなって、私の部屋の前を駈脱けて台所へ逃込む。雪江さんが後から追蒐けて行って、また台所で一騒動やる中に、ガラガラガチャンと何かが壊れる。阿母さんが茶の間から大きな声で叱ると、台所は急に火の消えたように闃寂となる。
私は、国に居る時分は、お向うのお芳ちゃん――子供の時分に能く飯事をして遊んだ、あのお芳ちゃんが好きだった。お芳ちゃんは小さい時には活溌な児だったが、大きくなるに随れて、大層落着いて品の好い娘になって、私は其様子が何となく好きだったが、雪江さんはお芳ちゃんとは正反対だ。が、雪江さんも悪くない、なぞと思いながら、茫然机に頬杖を突ている脊中を、誰だかワッといってドンと撞く。吃驚して振返ると、雪江さんがキャッキャッといいながら、逃げて行くしどけない後姿が見える。私は思わず莞爾となる。
莞爾となった儘で、尚お雪江さんの事を思続けて、果は思う事が人に知れぬから、好いようなものの、怪しからん事を内々思っていると、茶の間の椽側あたりで、オーという例の艶のある美い声が聞える。初は地声の少し大きい位の処から、段々に甲高に競上げて行って、糸のように細くなって、何かを突脱けて、遠い遠い何処かへ消えて行きそうになって、又段々競下って来て、果はパッと拡げたような太い声になって、余念がない。雪江さんが肉声の練習をしているのだ。
三十五
私は其時分吉田松陰崇拝であった。将来の自由党の名士を以って自任しているのなら、グラッドストンかコブデン、ブライトあたりに傾倒すべきだが、何如した機だったか、松陰先生に心酔して了って、書風まで力めて其人に似せ、窃に何回猛士とか僭して喜んでいた迄は罪がないが、困った事には、斯うなると世間に余り偉い人が無くなる。誰を見ても、先ず松陰先生を差向けて見ると、一人として手応のある人物はない。皆一溜りもなく敗亡する。それを松陰先生の後に隠れて見ていると、相手は松陰先生に負るので、私に負るのではないが、何となく私が勝ったような気がして、大臣が何だ、皆門下生じゃないか。自由党の名士だって左程偉くもない。況や学校の先生なんぞは只の学者だ、皆降らない、なぞと鼻息を荒くして、独りで威張っていた。私なぞの理想はいつも人に迷惑を懸ける許りで、一向自分の足になった事がないが、側から見たら嘸苦々しい事であったろう。兎も角もこうして松陰先生大の崇拝で、留魂録は暗誦していた程だったが、しかし此松陰崇拝が、不思議な事には、些とも雪江さんを想う邪魔にならなかったから、其時分私の眼中は天下唯松陰先生と雪江さんと有るのみだった。
で、いつも学校の帰りには此二人の事を考え考え帰るのだが、或日――たしか土曜日だったかと思う、土曜日は学校も早仕舞なので、三時頃にそうして二人の事を考えながら帰って見ると、主人夫婦はいつも茶の間だのに、其日は茶の間に居ない。書斎かと思って書斎へ行こうとすると、椽側の尽頭の雪江さんの部屋で、雪江さんの声で、
「誰?」
という。私は思わず立止って、
「私です。」
「古屋さん?」
という声と共に、部屋の障子が颯と開いて、雪江さんが面だけ出して、
「今日は皆留守よ。」
「え?」と私は耳が信ぜられなかった。
「阿父さんも阿母さんもね、先刻出懸けてよ。」
「そうですか」、と何気なく言ったが、内々は何だか急に嬉しくなって来て、
「松は?」
「松はお湯へ行って未だ帰って来ないの。」
「じゃ、貴嬢お一人?」
「ええ……一寸入らッしゃいよ、此処へ。好い物があるから。」
と手招をする。斯うなると、松陰先生崇拝の私もガタガタと震い出した。
三十六
前にも断って置いた通り、私は曾て真劒に雪江さんを如何かしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪しからん事を想って、人知れず其を楽しんで居たのは事実だけれど、勧業債券を買った人が当籤せぬ先から胸算用をする格で、ほんの妄想だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸入らッしゃいよ、と手招ぎされて、驚破こそと思う拍子に、自然と体の震い出したのは、即ち武者震いだ。千載一遇の好機会、逸してなるものか、というような気になって、必死になって武者震いを喰止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれる儘に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈んでいた雪江さんが、其時勃然面を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張っていて、私の面を見て何だか言う。言う事は能く解らなかったが、側に焼芋が山程盆に載っていたから、夫で察して、礼を言って、一寸躊躇したが、思切って中へ入って了った。
雪江さんはお薩が大好物だった。私は好物ではないが、何故だか年中空腹を感じているから、食後だって十切位はしてやる男だが、此時ばかりは芋どころでなかった。切に勧められるけれど、難有う難有うとばかり言ってて、手を出さなかった。何だかもう赫となって、夢中で、何だか霧にでも包まれたような心持で、是から先は如何なる事やら、方角が分らなくなったから、彷徨していると、
「貴方は遠慮深いのねえ。男ッて然う遠慮するもンじゃなくッてよ。」
と何にも知らぬ雪江さんが焼芋の盆を突付ける。私は今其処どころじゃないのだが、手を出さぬ訳にも行かなくなって手を出すと、生憎手先がぶるぶると震えやがる。
「如何して其様に震えるの?」
と雪江さんが不審そうに面を視る。私は愈狼狽して、又真紅になって、何だか訳の分らぬ事を口の中で言って、周章てて頬張ると、
「あら、皮ごと喰べて……皮は取った方が好いわ。」
「なに、構わんです」、と仕方が無いから、皮ぐるみムシャムシャ喰りながら、「何は……何処へ入らしッたンです?」
「吉田さんへ」、と雪江さんは皮を剥く手を止めて、「私些とも知らなかったけど、今晩が春子さんのお輿入なんですって。そら、媒人でしょう家は? だから、阿父さんも阿母さんも早めに行ってないと不好って、先刻出て行ったのよ。」
これで漸く合点が行ったが、それよりも爰に一寸吹聴して置かなきゃならん事がある。私は是より先春色梅暦という書物を読んだ。一体小説が好きで、国に居る時分から軍記物や仇討物は耽読していたが、まだ人情本という面白い物の有ることを知らなかった。これの知り初めが即ち此春色梅暦で、神田に下宿している友達の処から、松陰伝と一緒に借りて来て始て読んだが、非常に面白かった。此梅暦に拠ると、斯ういう場合に男の言うべき文句がある。何でも貴嬢は浦山敷思わないかとか、何とか、ヒョイと軽く戯談を言って水を向けるのだ。思切って私も一つ言って見ようか知ら……と思ったが、何だか、どうも……ソノ極りが悪い。