Chapter 1 of 2

犯罪編

おとなの論理的な頭では、とうてい分らないような人間のかくれた性格、そんなかくれたものを、おさなごや下等動物がわけもなく見破るという迷信は、かなり広くゆきわたっているようだ。そして彼らの判断を、経験を超越したすぐれたものとして、受けいれてしまうのである。

こんな迷信は人々がパラドクスを愛するところからくるのかどうか、そんな問題は問う必要がなかろう。これは社会一般の信念になっていて、ことにある階級の婦人たちに支持されているようだ。そして、トマス・ソリー夫人もそれをかたく信ずる婦人の一人なのである。

「ほんとなのよ、」と、かの女はいう。「小さい子供や、ものもいえぬ動物がよく知っていることは、じっさいびっくりするほどなの。だから子供や動物をだまそうたってだめなの。純金とにせの金を一目で見わけたり、人の心をすぐ見抜いたりするんだから、ほんとにふしぎなのよ。あんなのを本能というんでしょうか。」

そんな哲学的な、重大な言葉を、口からでまかせにしゃべりながら、ソリーのおかみさんは、ひじまでまくった両手を、石鹸の泡のなかにつっこんで、お客を見あげるのである。

お客のブラウンは、ひざのうえにむっちり肥った十八カ月の子供と、ぶちの猫をのせて、戸口に坐っていた。彼はほっそりした、小男の年寄の船乗りで、ものしずかで、相手のきげんをとることが上手で、そのかわり少々ずるいようなところもあった。船乗りにはよくこんな男があるが、彼も子供や動物がすきで、またそんなものによくなつかれもした。だからこそ、いま現に、歯のない口に火の消えたパイプを動かしながら坐る彼の膝のうえでは、子供はにこにこ笑い、体を丸めた猫は、ごろごろ喉を鳴らして、その足の指を、気持よさそうにうごめかしているのである。

「燈台は淋しいですよ。」ソリー夫人はいう。「たった三人きりで、お隣りがないんですからね。それに洗濯なんかする女が一人もいないんだから、着ている物がきたなくなるでしょうしね。それにこの頃は九時すぎまで起きていなくちゃならんから退屈でしょう。どんなことをしてお暮しになるのかしら。」

「することは沢山ありまさあ。」ブラウンはいう。「ランプを掃除したり、ガラスをふいたり、それから時にはペンキも塗らなければならんしね。そういえば、」顔をおこして時計をあおぎ、「もうぼつぼつ行かなくちゃならん。十時半に満潮だというのに、もう八時をすぎた。」

ソリー夫人は大急ぎで洗濯物をかきあつめ、それを綱のようにねじって絞って、エプロンで手をふき、もがく子供をブラウンの手からうけとった。

「部屋はかたづけときますからね、休みになったらいつでもおいでになって。トムと二人でお待ちしていますわ。」

「ありがとう。」ブラウンはそっと猫を下におろした。「また来るのを楽しみにしています。」

彼は夫人と握手すると、赤ん坊に接吻し、猫の喉をなで、小箱を先にぶらさげた紐を肩にかけて家をでた。

湿地を彼は通らねばならなかった。彼は地平線に見えるレカルヴァー沿岸警備出張所の奇妙な二つの建物を目標にして、航海する船のように歩きはじめた。歩きはじめるとトム・ソリーの飼っている羊がうつろな目で彼を見あげて、別れをおしむように鳴いた。溝の堰のところまでくると、立ちどまって広々としたケント州の景色をふりかえった。木立の上に聖ニコラスの灰色の塔がのぞき、はるかなサールの製粉所の車は、夏のそよ風をうけてゆるやかに回っていた。荒涼とした彼の生活に、しばしの憩いと、家庭的な温かみをあたえてくれた、いまでてきたばかりの家は、ひとしおなつかしかった。だが当分あすこへはいかれない。前には燈台がみえた。溜息をして彼はまた歩きだした。警備出張所の門をはいると、建物のほうへあるいた。

黒い煙突のある白い建物のそばで、旗竿の綱をなおしていた沿岸警備員の上役は、ブラウンをみると快活に話しかけた。

「おいでなすったな。立派な服をきているじゃないか。しかし、今朝はフィッタブルに集まらなくちゃならんので、人手もないし、船もだせんのだが――」

「そんなら泳いでわたるか?」ブラウンはいった。

警備員は笑った。

「まさか、そんな新しい服を着ていちゃあね。なんならウィレットの船を借りたらどうだい? あの男は今日娘に会いにミンスターへ行くといっていたから、船が一日あいてるわけだ。でも、船に乗って君といっしょに行ってくれる者はいないよ。ウィレットにはおれがよく云っとくけれどね。」

船乗りをしていたブラウンには、帆船をあやつる自信があった。

「人手はいらん。ちっぽけな帆船ぐらい平気だよ。おれは十の時から船を乗りまわしているんだから。」

「それはそうかもしらんが、誰が船をここまでとどけてくれるんだ?」

「むこうへ行きさえすれば、交代の男がその船で帰ってくるよ。誰だって泳ぐより、船のほうがよかろうじゃないか。」

警備員は望遠鏡で岸ちかく通りすぎる荷船を見ていたが、

「そんならいいだろう。燈台にボートぐらい用意してあるといいんだが。じゃ、ウィレットの船に乗っていって、すぐこちらへ返してくれたまえ。君もぐずぐずしてはいられないだろう。」

いいすてて、建物の裏にまわった彼は、まもなく二人の警備員をつれてかえった。四人で海岸へでてみると、ウィレットの船は、満潮線のちょっと上のところにひきあげてあった。

船の名は「エミリー」。一枚帆のマストを二本立てられるようになった、ニスを塗ったオーク材の美しい小船で、四人で押しだすには手頃の大きさだった。ごろごろ音をたてて、船は白堊の岩のうえを滑った。誰かが船底の砂嚢はとったほうがよかろうといったが、結局とらないまま水際に押していった。

警備員の上役は、船にマストをたてているブラウンに注意した――

「満潮を利用しないとだめだよ。西北が吹いているから、船首を東北にむけて一息に突ききるんだ。でも燈台の東へでたら、引き潮になるとひどい目にあうよ。」

にやにや笑って聞き流しながら、ブラウンは帆をはってうちよせる波をみた。船がゆるやかな波にのった時、彼が櫂で岸を突くと、船底のきしる音がして、船は岸をはなれて海にうかんだ。彼は舵をさしこみ、船尾に坐って帆綱をむすびつけた。

「あら! 帆綱をむすびつけたぞ! あんなことをしたら危ないんじゃないかな。無事にウィレットに船を返してやらんと、もうしわけがないのだが。」

警備員の上役は、そんなことをいいながら、静かな海にしだいに遠ざかり行く船を見送った。それから他の者のあとをおって、建物のほうへ足をむけた。

燈台は、ガードラー砂州の西南のはしに、細長い紡錘のような形をして、鉄筋の脚で立っていたが、満潮にちかいので、砂州のいちばん高いところも水につかっていた。足の長い、赤いぶかっこうな鳥が立っているようにもみえれば、どれい船が航海の途中でえんこしているようにもみえた。

その燈台の手摺に、二人の男がよりかかっていた。いま燈台にいるのは、この二人だけなのである。一人は椅子にもたれて、右足の上に枕をおき、その上に左足をのっけていた。一人は手摺に望遠鏡をのぞけて、灰色の線をひいたような陸地や、二つの塔のたつ沿岸警備員の出張所をみていた。

「船はこないよ、ハリー、」と彼はいった。

椅子にもたれた男は唸るような声で、

「潮がひくかもしれん。また一日待ちぼうけだ。」

「バーチントンまでつれて行ってもらって、あすこから汽車にのったらどうだ?」

「汽車はごめんだ。船だって嫌なぐらいなんだもの。ほんとに船はこないの、ゼフリズ?」

ゼフリズは手で日光をよけて東を見ていたが、

「北からブリグ型の帆船がくるぜ。石炭船かしら。」望遠鏡をのぞいて、「前檣の上段トプスルの両がわに新しいカンヴァスを使っている。」

「トライスルには、どんなのをつけている、ゼフリズ?」熱心にきいた。

「よく見えん。」ゼフリズはこたえた。「分った分った。茶色だ。なんだ! あの船は『ユートーピア』だよ、ハリー。トライスルが茶色だったら、『ユートーピア』にきまってらあ。」

「ねえ、『ユートーピア』ならおれの町へ行くのだから、乗せてもらうよ。船長のモケットにたのめば乗せてくれると思うんだ。」

「そんなことをいったって、交代がこなくちゃだめだよ。交代がこないのに職場をはなれたら規則違反だ。」

「規則がなんだい! 規則よりおれの足のほうが大事だ。片輪にゃなりたくない。おれがここにいたってなんの役にもたたんのだし、交代のブラウンという男はどうせすぐくるにきまっている。ゼフリズ、たのむから旗をだしてあの船を呼びとめてくれ。」

「よし、君がそういうならしかたがない。だが、いっとくが、家に帰ることよりも、早く医者にみてもらうことだよ。」

旗のはいっている戸棚をあけて二つの旗をだし、それを紐にむすびつけた。船がまぢかになると、紐をひっぱって旗竿の先にそれをひるがえした。「援助をもとむ、」という信号だった。

まもなく、船のマストに石炭でよごれた信号旗がのぼり、それから船は速度をおとし、船首は潮の流れるほうへむけたまま、燈台のほうへあとがえりしだした。そして適当な距離に接近すると、二人の男がボートにのってきだした。

「おおい! どうしたの?」

声が聞えるようになると、ボートの一人が叫んだ。

「ハリーが足を折ったんだ。」燈台守が答えた。「モケット船長にたのんで、フィッタブルまで乗せてかえってくれ。」

ボートはまた船まで漕いでかえった。そして大声で相談していたがまた燈台のほうへ漕いできだした。

「船長が承知した。潮がひくと困るから急いでくれ。」ボートの男は大声でどなった。

負傷した男は安堵の溜息をもらした。

「ありがたい。しかし梯子はおりられないんだが、どうして下へおりたもんだろう。ゼフリズ?」

「滑車でおりるんだね。君は綱の輪に腰かけていたらいい。揺れるようだったら、もう一本綱をおろしてやるよ。」

「そんならそうしよう。しかしゆっくり綱をおろしてくれよ。」

ボートが鉄筋の脚に横づけになる頃には、すべての準備ができていた。綱の端に坐る彼は、滑車のきしる音に合せてなにやらどなりながら、大きな蜘蛛のようにぶらさがっておりた。彼の持物をいれた箱と袋もあとから綱でおろした。そんなものを収容したボートは、船にこぎかえるとまた彼やその持物を綱でつりあげ、それからブリグ型の石炭船は、ケントの浅瀬を南へむけて走りだした。

ひとりになったゼフリズは、手摺のそばによって、船の人声の聞えなくなるまで見送った。だんだんその船は小さくなった。やかましい仲間がいなくなると、燈台が急にひっそりと、物淋しくなった。沖からの船はすでにプリンシズ海峡を通ってしまって、どちらをむいても静かな眺めだった。ガラスのように光る遠くの浅瀬に黒点のように浮ぶ浮標や、目に見えぬ砂州に立つ紡錘形の標識は、船のいない海を、いっそう淋しいものにしているように思われた。風に乗ってかすかに流れてくるシヴァリング砂州の浮標のベルの音が、ものうく、悲しげにひびいた。すでに彼は一日の仕事をすましていた。霧笛のモーターは掃除をすまし、油をさしていた。レンズは磨き、ランプの掃除もすんでいた。むろん、燈台のことだから、まだ小さい仕事はないことはなかった。だが、今のゼフリズは仕事に手を出す気にはなれなかった。今日は見知らぬ新参の燈台守がやってくる。これから長い間、日となく夜となく、その男といっしょに暮すのだから、その男の性格や趣味や習慣によっては、よい仲間ともなろうし、朝から晩まで腹を立てていなければならぬ仲間ともなろう。ブラウンというのはどんな男だろう? いままでなにをやっていたのだ? どんな顔の男なのだ? むりもないことだが、彼はいつもの仕事もそっちのけに、そんなことばかり考えた。

だしぬけに陸のほうの水平線に、黒い点のようなものがあらわれた。望遠鏡をとって熱心に彼はそれを見つめた。やっぱり船だった。だが、彼の待ちうけている警備員の船ではなく、漁船にちがいなかった。しかもそれに乗っているのは一人だけだった。がっかりして彼は望遠鏡をしたにおいた。そしてパイプに煙草をつめて手摺にもたれかかり、喪心したようにぼんやりと灰色の陸の線をみつめた。

三年間も彼はこの孤独な生活をつづけたが、活動好きの彼にとって、それは好ましい生活ではなかった。三年間も彼はなにも考えず、無限につづく夏のなぎ、冬の夜の暴風雨と冷たい霧をむかえた。霧の夜はこちらから霧笛を鳴らし、見えない船からも不気味な汽笛がきこえた。

どうしてこんな神に見はなされた場所へ彼はきたのだろう? 広い世間が彼を呼ぶのに、どうして彼はここを去らないのだろう? 彼の頭のなかに一つの光景がよみがえった。時々思いだす光景が、また頭によみがえって、目の前の静かな海や、はるかな灰色の陸地を消してしまった。それは極彩色の絵だった。深い青い熱帯の海のうえには、一片の雲も浮んでいなかった。その絵のまんなかに、一つの白塗りのバーク型の帆船が、ゆるやかな波のうねりに浮きつ沈みつしながら進んでいる。

だらしなく帆をひっぱりあげて、綱がゆるんでいるので、帆桁はぐらぐら動き、誰も握っていない舵輪は、舵がゆれるごとに、ひとりでに回っていた。

しかし無人の船ではなかった。十人以上の人がデッキにみえるが、みな眠ったり、酔っぱらっていたりして、まじめな人の姿は一人も見られない。しかも、水夫ばかりで、指揮するものがなかった。

つぎに彼の前に現れたのは船室の光景だった。海図をいれる棚や、コンパスや、クロノミーターがみえるから、船長室にちがいなかった。そこに男が四人いた。二人はすでに死んで倒れている。生きている二人のうちの、小柄でずるげな顔の男は、しゃがんで死人の服でナイフの血をぬぐっている。第四の男は彼自身だった。

つぎに彼の見た幻は、彼ら二人が、酔っぱらいどもの船を見すてて、こっそりボートで脱走する光景だった。船は大波のたち騒ぐ砂州にむかって漂流していた。だが、次の瞬間、太陽にあたった氷のつつらのように、波にのまれて消えてしまう。そして、船を見すてた彼ら二人は、まもなく大きい船に救いあげられ、アメリカの港に上陸する――

それが、彼のこんな燈台守となった理由なのである。殺人を犯したからこんなところにいるのだ。もひとりの悪党、トッドは彼を裏切り、彼を悪しざまにいいふらした。一時はどうなることかと気をもんだが、彼はあやうく逃亡してことなきをえた。それいらいゼフリズはずっと世間から隠れつづけてきた。そしていまこの燈台に隠れているのだ。でも、それは法律を恐れているのではない。同じ船の者がみな死んでしまった今となっては、彼がジェフリー・ロークであることを知っている者はないからだ。彼が恐れているのは共犯者なのだ。共犯者がこわいから、ジェフリー・ロークの本名を変え、ゼフリズと名のり、こんな燈台守となって、生きながらの囚人のような生活をしているのだ。トッドは死ぬかもしれぬ――すでに死んでいるかもしれぬ――それを知る方法はないのだ。彼の釈放の知らせでさえ耳にすることはできないだろう。

ゼフリズは、また体を起して、望遠鏡でむこうの船をみた。こんどは大きくなって、燈台にむかって近づきつつあることがはっきりと分った。なにか知らせることがあって、この燈台に近づいているのかもしれない。とにかく、交代の男ののっている警備員出張所のボートでないことはたしかだった。

彼は部屋にはいって、簡単な食事の準備にとりかかったが、料理すべき材料はすくなかった。ただ昨日の冷肉が残っていたので、そのそばにじゃがいもがわりのビスケットをつけた。妙に落着きなく気持がわるかった。たえがたいほどの孤独感におそわれて、鉄筋の脚をうつ波の音が神経をいらだたせた。

しばらくして手摺のそばへ出てみると、潮はひきはじめて、船は一マイルぐらいの距離に接近していた。眼鏡でみると、船の男は水路組合の制帽をかぶっていた。それで今後ともに暮すべきブラウンであることが分った。だが、ブラウンならどうしてあんな船で来るのであろう? 船をどうするつもりなのだろう? 誰が船を返しに行くのだろう?

いままで吹いていたそよ風が吹かなくなった。船の男は帆をおろして櫂を使いだした。その櫂の使いかたが、いくぶん慌てぎみにみえたので、ゼフリズが不審に思って水平線を見まわすと、この時初めて気がついたのだが、東の海面は霧におおわれ、ガードラー砂州東端の標識は、すでにそのため見えなくなっているのだった。急いで彼は燈台のなかにはいり、圧搾空気が霧笛にはいるよう、モーターをかけてしばらくそのぐあいを見、それからまた霧笛の唸りで震動する床を踏んで、手摺のある回廊へでた。

この時には、燈台はまったく霧に包まれて、むこうの船もみえなかった。耳をすましたがなにも聞えなかった。霧が目をさえぎるように、耳もさえぎられているのではあるまいかと思われるほどだった。時々ホーンが警告を発するように怒号した。怒号がやむとまたひっそりとなって、鉄筋にくだける波の音、それからかすかなシヴァリング砂州の浮標のベルがきこえた。

しばらくすると、波を掻く櫂の音がきこえ、目のしたの霧の中に丸く浮かびでた灰色の視野のはしに、けんめいに櫂をこぐ男の姿が、幽霊のように蒼白くおぼろに見えだした。またホーンがうつろに唸った。その男はふりかえって燈台の脚を見、進路をかえて、そのほうに船首をむけた。

ゼフリズは鉄梯子をつたって下の回廊におり、鉄梯子の上に立って熱心に下を見おろした。すでに彼は孤独に疲れていた。ハリーが燈台を去ってから、仲間を待ちうける心が、いっそう強くなっていた。だが、これからの彼の生活に深い関係をもつにいたる、その新来の仲間はどんな男であろう? それはつぎの瞬間に分るはずだった。

すばやく船は潮の流れを横切った。しだいに燈台の脚に接近した。それでも、ゼフリズは新来の仲間の顔を見ることができなかった。やがて音を立てて舷側が鉄筋にくっつくと、その男は櫂を船にいれて梯子をつかんだ。上からゼフリズは綱をなげた。それでも、その男の顔は見えなかった。

ゼフリズは鉄梯子の上に首をのぞけて、下の男が、綱を船に結びつけたり、帆をおろしてマストをはずしたりするのを、じっと熱心に見おろしていた。船の始末をすると、その男は紐の先についた小箱を肩にかけ、一段々々とゆるゆる鉄梯子をのぼりはじめた。ゼフリズはその男の頭を、好奇心をもって見つめていたが、その男は決して上に顔をむけなかった。その男が梯子をのぼってしまうと、ゼフリズは手をかしてやろうと思って身をかがめた。すると、初めてその男が顔をおこした。

その瞬間、ゼフリズは紙のように白くなって身をひいた。

「よお! お前はエイモス・トッドじゃないか!」あえぐように彼は叫んだ。

新参の燈台守が回廊を踏むと、餌えた怪物のようにホーンが唸りだした。ゼフリズはなにもいわずに、彼に背をむけ、黙々と鉄梯子をのぼった。彼もあとから鉄梯子をのぼった。二人ともものをいわないので、梯子を踏む音のみが聞えた。二人が部屋にはいると、ゼフリズは手で合図をして小箱をおろさせた。

トッドは部屋を珍らしげに見まわし、

「君は妙に黙っているんだね。『こんにちは、』ぐらいいってもいいじゃないか。これからは毎日いっしょに暮すんだもの。おれの名はジム・ブラウン。君は?」

ゼフリズは、窓ぎわで彼のほうに顔をつきだし、

「よくおれの顔を見てくれ、エイモス・トッド。顔を見たうえで名をきいてくれ。」

いわれて相手の顔を見たトッドは、はじめて死人のように蒼くなって、

「お前は、お前は、ロークか!」

ゼフリズは声をだしてわざとらしく笑った。そして体を前にのりだし、低い声で、

「分ったか、おれの敵!」

「敵だなんてひでえことをいうなよ、ローク。ひさしぶりに会えておれは嬉しいよ。髭がないし、髪が白くなっているんで、すっかり見損ってしまった。おれが悪かった、ローク、それはおれにも分っている。しかし昔のことをいってみたって仕方がないから、昔のことは忘れようじゃないか。そして、いぜんのような仲好しになろう。」

そういって、彼はハンケチで顔をなでて、心配そうに相手をみた。

「まあ坐れ。」ロークは粗末なきれを張った腕椅子を指さした。「坐ってゆっくりあの金をどうしたか話してくれ。こんなところへやってくるぐらいだから、どうせあの金は使ってしまったんだろう?」

「盗まれた、ローク、一文も残らず盗まれてしまった。あのシーフラワという船の事件は大変だったね。しかし、もうすんだことだから、忘れてしまおう。みんな死んでしまったんだから、二人で黙っていさえすればすむことなんだ。みんなお陀仏だ、海の底で――あの連中のいばしょとしては、海の底がいちばんいいのじゃないかね。」

「そりゃ、秘密を知った人間のいばしょとしては、綱にしばられたり、海の底に沈んでいたりするのがいちばんいいだろう。」

ゼフリズは、いやロークは、せまい部屋のなかを往きつ戻りつ、足ばやに歩きまわった。彼がそばへ来るごとに、椅子にすわるトッドは、ひやひやして体をちぢめた。

「そんなにおれの顔ばかり見ないで、煙草をすうとか、なんとかしたらどうかね?」ロークはいった。

あわててトッドはパイプと煙草入れをだし、煙草を詰めて口にくわえて、ポケットのマッチをさぐった。マッチはポケットのなかでばらばらになっていた。先に赤いもののついたマッチを一本とりだして、彼は壁にこすりつけて蒼白い炎をだし、始終相手に気をくばりながら、すぱすぱ吸ってパイプに火をつけようとした。

ロークは立ちどまって、大きな折りたたみナイフで、煙草のかたまりをけずった。けずりながら、時々むつかしい顔でトッドを見た。

トッドは二三度パイプを吸ってみたあとで、

「このパイプは詰っている。なにか針金のようなものはないか?」

「ないね、」と、ロークはこたえた。「ここにそんなものはないよ。こんどついでがあったら持ってきてやるから、そのあいだおれのパイプを使え。パイプだけはたくさんある。」

いきどおりに心は燃えていながら、ロークはつい船乗りの習慣的な親切気をだして、自分の持っていたパイプをトッドのほうへ押しやった。

「ありがとう、」と、口のなかでつぶやいて、トッドはナイフに気をくばりながらそのパイプをとった。

壁ぎわに、板にたくさん穴をあけた手製のラックがあって、そこに五つ六つのパイプがかかっていた。ロークがその一つを取ろうとして、トッドの椅子の後に手をのばすと、トッドはまっ蒼に顔色をかえた。

ロークがまた煙草をあらたに刻みはじめると、トッドはそばからそれをみながら、

「どうだい、ローク、昔のように仲好しになろうじゃないか?」

その言葉をきくと、またロークの心が火のように燃えた。

「おれのことを悪しざまにいいふらしておきながら、今さら仲好しになろうなんて、よくそんなことがいえたもんだ。」きびしく彼はいった。しばらくしてまたつけくわえた。「そのことはよく考えてみることにしよう。おれはエンジンを見てくる。」

ロークが立ち去ると、新参の男は手に二つのパイプをもって考えこんだ。考えながら、借りたパイプを口にくわえ、詰ったパイプをラックに掛けて、また機械的にポケットに手をつっこんで、マッチをいっぽんだした。そして、しきりに考えながら、マッチをすってパイプに火をつけ、そっと立ちあがって、耳をすまして部屋を歩いた。

ドアのそばで彼はまた耳をすまして立ちどまった。外は霧につつまれていた。彼は足音を忍ばせて回廊を歩いて、階段のうえのところへでた。

「おい、トッド! どこへ行く?」

ふいにロークの声がしたので、トッドはびっくりした。

「なに、船が流れはせんか、見に行ってくるんだよ。」彼はこたえた。

「船のことは心配せんでもいい。おれがみてやるから。」

「そうか。」

トッドはそう答えたが、ひきかえそうとはせず、

「だが、あの男はどこにいるの――おれと交代する男?」

「誰もいやせんよ。あの男は石炭船にのって、もう帰ってしまったんだ。」

トッドの顔は一瞬に死人のようになった。

「おれたち二人だけか!」そうあえぐようにいったが、すぐまた心中の不安を隠そうとするかのように、「そんなら誰が船を返しに行くんだろう?」

「それはあとできめよう。それより箱のなかの物でもかたづけたらどうだ。」

そういいながら、ロークはしかめ面をして、回廊にでてきた。トッドは恐怖をうかべた目で彼をふりかえり、また逃げるように鉄梯子のほうへ行きかけた。

「かえれ!」

どなってロークは回廊を追っかけた。

だが、この時には、トッドは鉄の階段をおりていた。ロークが階段の上へ来た頃は、トッドは階段をおりて下の回廊に立っていた。だが、慌てて階段をおりたため、彼はそこでよろめいて、あやうく階段の手摺につかまったが、そのまに上からロークがおりてきた。トッドが鉄梯子の手摺をにぎると、ロークは後から彼の襟をむずとつかんだ。トッドが振りむくと、ロークは彼を殴りつけて罵った。トッドもなにか叫んだ。その拍子にナイフが宙をとんで下の船の船首倉に落ちた。

「この人殺しの悪魔め!」ロークは血のにじんだ手で相手の襟をつかんで、気味がわるいほど落着いた声でいった。「ナイフを使うのは相変らず上手なんだろう? どうしておれのことを喋ったか?」

「喋りゃせんよ。」トッドは息が切れるような声だった。「喋りゃせん。放してくれ、ローク。悪気はなかったんだよ。ただ――」

ふいに彼は片手をもぎとって、力まかせにロークの顔を突こうとしたが、ロークは彼の手を払いのけ、その手頸をつかんでぐいと押した。

トッドは二三歩後によろめき、あやうく梯子の穴の端で踏みとどまって、口を開け、目の玉がとびでるほど大きく目を見開いて、なにかに取りすがろうとして両手を振っていたが、次の瞬間、恐ろしい悲鳴をあげて穴に墜落し、途中で鉄筋の横棒に衝突して、また下の海に落ちていった。

たしかに鉄筋に頭を打ちつける音がしたに拘らず、不思議に彼は気絶しもしないで、水面に頭をもたげ、ばちゃばちゃもがいて、切れ切れの声で救いをもとめた。だが、ロークは大息をして歯をくいしばり、身動きもしなかった。はじめは頭をもたげて、しぶきを立てていたが、潮に流されて頭の形は次第に小さくなり、ついには救いをもとめる声も聞えなくなった。と思うと、霧のなかに黒い点のように見え隠れしていた頭が、またぽっかり浮かびあがって、死にぎわの最後の絶望的な悲鳴をあげ、霧笛はその叫声に答えるかのように、高く響いたが、頭はそれきり沈んで、二度と浮かびあがらなかった。そして、海の上におおいかぶさる恐ろしい沈黙のなかで、かすかなベルの音だけがいつまでも響いた。

ロークは立ったまま身動きもしないで考えた。遠くのほうから汽船の汽笛がきこえた。やがて潮は引くであろう。霧も晴れるであろう。下にはまだ船がつないである。一時も早くその船を処分しなければならぬ。船が燈台につくところは誰も見なかったはず。いまその船が下に繋いであるところは、誰にも見せてはならぬ。船を処分しさえすれば、トッドが来た証拠はなくなるのだ。

彼は鉄梯子をくだって、船の上におりた。処分の方法は簡単だった。船底には砂利の袋を積み重ねてあった。だからちょっと水を入れさえすればいいのだ。

彼は砂嚢をすこしばかり移動させて、床板をあげ、栓をぬいた。すぐ勢よく水が侵入しだした。しばらく水の噴出ぶりを観察して、すぐ沈没する見きわめがつくと、また船底に床板をおき、マストや帆桁が離ればなれにならぬよう、帆綱を横木に巻きつけ、船を鉄筋に繋いであった綱をといて、鉄梯子をあがった。

いちばん上の回廊にたって、潮に流される船を見ていた彼は、ふとトッドの木箱が残っていることに気がついた。それはまだ下の部屋にあるはずだった。いそいで彼は階段をかけおり、その箱をとりあげて、手摺のそばへよった。あたりを見廻すと、まだ霧は深々とたれこめて、付近を通る船の影は見えなかった。彼は箱を手摺の上に持ちあげ、ばさんと海に落した。浮かんで潮に漂って、船やトッドを追っかけるかと思っていたのに、その箱はすぐ沈んでしまった。彼はまた上の回廊にかえった。

霧が薄らいだので、流れていく船がおぼろにみえた。予期にはんして沈むまでの時間が長いので、不安を感じて望遠鏡をとった。もしいま誰かが船を発見したら厄介なことになろう。栓を抜いたまま漂流しているのを怪しまれたら、どんなことになるだろう?

じっとしていられないほど彼は心配だった。望遠鏡でのぞくと、今にも沈没しそうな状態で流れつつあるのに、まだデッキが少しばかり浮かんでいる。霧は刻一刻と薄れていく。

だしぬけにまぢかなところから船の汽笛が響いてきた。あわててぐるりを見まわしたが、汽船の影は見えなかった。また彼は望遠鏡で沈没しつつある船の影を追った。やがて彼は安堵の溜息をもらした。船が片一方に倒れたと思うと、ちょっとはげしく動揺して完全にかたむき、波が舷側の上ぶちを越した。

まもなく船は視界から消えた。ロークは望遠鏡をおろして大息をした。もう安心だ。船は沈んでしまった。彼は安全になったばかりではない。自由な身になった。

彼をいじめぬいた悪魔、生涯彼につきまとって、彼を威しつづけると思われた悪魔は消えてしまった。彼は生命と、行動と、歓楽にみちた広い世界の呼声をきいた。

霧はすっかり晴れた。明るい太陽が、赤い煙突のある家畜船を照した。いましがた彼をおびやかしたのは、この船の汽笛だったのだ。空と海に夏らしい青がよみがえった。そして水平線のはしにまた陸地が見えだした。

気も軽々と、彼は口笛を吹きながらなかにはいって、霧笛のモーターをとめた。それからトッドに投げてやった綱をたぐりあげた。そして救助をもとめる信号旗をだすと、また一人で楽しげに食事をはじめた。

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