Chapter 1 of 3

黒ぐろとうちつづいた雑木林の間から流れ出る夜霧が、月光を浴びて乳色に白みながら見るまに濃度を加へて視野遠く広がつた農園の上を音もなく這ひ寄つて来る。梨畑が朦朧と煙つた白色の中に薄れてしまひ、つらなつた葡萄棚の輪廓が徐々に融かされてゆくと、はるか向うの薄暗く木立の群がつたあたりにちらちらと見えがくれする病舎や病棟の燈もぼんやりと光芒がただれて、眼のさき六七間の眼界を残したまま地上はただ乳白の一色に塗り潰されてしまふ。やがて湿気を吸ひ込んだ着物のすそにしつとりと重みを感じ始めると、のろのろと歩いてゐる素足にひやりと冷気を覚え、私は立停つて利根子の方にちらりと視線をやつた。彼女は二三歩ゆきすぎてから足を停めたが、さつきから頬をふくらませておこり続けてゐ、立停つても私の方を見ようともせず仄白くつつ立つたまま体を堅くしてゐる。声をかけて見ようと思つた気持もそれに圧さへられて、私は黙々とまた歩き出した。一体どうしてみづ江と私とが結婚することをこんなに強く利根子が望んでゐるのか、私にはまことに不可解であつた。みづ江に頼まれたのであらうかと一応は考へて見たが、みづ江の日頃の態度を考へて見ると、決してさうでないと思はれる。それでは私がみづ江を真実の心から愛してゐるものと思ひ込んでゐるのであらうか。或はまた、私とみづ江とがその一歩を超えた関係をもつてゐるとでも思つてゐるのであらうか。

むつつりと口を噤んだまま、私より五六歩あとになつて利根子は歩き出したが、不意に

「兄さん!」と鋭く呼びかけた。が私は足を停める気にもならず、霧を眺めながら歩いてゐると、彼女はばたばたと跫音を立てて私に追ひつき、

「あなたはあの人がどうなつても構はない、つて気持なの、他人の愛情を踏み躙るつてことが罪悪だとはお思ひにならないの。」とけしきばんだ口調である。それではやつぱり利根子は、私がみづ江と深い関係におちてゐるものと思ひ込んでゐるのか、しかしそれは誤りといふものだ。

「返事をなさる気もあなたにはないの。」

彼女はもう眼を光らせながらつめ寄って来た。

「お前のやうにさう昂奮ばかりしてゐてはどうにも困つてしまふぢやないか。」といひながら私は、堅く結んだ義妹の唇を眺めた。そしてこの療養所へ這入つてからの二ヶ年間の異常な生活にもあまり影響されず、昔ながらの一本気な素朴な激しさでものごとにうちかかつて行く彼女の性質に、私などの持ち得ない強いものを感じさせられた。がそれと同時に、素朴な一本気の故に彼女は意外なところで脆く敗れてしまひさうな危なさが私には感ぜられてならない。

「兄さんはわたしをからかつてゐるの? わたしがどんな気持ちでゐるか少しは判つてくれてもいいじゃないの!」

「そりやね利根、判る部分だけは判ってゐるつもりだよ。しかし兄さんの身になつて見ると、お前のやうに真直ぐにばかりは歩けないんだよ。横の方にも道はあるし――。」

「横にも?」

「ああ横にもだよ。それにこの道を歩かうと思ひつめてもなかなか歩けない場合が多いんだ。」

「どうして歩けないの? 邪魔になるものがあればどんどん踏み超えて行けばいいと思ふわ。覚悟さへはつきり定めたら、あとは方法だけが残つてゐるのよ。」

「そりやまあさういふ訳だが、しかし人間にはプライドといふものも大切だからね。

「プライド? あたしにはなんのことだか判らないわ。みづ江さんと結婚するつてことが兄さんのプライドを疵つけるとでもおつしやるの。」

彼女は幾分軽蔑するやうな調子でいふと、貌を上げて私を見た。仄白く浮き出た、豊な利根子の肩を眺めながら、私は今自分がとうてい女性には理解に困難であらう問題に触れたのを意識し、堅く閉された扉にぶつかつた罪人のやうな絶望感が心の中を通り過ぎるのを覚えた。するとみづ江の白い肉体が浮かんで消え、私は不意に今の自分の気持を利根子に全部話してしまひたい欲求にかられ出した。が、

「ばかだなあお前は。」といつてしまふと、もう語る気持もなくなり、またこの気持などいくら彼女の前に展げて見ても判りつこないに定つてゐるとも思はれて止した。がそのかはりに、

「しかし利根、お前はどうして僕とみづ江さんが恋愛関係になつてゐると信じ込んでゐるんだい? あの女にはちやんと定つた人があるんだぜ。お前だつてそれは知つてゐる筈だが。」といつて見た。すると彼女はぴたりと立停つて、殆ど叫ぶやうな声でいつた。

「どうしてさう兄さんは曖昧なことばかりいふの、わたしをだまさうとしてゐるの、にくらしいつたらありやしないわ。だからわたし男は嫌ひよ。ね、はつきりいつてちやうだい。定つた人つて紋吉さんでせう。無論わたしだつて知つてるわよ。兄さんはその紋吉さんにかかはつてゐるやうな人だつたの?」

「別段かかはつてゐる訳じやないさ。しかしみづ江さんを僕に盗られると紋ちやん首を吊つてしまふに定つてるよ。」

「そんなの問題ぢやないわ。」

「問題さ、人間が一匹死ぬんだからな。それに僕はなにもどうしてもみづ江さんでなくちやならんといふ理由はないし、そりやみづ江さんは好い女さ、しかし他にも……。」

「他にも愛してゐる人があるつていふの。」

「ある訳ぢやないが出来んとはいひ切れないよ。心理といふものは絶えず変転するものだ。」

彼女は急に黙り込んでしまつた。ひどく腹を立ててゐるらしいのである。と、どうしたのか不意に泣声が聞え出したので、

「どうしたい?」と不思議になつて訊くと、彼女は噛みつきでもするやうな声で、兄さんのばか! と叫んで一層激しく泣声を高め出した。どういふ変化が彼女の心を襲つたのか丸切り判らない。何にしても今夜の彼女は私にはどうも変に思はれてならなかつた。いつたい彼女は何時もむつつりと黙り込んでゐる性で、何事かを深く考へ続けてゐるやうにまなざしは自分の内部へ向つてさされてゐることが多いのである。もつとも、一度び考へが定まると男のやうに猪突するので、私も今まで何度となく吃驚させられて来たものであるが、しかし今夜の彼女の態度は、なんとなく何時もと違つてゐるやうに思はれてならぬ。するとふと私の心内に秋津大助の姿が浮んで来た。私は利根子がひそかに彼を愛してゐるのを知つてゐる。彼は大学の法科を中途で発病し退学してここへ這入つて来た男である。しかし未来の法学士となるべきだつた男とは思へぬ、詩人肌で、私は彼を大変尊敬してゐる。ではその秋津と利根子との間に何かいざこざが起つたので利根子の心理が何時もと異つた風に廻転してゐるのであらうか。といつてそれが何も私とみづ江とを一緒にしようとする努力になつて表はれる理由とはならぬ。私は結局判らなかつた。

「あなたは、兄さんは、わたしの気持がちつとも判つてくれないのね! 女の真剣な気持が少しも判らないのよ。」と彼女は声を顛はせながらいつて切ると、勝手になさい! と投げつけてばたばたともと来た道を引返し始めた。帰るのかい、と呼んで見たが返事をしようともしなかつた。

「利根!」と私は強く呼び、乳白色の中にはや半ば消えかかつた彼女の姿がくるりと飜るのを見ると、歩み寄りながら、お待ち、と重ねた。

「俺も帰らう――。」

しかし彼女は、

「勝手になさい、しらないわよ。あんたみたいに得手勝手なひとつてありやあしない。自分の病気のことだつて少しは考へたらよくはなくつて。あなたは何時までも今のままでゐられると思つてるの、あと五年もしないうちに盲目になるのは判つてるじやないの。盲目になつてもあなたは生きてゐられるの? 今やつてゐる仕事だつて出来はしないのよ。云はなくたつて判つてる筈だわ。今の仕事を捨てて生きる道があなたにあるの。あなたの苦しんでゐる姿をそのままわたしに見てゐられて? もうわたしはしらない。好きなことなさい?」

激しく突つかかるやうに叫んで彼女はまた足を返すと、もう霧の中深く駈け去つてしまつた。まだゆらいでゐる霧の奥を一度すかして見てから、私はぶらぶらと果樹園の中へ這入つて行つた。

恋か、

結婚か、

このレプロシイが――と私は呟いた。

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