四
私は、ロイド氏との話や、前に述べたベシーとアボットとの會話から推して、よくなりたいと望む動機たるに十分の希望を得た。變化が近づくやうに見えた――私は默つてそれを待ちこがれてゐた。けれどもそれは暇どつた。何日も何週間も過ぎた。私は、私の平常の健康を囘復したのに、私が考へてゐたそのことには、何らの新らしい暗示もなされなかつた。リード夫人は時々嚴しい眼つきで私をさぐり見たが、めつたに話しかけはしなかつた。私の病氣以來、彼女は、その子供たちと私との間に、前にもましてもつとはつきりした隔てをつけてしまつた。私がたつた獨りで眠る小部屋を私にあてがひ、食事も獨りぽつちでするやうにと云ひわたし、また私の從姉妹たちが、いつも客間で過してゐる時に、一日中私は子供部屋で過すようにと命じた。しかし、私を學校へやることについては、何のけはひも見せなかつた。けれど、それでも私は、彼女が、長く私と一つ屋根切れの下にゐるに堪へないのを、本能的にたしかに知つた。私の方へ向けられる時、彼女の一瞥は、いまは以前にもまして壓へ切れない、根強い憎惡を表はしてゐたから。
イライザとヂョウジアァナとは、明かに命令どほりに、出來るだけ私には話をしなかつた。ジョンは私に會ふ度に、頬を舌でふくらました。そして一遍は私を懲らさうとした。けれど、かつて私の惡徳を惹き起したことのある烈しい怒と必死の反抗と同じあの感情に動かされて、私が咄嗟に向きなほつた。すると、ジョンは止めた方が得だと考へて、呪ひを云ひ、私が彼の鼻を打ち碎いたと斷言して、私から走つていつた。私は、實際、拳が加へ得る限りのはげしい打撃を彼の鼻に狙つた。そのことか或は私の顏付が、彼を怯ますと知るや、私は勝に乘じてその上に、彼をやりこめようとした。しかし、彼は、もうとつくに母親のところにゐた。彼が泣き聲で「あのジエィン・エアの畜生」がまるで氣狂ひ猫のやうに自分に飛びついたんだと話し始めるのが聞えた。が、彼はむしろ荒つぽく遮ぎられた。
「あの子のことを、私にお話しぢやないよ、ジョン。あの子のそばへ行かないように云つておいたぢやないか。あの娘はとやかく云ふに足りないんだよ。私は、お前もお前の姉妹も、あんな子とつきあふのは、好まない。」
手すりに凭りかゝりながら、私は不意に呶鳴つた。自分の言葉をまるで考へもしないで――
「あんな子たちは、私とお仲間になれないのよ。」
リード夫人はむしろ肥つた女だつたが、この思ひがけない大膽な宣言を聞くと、彼女は素早く階段を駈け上つて、旋風のやうに、私を子供部屋につれこんだ。そして寢臺の縁に叩きつけて、激しい調子で、今日中そこから立てるなら立つてみよ、一言でも物が云へるなら云つて見ろときめつけた。
「リード伯父さまが何と仰しやるでせう、もし生きてゐらしたら。」殆んど自發的に云つた私の望みだつた。殆んど、自發的であつた。まるで私の舌は私の意志の同意を待たず喋べつたかのやうだつたから。何事かゞ私の口から出た。しかも私はそれを抑へることが出來なかつたのだ。
「何だと!」リード夫人は絶え入りさうに云つた。いつも冷やかな落着いた彼女の灰色の眼が、怯えたやうに混亂した。私の腕から手を引いて、私が子供なのか、それとも惡魔なのか、實際見當がつかないといふ風に私を見つめた。私はもう逃れつこはなかつた。
「リード伯父さまは天國にゐらつしやる。そしてあなたがすることや考へてることはみんなお分りになるんです。私の父さんだつて、母さんだつて分るんです。あなたが一日中私を閉ぢ込めたことも、あなたが私を死ねばいゝと思つてることもみんな知つてらつしやるんです。」
リード夫人は、間もなく氣をとり直した。彼女ははげしく私をゆすぶつて、兩耳を毆り、一言も云はず行つてしまつた。それから一時間もの間、ベシーがなが/\と説教をした。彼女は、屋根の下で育てられた子供の中で、私が一番性が惡く、無頼だと云つた。
私は、彼女の云ふことを半ば信じた。私は、實際、私の胸の中にたゞ惡い感情のみが波立つてゐるのを感じたから。
十一月と十二月と、一月の半ばも過ぎた。クリスマスとお正月がゲィツヘッド邸でも、いつものやうに樂しい喜びで祝はれた。贈物が交換され、晩餐會や夜會が催された。勿論私は總ての樂しみからのけものにされてゐた。私に分け與へられた娯樂は、たゞイライザとヂョウヂアァナの毎日の裝ひを見てゐることゝ、彼女等が薄いモスリンを着、赤い帶をしめ、髮を美しく縮らせて、客間へ降りて行くのを眺めてゐることだつた。その後はたゞ階下で奏でられるピアノかハァプの響きや、召使長や給仕が往來する足音や、茶菓が渡される時のコップや茶碗の響や、客間の扉が開閉する時の切れ/″\の話聲などに耳を澄ますことであつた。こんなことに飽きると、私は手摺から、淋しいひつそりした子供部屋に引込んだ。そこにゐれば何となく物悲しくはあつたが、私は慘めではなかつた。眞實を云へば、私はちつともお客の中に行く氣はなかつた。私は殆んど注意されなかつたからだ。だからもしベシーが親切で、つきあへたなら、紳士や淑女の一ぱいゐる室で、リード夫人のおそろしいまなざしを受けてゐるよりは、彼女と二人で毎夕を靜かに暮す方がよほど樂しかつたゞらうに。しかしベシーは、お孃さんに着物を着せてしまふと、たいてい蝋燭を持つてすぐに、明るいお勝手か、取締りの女の部屋へ、行つてしまふのだつた。そこで私は、人形を膝の上にのせて、火が消えかゝるまで、坐つてゐた。この薄暗い部屋には、自分自身よりも惡いものが出て來ないことを確めようと時々見まはしながら。燃え殘りの炭が鈍い赤色になると、紐や結び目をひつぱつて、手ばやく着物を脱ぎ、寒さと闇とからの避難所を私の寢床の中に求めるのだつた。この寢床にはいつもお人形をつれて行つた。人間は何ものかを愛さねばならぬ。だから私は、自分の愛情にもつとふさはしい相手がないから、小さな案山子のやうにぼろ/\になつた、色褪せた人形を愛することに、喜びを見出さうと努めた。生命や感覺があるやうに半ば考へながら、私がこの小さな玩具を、どんな馬鹿げた眞實で、溺愛してゐたかを、今思ひ出すことは難かしい。私は、それを、夜着の中に抱いてゐなければ寢られなかつた。さうして、そこで人形が安らかに暖かく寢てゐると、私は、人形も私と同じやうに嬉しいだらうと思つて、かなり嬉しかつた。お客の歸るのを待ち、ベシーが階段をのぼつて來る跫音を聽き澄ましてゐる間は、永い時間のやうに思はれた。時々、あひまに、彼女は、彼女の指輪や鋏を探し、またはひよつとすると私に夕飯として、なにか――甘ぱんだとかチーズのパイだとか――を持つてやつて來た。そんな時は私が食べる間寢床の上に坐つてゐて、私が食べてしまふと、私を蒲團で包み、二度接吻をして「おやすみなさい、ジエィンさん。」と云ふのが常であつた。こんなにやさしい時は、私にはベシーが世界中で一番立派な、美しい親切な人に見えた。そして、私は彼女がいつもこのやうに機嫌がよくてやさしくて、度々すぎるほど彼女がさうしたやうに私を押ししたり、叱つたり、法外に用をさせたりしないようにと希つた。ベシー・リイは確かに生まれつきよい才能をもつた娘だつた。何をしても手際よくやつたし、また話を面白く聞かせる骨をも心得てゐた。彼女のお伽噺から受けた印象によつて、少くとも私はさう考へる。顏や姿についての私の記憶が正確なら、彼女はまた美しくもあつた。私は、彼女が黒い髮と、くらい色の眼と、非常によい姿と、善良な明るい顏をもつた、すらりとした女だと覺えてゐる。しかし、彼女は氣まぐれで、せつかちで、道義とか正義とかにはまるで無頓着だつた。彼女はそんな風な人間だつたが、それでも私はゲィツヘッド莊で他の誰よりも彼女が好きであつた。
一月十五日、朝の九時頃だつた。ベシーは朝御飯に行つてゐた。從姉妹たちも、まだ母親の處に呼ばれてゐなかつた。イライザは、帽子を被り、温かい庭着を着て、彼女の家禽の處に行つて餌をやらうとしてゐた。その仕事を彼女は氣に入つてゐた。が、卵を女中頭に賣つて、その金を貯めるのもこれに劣らず好きだつた。彼女は、商賣氣があり貯蓄することが目立つて好きだつた。そのことは、卵や雛を賣ることで分るばかりでなく、花の根や種や小枝等を園丁に高く賣りつけることでも察しられた。その園丁は、彼女が自分の花壇で出來たものを賣らうと思ふ時は、いつでもそれを買ふやうにリード夫人から云ひつけられてゐたのだ。イライザは、もしそれで、いゝ儲けがあるなら、頭から自分の髮を賣り拂つてしまつたゞらう。そのお金はと云ふと、最初彼女はそれをぼろや古い縮らし紙にくるんで方々の隅つこに隱しておいた。しかし、その貯蓄が、二つ三つ女中に見付けられたので、イライザは、大事な彼女の寶が何時か無くなりやしないかと心配して、高い利子で――五割か六割の――母親にそれを預けることにした。彼女は、その計算を、非常に正確に、小さな帳簿に記入して、年四囘の囘收日に、その利子を嚴重に取り立てた。
高い腰掛に坐つて、ヂョウジアァナは鏡に向つて、髮を結つてゐた。屋根裏の抽斗の中で彼女が前にさがしておいた造花と色の褪せた羽根を捲き毛に編み込まうといふのだ。私は、ベシーが戻つて來るまでにきちんとして置くようにと、ベシーから嚴しい命令を受けて、寢臺を整へてゐた(今は、ベシーは、屡々私を小間使ひの下働きのやうに、部屋をかたづけたり、椅子の埃を拂つたりなどする爲めに使つた)。掛蒲團を擴げ、自分の寢着をたゝんでから、そこいらに散らかつてゐる繪本とお人形の家の道具をかたづけようと、窓ぎはに行つた。すると、ヂョウジアァナが自分は玩具はそのまゝにしておくようにと突然命令して、私の仕事を中止させた(その小さな椅子や、鏡や、美しい皿や茶碗は彼女のものだつたから)。それで他に仕事もなかつたので、私は、窓硝子に、花のやうに凍りついてゐる霜を息で解かしはじめた。かうして、硝子がすき透ると、そこから私は地面を見ることが出來た。そこには、激しい霜で、何もかもが、しんとして化石されてゐた。
この窓からは、門番の家と車道とが見えた。窓硝子の銀白色の曇りを、ちやうど外が眺められるほどに溶かした時、門が開け放たれて、馬車がそこを辷り込むのが見えた。私は、それが、車道をのぼつて來るのを、ぼんやり眺めてゐた。色々の馬車が、よくゲィツヘッドにやつて來たけれど、まだ一度も、私が興味を感じたお客さんを連れて來たことはなかつた。馬車が家の前に止まつて、呼鈴が音高く鳴り、訪問者は通された。こんなことは、みんな私にはつまらないものだつたので、私の虚ろな心は、小さな飢ゑた一羽の駒鳥の姿に、より生々と惹きつけられた。それは、窓の傍の壁に釘づけになつてゐる、葉の落ちた櫻の小枝にやつて來て啼いてゐたのだ。私の朝御飯のパンとミルクの殘りが卓子の上にあつた。卷パンの一片をこまかく碎いて、閾の上にパン屑をのせてやるつもりで、窓を開けようと窓框を力まかせに引つぱつてゐると、その時ベシーが階段を駈け上つて子供部屋に這入つて來た。
「ジエィンさん、前掛をおとりなさい。そこで何をしてらしたの。今朝お顏と手を洗ひましたか。」私は返辭をする前にもう一度窓框を引つぱつた。是非小鳥がパンを食べられるやうにしてやりたかつたから。窓は開いた。私はパン屑を撒いてやつた。石の閾の上にも櫻の枝の上にも落ちた。それから窓を閉ぢて私は返辭をした。
「いゝえ、ベシー、今やつとお掃除がすんだところなの。」
「厄介な、不注意な子だこと! そして、何をしてゐるの? すつかり眞赧になつてまるでおいたをしようとしてゐたやうぢやないの? 窓を開けて、何をするつもりだつたの?」
私は、返辭をしないで濟んだ。何故なら、ベシーは、とてもあわてゝゐて、云ひ譯を聞いてゐる暇もなさゝうだつた。彼女は、私を洗面臺に引つぱつていつて、石鹸と水と硬いタオルをとつて、無慈悲に、だけど幸ひにも簡單に、顏と手を摩擦した。剛毛のブラッシュで髮を撫でつけ、前掛を脱がせると、階段の際まで私をせき立てゝ、朝食堂で待つてゐるから、まつ直ぐ降りて行くようにと命じた。
さうでなかつたら、私は、誰が呼んでゐるのか、リード夫人がそこにゐるのかどうかを訊いたに違ひなかつたが、ベシーは、既にいつてしまつて、私の上には、子供部屋の扉が閉された。私は、ゆつくり階段を下りた。もうリード夫人の前に呼ばれなくなつてから、殆んど三月にもなる。そんなにも永い間、子供部屋へ拘束されてゐたので、朝食堂や食堂や客間は、そこへ侵入することが私を狼狽させるほど、私にとつて恐ろしい場處となつてゐた。
私は、人氣のない廊下に立つてゐた。私の前には、朝食堂の扉があつた。私は、怯え震へながら、立ち止つた。不法な處罰を受けての恐怖が、私をその頃、なんと、慘めな臆病者にしたことだらう! 私は子供部屋へ戻るのを怖れ、客間へ這入つていくのも怖かつた。十分間、私は、心をどきつかせながら、躊躇つて立つてゐた。朝食堂のけたゝましい呼鈴の音が、私を決心さした。もう這入るより仕方がない。
私は、兩手で、一二秒は云ふことをきかなかつた、かたい把手をしながら、「誰が呼んだのだらう?」と、心ん中で問うた。「部屋の中には、リード伯母さんの外に、誰がゐるのだらう?――男かしら、女かしら?」把手がつて、扉が開いた。室内へ進んでいつて、虔ましくお辭儀をして、私が見上げると、黒い柱――さう、少くとも一見、私にはさう見えた――眞直ぐな、幅の狹い、黒い着物を着たものが、敷物の上に棒立ちになつてゐた。その頭部に見える物凄い面相は、柱頭のつもりで、柱身の上に載せられた、彫刻の假面のやうであつた。
リード夫人は、爐邊のいつもの席に坐つてゐた。私に、彼女は、もつと近くに來るようにと、合圖した。私が近づくと、リード夫人は、その、石のやうな、未知の客に、次のやうな言葉で、私を紹介した。
「これが、あなたにお願ひした子供でございます。」
その人――男であつた――は、靜かに、私が立つてゐる方へ頭を向けて、毛の濃い眉毛の下に、きらめいてゐる灰色の疑ひぶかさうな眼で、じろりと私をさぐり見た。さうして、嚴かに、低音の聲で云つた。
「柄が小さいが、幾つですか?」
「十歳です。」
「そんなに?」といふ疑はしさうな返辭であつた。そこで、彼は、數分間、私をじろ/\眺めた。やがて私に話しかけた。
「お孃さん、あなたの名は?」
「ジエィン・エアです。」
かう云ひながら、私は、その男を見上げた。彼は非常に背の高い人に見えた。だが、その時は、私はずゐぶん小さかつたのだが。目鼻の大きな、そしてそれらと、體格のすべての線は荒々しく、しかつめらしかつた。
「ふん、ジエィン・エア、で、あなたはいゝ子かね。」
肯定して返辭することは出來なかつた。私の周圍の人たちは、みんな反對の意見を持つてゐた。私は默つてゐた。リード夫人は、私に代つて、意味あり氣に頭を振つて見せた。そして、直ぐ附け加へた。「ブロクルハーストさま、そのことは、申せば申すほど、わるくなりますの。」
「さうとはまつたく遺憾ですな、少しこの子と話し合つてみなければなりますまい。」で、彼は直立の姿勢だつたのを、少し屈めながら、リード夫人と差向ひの安樂椅子に腰かけた。「こゝへ來なさい。」と云つた。
私は敷物の上を横切つた。彼は私を自分の眞正面に立たせた。かうして、私の顏と彼の顏が殆んど同じ高さになつた時に、何んと云ふ顏で、それはあつたらう! 何んと偉大な鼻! 何んと云ふ口! 何んて尨大な突出した齒だらう!
「云ふことをきかない子を見るくらゐ悲しいことはない。殊に云ふことをきかない女の子はね。惡いものは死んでからどこへ行くか知つてるかね。」
「地獄へ行きます。」私は即座に正式の答へをした。
「地獄つて何んです。私に説明出來るか。」
「火が一面に燃えてる坑です。」
「それで、あなたは、その火の坑ん中へ落ちたいのですか。そして永遠に燒かれたいのですか。」
「いゝえ。」
「さうされない爲めには、あなたはどうしなければなりませんか?」
私は一寸ためらつた。答へが口に出た時に、それは、不都合なものであつた。「體を丈夫にして死なゝいようにしなければなりません。」
「どうしてあなたは丈夫でばかりゐられる? あなたより小さな子供でも毎日死んで行くよ。私は、ほんの一二日前に、たつた五つの子供のお葬式をした――おとなしいいゝ子だつた。今はもうその魂は天國にある。あなたがこの世から召されたとしても、その子と同じやうなことは、あなたには云はれないだらう。」
彼の疑惑を除く状態ではなかつたので、私は、敷物の上に植ゑつけられた二本の大きな脚に私の眼を落して、溜息をして、早く遠くにはなしてくれるように願つてゐた。
「その溜息は、あなたの心からのもので、あなたの恩人のお心にそはなかつたことを、あなたが悔悟してゐるのであれば結構だ。」
「恩人! 恩人!」と、私はお肚の中で叫んだ。「みんなが、リード夫人を私の恩人だと云つてゐる。もしさうだとすれば、恩人と云ふものは、いやなものだ。」
「朝晩、お祈りしますか。」私の訊問者はなほ續けた。
「えゝ。」
「聖書は讀みますか。」
「時々。」
「喜んで讀みますか。好きですか。」
「好きなのは默示録、ダニエルの本、創生記、サムエル、出埃及記の一部、列王記傳、ヨブ、ヨナです。」
「で、詩篇は? 好きでせうね?」
「いゝえ。」
「え、嫌ひ? ほう、驚いた! 私はあなたよりも年下の男の子があるが、その子は詩篇の中六つも諳誦してゐる。生姜パンを上げようか、それとも詩篇を覺えた方がいゝかと、訊くと、きつと『詩篇! 天使のうたふ詩篇、』と彼は云ふ。『私は地上の小さな天使になりたいんです。』だからその時には、子供らしい敬虔の念にむくいて、お菓子を二つ與へるんですよ。」
「詩篇は面白くありません。」と、私は云つた。
「それは、あなたがよくない心を持つてゐる證據だ。神さまにその心を變へていたゞくように、お祈りしなければなりません。――新らしい清らかな心を戴くように、その石の心を捨てゝ、肉の心を下さるように。」
どう云ふ風にして、私の魂を入れ替へられるのか、その方法に就いて、私は質問をしようとしたが、この時、リード夫人が横合から嘴を入れて、私に坐るようにと云つて、自分一人で話をすゝめた。
「ブロクルハーストさま。三週間前、差上げた手紙で、この子はとても私の望むやうな性格や性質を持つてないとお知らせしました。あなた、この子をローウッド學校にお入れ下さいませんか。校長先生始め先生方に嚴格な監視をしていたゞき、就中、この子の一番惡い癖、嘘をつくことを防いでいたゞけますなら、私は嬉しいんですが。ジエィン、私は、これを、お前がブロクルハーストさまを騙さないように、お前の聞いてるところで云ふのだよ。」
私がリード夫人を恐れるのも無理ではなかつた。嫌ふのも無理ではなかつた。殘酷に私を傷けるのが彼女の性質だつたから。彼女の前で、私は幸福だつたことはない。どれ程私が注意深く云ふことを聞いても、どれ程一生懸命彼女の氣に入らうと努めても、私の努力はなほ上に述べたやうな言葉ではねつけられ應酬された。かうして見知らぬ人の前で云はれた非難は、私の胸に突刺さるゝやうだつた。私は、彼女が私をこれから入れようとしてゐる新らしい生活から、私の希望を既にもぎとらうとしてゐるのを朧氣ながら判つた。その氣持ちを言ひ現すことは出來ないが、私は、彼女が私の行手の路に、嫌惡と不親切の種を蒔きつゝあると云ふことを感じた。私は、私自身がブロクルハーストの前に狡猾な邪惡な子とされてしまつてゐるのがわかつた。そして、この汚名を濯ぐ爲めに、私は一體何をすることが出來るのか?
「本當に、何んにもない。」と、私は、すゝり泣かうとするのを抑へつけようと力めながら、考へた。そして私の苦しみの無力な證據たる數滴の涙を急いで拭きとつた。
「人を騙すことは子供にとつて、悲しむべき缺點です。」とブロクルハースト氏は云つた。「それは嘘をつくのと同じだ。嘘つきはみな硫黄と業火に燃える湖に落ちなければなりません。兎に角リード夫人、この子を監督致させませう。テムプル先生にも他の教師にも云つて置きませう。」
「この子の行末に相應しい方法で教育していたゞきたうございます。」と私の恩人は言葉を續けた。「役に立つやうに、つゝましくなるように。休暇は、お願ひ出來るなら、いつもローウッドで、過すようにして下さい。」
「奧さん、あなたのお考へは至極結構です。」とブロクルハースト氏が答へた。「謙讓はキリスト教徒の美徳です。それは特にローウッドの生徒に相應しいものです。私はそれの涵養に特別の注意を拂ふやうに指導してゐます。私は生徒たちに虚榮心をどうすれば最もよく抑制できるかを研究してゐます。そしてついこの間も、私はその成功の喜ばしい證據を得ました。私の次女のオウガスタが母と學校へ行つてたが、歸つて來てからかう云つた。『ローウッドの生徒はどうしてあんなに靜かで質素なのでせう。髮を耳の後へ梳き上げて、長い前掛をして、麻布のポケットのついた着物を着て、――まるで貧乏人の子供みたいね!』それから彼女はかう云つた。『生徒たちは私とママの着物をまるで初めて絹の着物を見たやうに、珍らしさうに眺めてゐましたよ』と。」
「さう云ふやり方は、まつたく私、賛成ですわ。」
と、あのリード夫人が答へた。「英國中を私探しましたけど、これ以上ジエィン・エアみたいな子に相應しい學校は見つかりませんでしたわ。堅實、ねえ、ブロクルハーストさま――私はすべての中で堅實を重んじますの。」
「堅實は、キリスト教徒の第一の義務です、奧さん。そして、それがローウッド學校に關聯するあらゆる制度に見受けらられるところのものです。簡衣粗食、見得ばらぬ設備、不屈な活溌な習慣――これらが、私の學校及び生徒たちによつて、毎日守られてゐることです。」
「まつたくで御座います、先生。それで、私もこの子をローウッドの生徒としてお受けとり下さるようお任せいたします。そして、この子の境遇と行末とに應じて訓練されますように。」
「奧さん、承知いたしました、よりぬきの樹ばかりの植樹園にこの子を置いてあげます。やがてこの子もこの選ばれた高價な特權に對して感謝を現す時機が來るに相違ございません。」
「では、ブロクルハーストさま、なるべく早くこの子をお送りしませう、この煩はしい責任を私の肩からおとり下さるように、お任せしたくつて仕樣がないのですから。」
「いや奧さん、まつたくです、まつたくです。ぢや失禮申上げませう、私は一二週間うちに、ブロクルハースト學校に歸りませう。それより早くは友達の副監督が歸さないでせうからな。しかしテムプル先生に新入生が一人あると通告して置きますから、さうすれば、この子をいつでも引受けてくれるでせう。ではさやうなら。」
「さよなら、ブロクルハーストさま。奧さまにもお孃さまにも、それからオウガスタさんにも、テオドラさんにも、ブルウトン・ブロクルハーストさまにもよろしくね。」
「かしこまりました、奧さん。ぢやお孃さん、こゝに『子供の導き』と云ふ本があります。お祈りをして、よくお讀みなさい。特に嘘とごまかしで固まつたマルサ・ジイと云ふ強情な子供が、どうして急に死ぬかつてことが書いてあるところをお讀みなさい。」
この言葉と共にブロクルハースト氏は、私の手に表紙を綴ぢ付けた薄いパンフレットを呉れた。そして呼鈴を鳴らして、馬車を呼んで、歸つて行つた。
リード夫人と私が取り殘された。默つて數分間過ぎた。彼女は縫物をしてゐた。私はそれを見てゐた。リード夫人はその頃三十六七だつたらう。彼女は骨格の屈強な、肩の張つた、手足の頑丈な、脊の高くない、ぶく/\してはゐないが肥り肉の婦人だつた。稍大顏で、二重顎の下ががつしり發達してゐた。額は低くて、顎が大きく突出してゐた。口と鼻は尋常に整つてゐた。うすいまつ毛の下に、憐憫のない目がまたゝき、皮膚は黒く濁つてゐた、亞麻色に近い頭髮。鐘のやうに堅牢な體質――病氣も決して彼女に近づかない。几帳面な拔目ない管理者で、家族も小作人も完全に制御されてゐた。
子供だけが時として、母の權威を馬鹿にして、笑ひ飛ばして了つた。夫人はいゝ服裝をして、それを引き立てるやうな風采と態度を持つてゐた。
彼女の肱掛椅子から數碼離れた低い腰掛にかけさせられて、私は彼女の容子をまじ/\と眺め、顏付をうかゞつた。手には、嘘つきの急死の事を書いたパンフレットがあつた。その話がふさはしい忠告であるかのやうに、私の注意はその本の物語に注がれてゐた。たつた今起つたこと、私のことに就いて、リード夫人がブロクルハースト氏に告げたこと。彼等の會話の大體のあらましは生々しく、そして、私の心をちく/\刺してゐた。ひとつ/\の言葉は、あからさまに聽いてゐたと同じ鋭さで私に感じられた。さうして今私の心の中には憤怒の情が燃え立つてゐた。
リード夫人は仕事から目を上げた。私を見つめて、同時に忙しい縫ひ物の手を休めた。
「出ておくれ。子供部屋へお歸り。」それが彼女の命令であつた。私の顏付か態度か何かゞ、氣に障つたらしく、こらへてゐたが、ひどくいら/\とした調子で云つた。
私は、立ち上つて、戸口へ行つた。私はまたふたゝび元の場處へ戻つた。部屋を横切つて、窓際へ歩いていつた。それから彼女の身邊へ近づいた。
私にはどうしても云ひたいことがある、私はひどく踏みにじられた、私ははねかへさなければならない。でも、どんな方法で? 私の敵に復讐を投げつける爲めに、私は、どんな力を持つてゐるか? 私は元氣を振ひ立たして、この鈍い言葉で云ひ切つた。「私は人を騙しなんかしませんよ。そんなことが出來るなら、私はあなたが大好きだと云つたでせう。だけど、私はあなたを好かないと云ひます。ジョン・リードを除けば、世界中で誰よりもあなたが一番嫌ひです。嘘つきの話を書いたこの本は、あなたの子のヂョウジアァナにおやりになるがいゝわ、嘘を云ふのは、あの子で、私ぢやありませんから。」
リード夫人の手はまだ動かずに休んでゐた。
彼女の氷のやうな眼は、まだ凍りついたやうに私の眼を見つめてゐた。
「云ひたいことはそれでおしまいかい。」普通の人が聞いたら、とても子供に使ふ言葉とは思へない、まるで大人を相手にしてゐるやうな調子で、彼女は訊いた。
その眼は、その聲は、私のあらゆる反感を湧き立たせた。頭から足まで搖れ、抑へ切れない興奮に震へて、私は續けた。「私はあなたが私の親類でなくつてよかつたと思ひます。私は生きてる間、決して再びあなたを伯母さんとは呼びません。一人立ちをしたら、決してあなたなんかに會ひに來るものですか。人が、私があなたをどれだけ好いてゐたか、またあなたがどんなに私を取扱つたかを聞いたら、私はあなたのことを思つたゞけでも胸がわるくなると云つてやります。そして、あなたがお話しにならないやうな惨酷な目に遭はせたことを云つてやります。」
「どうしてそんな確い口がきけるの、ジエィン・エア。」
「どうしてかつて? リード夫人、どうしてかつて? それがほんたうのことだからです。あなたは私が感情を持たないものだと思ひ、愛も親切の切れつぱしもなしに暮せるものだと思つてゐらつしやる。だけど私はそれでは生きて行けません。あなたは憐れみを知らない、あなたがどんなに私を押し込んだか、どんなに無法に亂暴に私を赤いお部屋に押し込んで錠を下したか、私は死ぬ日まで忘れませんわ。私は悲しみに息を詰らせながら、苦しんではゐたけれども、泣いてはゐたけれど、伯母さま助けて下さい、助けて下さいつてお願ひしたぢやありませんか。それにあなたはあなたの息子が私を理由もなく打倒したと云ふので私に罰を與へたぢやありませんか、私は誰でもこの事を聞く人に本當の事を聞かせてやります。世間ではあなたを善良な婦人だと思ふでせう。だけどあなたは本當は意地の惡い無情な人です。あなたこそ人を騙してゐらつしやるのです。」
この返答の終らぬ中に、私の心は今まで曾つて持たなかつた自由と勝利の念にふくれ上り、初めて、喜びに躍つた。見えない束縛が破れて、思ひがけない自由の世界へ飛び出したやうな氣がした。と云ふのは、リード夫人は驚愕したやうに仕事を膝からずり落し、兩手を額へあてゝ、體を前後にゆすぶりながら、泣き出しさうに顏をしかめたのだ。
「ジエィン、お前は間違へてるよ。一體どうしたの、どうしてさうぶる/\震へてゐるの。水でも飮むかい。」
「いゝえ、飮みません、リード夫人。」
「まだ何かお話があつて? ジエィン、私はお前の友達になつて上げたいよ。」
「あなたに申上げることはありません。あなたは、ブロクルハーストさんに、私が性質の惡い子で人を騙すくせがあると云ひました。私は、ローウッド中の人にあなたがどんな人であるか、私にどんなことをしたか教へてやります。」
「ジエィン、お前は、はつきり事が解つてゐないのですよ。子供の惡いところは直して貰はなければいけません。」
「嘘なんて、私の缺點ではありません。」私は腹立ち紛れの甲高い聲で叫んだ。
「だけどお前は怒りつぽいよ、それはお前も一言もなからう。子供部屋へお歸り――いゝ子だから――そして、そこでしばらくお休み。」
「私はあなたのいゝ子ぢやありません。私は寢ることなんか出來ません。直ぐに學校へやつて下さい。私はこんな所に居るのはいやです。」
「さうだ、直ぐに學校へやらなければ。」と、リード夫人は低い聲で呟やいた。そして仕事を拾ひ上げると、あわたゞしく部屋を出ていつた。
私は、一人取殘された。戰場の勝者として。それは私の今まで戰つた中で一番激しい戰だつた。そして始めて獲た勝利であつた。私はブロクルハーストさんの立つてゐた敷物の上に、しばらくつゝ立つて征服者の孤獨の感を樂しんでゐた。最初自づと微笑が浮び、昂然と氣勢が上つた。しかし、この猛々しい喜びも、速まつてゐた脈搏が鎭まると同じ速さで鎭まつていつた。子供と云ふものは、私がしたやうにその年長者と爭ひ、また私がしたやうにはげしい感情をやけに働かせる時には、きつと後になつて、悔恨の苦しみと反動の肌寒さを經驗するものである。生物のやうにうごめき、きらめき、なめつくす野火に燒かれるヒースの山が、リード夫人を呪ひ脅迫した私の心の状態に、ぴつたり適合するに違ひない。炎の消えた後の黒くこげた同じ山が、そのまゝ、後の私の氣持ちを表してゐた。半時間沈默反省したとき、私の行爲が氣狂ひじみてゐたこと、そして自分からいやがる境遇と他からいやがられる境遇の慘めなことを、わかつた時の氣持ちを表してゐたらう。
私は何か香氣あるものをはじめて味つた。飮むと温くて、新鮮な香り高い酒のやうだつた。そして後味は酸つぱく、腐敗して毒を呑まされたやうな氣持ちだつた。リード夫人の許へかけつけて、許しを乞ひたい氣持ちで一杯だつた、しかし、半ばは經驗と半ばは本能から、その事は却つて二重の叱責を以て、彼女に私を排撃させ、そしてその爲めに私の生れつきの凡ゆる亂暴な衝動を興奮さすだけであると云ふことを知つてゐた。
出來ることなら毒々しい口を利くより、もつといゝ才を働かしたかつた。また陰慘な憤怒よりも、もつと人間らしい感情の糧が、發見したかつたらうに。私は本を――アラビア物語を――とり上げた、腰かけて、それに沒頭しようとした。その題目は、私には何の事かてんで解らなかつた。私自身の思ひは私と私がいつも魅せられるページとの間をさまよつてゐた。私は、朝食堂の硝子の扉を開けた。灌木林はまるで靜かであつた。日にも風にも溶けなかつた、草木もこほるほどの寒さが、邸内を支配して居つた。着物の裾で、頭と手を被つて、奧まつた木立の奧の方へ歩きに行つた。しづもりかへつた木も、結晶した秋の遺物――樅の實が落ちて來るのも風に吹きよせられて、かたまりついた腐つた葉つぱも、何もかもちつとも面白くなかつた。私は門にもたれて、羊の一匹も出てゐない、短い、いぢけた白茶けた草が生えてるばかしの人氣のない牧場を眺めた。灰色の陰鬱な日だつた。どんよりした空が「末は雪」になつて垂れかゝつた。空からは雪が時折ちら/\して、敷石道の上へ落ち、白つぽい野原の上に落ちて溶けもしなかつた。みじめな子は、何度も/\かう繰返して呟やいてゐた。「どうすればいゝのだらう。どうすればいゝのだらう。」
私は、たちまち、透きとほるやうな聲をきゝつけた。
「ジエィンさん、どこ? ごはんにいらつしやい。」
私にはベシーの聲だといふことがよく解つてゐたが、動かなかつた。彼女は、輕やかな歩調で、小路をこちらへ歩いて來た。
「強情ぱりな娘だね! どうして呼ばれたら來ないの。」
ベシーが來たので、私の今まで考へ續けてゐた氣持が一時に輕くなつた。しかし、彼女の機嫌はいつものやうに惡かつた。實は、私はリード夫人とぶつゝかつて、しかも勝つた後なので、保姆の一時の不機嫌等は大して氣にならなかつた。そして、いつもの通り彼女の心の若々しい明るさに浴したいと思つた。私はちよいと兩腕で彼女を抱いて、
「ね、叱らないでよ。」と云つた。
この行爲は常よりももつと自然に、こだはらずになされたので、彼女を少し喜ばせた。
「變な子ね、ジエィンさんは。」と彼女は私を見下しながら云つた。「小さな淋しくうろついてる子供。ね、學校へ行くのでしよ。」
私は肯いた。
「ベシーをおいてけぼりにして、悲しくないの?」
「ベシーが私のことを何とか思つてくれるかしら、叱つてばかしゐたのに。」
「あなたが風變りなおど/\した内氣な子だからよ、もう少し大膽にならなくちや。」
「まあ、もつとなぐられる爲めに?」
「まさか。だけど、あなたは、たしかにいぢめられ過ぎてるわよ。おつかさんも先週會ひに來た時、自分の子をあんな目に遭はせたくないと云つてゐたわ。さう、いゝしらせがあるわ。家へお這入んなさい。」
「そんなものがあるとは思へないわ。」
「この子は何を云ふの、悲しさうな顏をして見上げて。あのね、奧さまとお孃さま方とジョン・リードさまは、お茶の御招待で行かうとしてますから、私とあなたとお茶をいたゞきませう。コックに頼んで、あなたにお菓子を燒いて貰ふわ。そしてあなたの箪笥を調べるのを手傳つて頂戴。直ぐにあなたの荷作りをしなくちやならないのよ。奧さんはもう一日か二日の中に送り出すつもりよ。あなたの持つて行きたい玩具を選つていゝわ。」
「私が居る間は、もう叱らないつて約束する?」
「えゝ、叱らない。だけど、いゝ子にならなくつちや駄目よ。そして私をこはがつちや。少々物の云ひ方がひどくつても逃げちや駄目よ。それは本當に腹が立つんだから。」
「もうこはくないと思ふわ、ベシー、あんたに慣れたから。だけどまた別の人達がこはくなるだらう。」
「こはがつちや嫌はれますよ。」
「さう、ベシー、お前みたいに?」
「私はあなたを嫌つてゐませんわ。他の誰よりも好いてゐるつもりですわ。」
「ちつともそんな風はみせてくれないのに。」
「かしこい子。あなたは話し方がまるで變つて來たのね。どうしてさう思ひ切つたことが惜まず云へるやうになつたの。」
「どうしてつて、もう直ぐあなたにも別れる――、それに――」私とリード夫人との間に起つた事について何か話をしようかと思つたけれど、考へ直したらそのことについて默つてゐる方がいゝらしかつた。
「それぢや、私と別れるのが嬉しいの。」
「うゝん、ちつとも、ちつともよ、ベシー。今になつてみればむしろ悲しいわ。」
「まあ、今になればつて、むしろ悲しい方だつて。私の大事な小さいお孃さんは冷たいことを云ふわね。私が今接吻して頂戴と云つたら、きつといやだと云ふわね、むしろいやだつて。」
「喜んで接吻するわ。頭をかゞめてよ。」
ベシーはかゞんだ。私たちはお互に抱きあつた。私はすつかり愉快になつて、ベシーの後から家へ入つた。その午後は平穩無事に暮れて行つた。夜はベシーが彼女の知つてる中で最も面白い話をいくつか聞かせ、もつとも美妙なる歌を選んで歌つてくれた。私のやうなものにも人生には太陽のきらめきがあつた。