Chapter 1 of 4

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死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた。

死人の家への道には、自動車の混雜が次第に増加して行つた。そしてそれは、その道幅が狹いために、各々の車は動いてゐる間よりも、停止してゐる間の方が長いくらゐにまでなつてゐた。

それは三月だつた。空氣はまだ冷たかつたが、もうそんなに呼吸しにくくはなかつた。いつのまにか、もの好きな群集がそれらの自動車を取り圍んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓に鼻をくつつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持主等が不安さうな、しかし舞踏會にでも行くときのやうな微笑を浮べて、彼等を見かへしてゐた。

さういふ硝子窓の一つのなかに、一人の貴婦人らしいのが、目を閉ぢたきり、頭を重たさうにクツシヨンに凭せながら、死人のやうになつてゐるのを見ると、

「あれは誰だらう?」

さう人々は囁き合つた。

それは細木と云ふ未亡人だつた。――それまでのどれより長いやうに思はれた自動車の停止が、その夫人をさういふ假死から蘇らせたやうに見えた。するとその夫人は自分の運轉手に何か言ひながら、ひとりでドアを開けて、車から降りてしまつた。丁度そのとき前方の車が動き出したため、彼女の車はそこに自分の持主を置いたまま、再び動き出して行つた。

それと殆ど同時に人々は見たのだつた。帽子もかぶらずに毛髮をくしやくしやにさせた一人の青年が、群集を押し分けるやうにして、そこに漂流物のやうに浮いたり沈んだりして見えるその夫人に近づいて行きながら、そしていかにも親しげに笑ひかけながら、彼女の腕をつかまへたのを――

その二人がやつとのことで群集の外に出たとき、細木夫人は自分が一人の見知らない青年の腕にほとんど靠れかかつてゐるのに、はじめて氣づいたやうだつた。彼女はその青年から腕を離すと、何か問ひたげな眼ざしを彼の上に投げながら、

「ありがたうございました」

と言つた。青年は、相手が自分を覺えてゐないらしいことに氣がつくと、すこし顏を赤らめながら答へた。

「僕、河野です」

その名前を聞いても夫人にはどうしても思ひ出されないらしいその青年の顏は、しかしその上品な顏立によつていくらか夫人を安心させたらしかつた。

「九鬼さんのお宅はもう近くでございますか」と夫人がきいた。

「ええ、すぐそこです」

さう答へながら青年は驚いたやうに相手をふりむいた。突然、彼女がそこに立ち止まつてしまつたのだ。

「あの、どこかこのへんに休むところはございませんかしら。なんだかすこし氣分が惡いものですから……」

青年はすぐその近くに一つの小さなカツフエを見つけた。――そのなかに彼等がはひつて見ると、しかしテエブルは埃のにほひがし、植木鉢は木の葉がすつかり灰色になつてゐた。それをいまさらのやうに青年は夫人のために氣にするやうに見えたけれど、夫人の方ではそれをそれほど氣にはしてゐないらしかつた。鉢植の木の葉の灰色なのは自分のかなしみのためのやうに思つて居るのかも知れぬと青年は考へた。

青年は夫人の顏色がいくらかよくなつたのを見ると、すこし吃りながら言つた。

「僕、ちよつとまだ用事がありますので……すぐまた參りますから……」

さうして彼は立ち上つた。

そこに一人ぎりになると、細木夫人はまた目をとぢて死人の眞似をした。

――まるで舞踏會かなんぞのやうなあの騷ぎは何といふことだらう。私にはとてもあの人達の中へはひつて行けさうもない。私はこのまま歸つてしまつた方がいい……

それにしても夫人はいまの青年の歸つてくるまで待つてゐようと思つた。何だかその青年に一度どこかで會つたこともあるやうな氣がし出したから。さう言へば何處かしら死んだ九鬼に似てゐるところがあると彼女は思つた。そしてその類似が彼女に一つの記憶を喚び起した。

數年前のことだつた。輕井澤のマンペイ・ホテルで偶然、彼女は九鬼に出會つたことがあつた。その時九鬼はひとりの十五ぐらゐの少年を連れてゐたが、彼はその少年にちがひないと思ひ出した。――その快活さうな少年を見ながら、彼女がすこし意地わるさうに、「あなたによく似てゐますわ。あなたのお子さんぢやありませんの?」さう言ふと、九鬼は何か反撥するやうな微笑をしたきり默りこんでしまつた。その時くらゐ九鬼が自分を憎んでゐるやうに思はれたことはない……

河野扁理は事實、その夫人の思ひ出のなかの少年なのだ。

扁理の方では、勿論、數年前、輕井澤で九鬼と一しよに出會つたその夫人のことを忘れてゐる筈はない。

その時、彼は十五であつた。

彼はまだ快活で、無邪氣な少年だつた。

九鬼が夫人をよほど好きなのではないかしらと思ひ出したのは、ずつと後のことだ。その當時は、ただ九鬼が夫人を心から尊敬してゐるらしいのだけが分つた。それがいつしか夫人を彼の犯し難い偶像にさせてゐた。ホテルでは、夫人の部屋は二階にあつて、向日葵の咲いてゐる中庭に面してゐた。そしてその部屋の中に、ほとんど一日中閉ぢこもつてゐた。そこへ一度もはひる機會のなかつた彼は、日向葵の下から、よくその部屋を見上げた。それは非常に神聖な、美しい、そして何か非現實なもののやうに思はれた。

そのホテルの部屋は、その後、彼の夢の中にしばしば現はれた。彼は夢の中では飛ぶことができた。そのおかげで、彼はその部屋の中を窓ガラスごしに見ることができた。それは夢毎にかならず裝飾を變へてゐた。或る時はイギリス風に、或る時は巴里風に。

彼は今年二十になつた。同じ夢を抱いて、前よりはすこし悲しさうに、すこし痩せて。

そしてさつきも、群集の間から、自動車のなかに死んだやうになつてゐる夫人をガラスごしに見たときは、彼は自分が歩きながら夢を見てゐるのではないかと信じたくらゐだつた……

告別式の混雜によつてすつかり死の感情を忘れさせられながら、その式場から歸つてきた扁理は、埃だらけのカツフエのなかに、再びその死の感情を夫人と共に發見した。

彼にはそれらのものが近づき難いやうに思はれた。そこでそれらに近づくために彼は出來るだけ悲しみを裝はうとした。だが、自分で氣のついてゐるよりずつと深いものだつた、彼自身の悲しみがそれを彼にうまくさせなかつた。そして愚かさうに、彼はそこに突立つてゐた。

「どうでしたか?」夫人が彼の方に顏をあげた。

「え、まだ大變な混雜です」彼はどぎまぎしながら答へた。

「では、私、もうあちらへお伺ひしないで、このまま歸りますわ……」

さう言ひながら夫人は自分の帶の間から小さな名刺を出してそれを彼に渡した。

「すつかりお見それして居りましたの……こんどお閑でしたら、宅へもお遊びにいらしつて下さいませ」

扁理は、自分が夫人に思ひ出されたことを知り、その上さういふ夫人からの申し出を聞くと、一そうどぎまぎしながら、何かしきりに自分もポケツトの中を探し出した。さうしてやつと一枚の名刺を取り出した。それは九鬼の名刺だつた。

「自分の名刺がありませんので……」さう言つて、もの怖ぢた子供のやうに微笑しながら、彼はその名刺を裏がへし、そこに

河野扁理といふ字を不恰好に書いた。

それを見ながら、さつきからこの青年と九鬼とは何處がこんなに似てゐるのだらうと考へてゐた細木夫人は、やつとその類似點を彼女獨特の方法で發見した。

――まるで九鬼を裏がへしにしたやうな青年だ。

このやうに、彼等が偶然出會ひ、そして彼等自身すら思ひもよらない速さで相手を互に理解し合つたのは、その見えない媒介者が或は死であつたからかも知れないのだ。

河野扁理には、細木夫人の發見したやうに、どこかに九鬼を裏がへしにしたといふ風がある。

容貌の點から言ふと彼にはあまり九鬼に似たところがない。むしろ對蹠的と言つていい位なものだ。だが、その對蹠がかへつて或る人々には彼等の精神的類似を目立たせるのだ。

九鬼はこの少年を非常に好きだつたらしい。それがこの少年をして彼の弱點を速かに理解させたのであらう。九鬼は自分の氣弱さを世間に見せまいとしてそれを獨特な皮肉でなければ現はすまいとした人だつた。九鬼はそれになかば成功したと言つていい。だが、彼自身の心の中に隱すことが出來れば出來るほど、その氣弱さは彼にはますます堪へ難いものになつて行つた。扁理はさういふ不幸を目の前に見てゐた。そして九鬼と同じやうな氣弱さを持つてゐた扁理は、そこで彼とは反對に、さういふ氣弱さを出來るだけ自分の表面に持ち出さうとしてゐた。彼がそれにどれだけ成功するかは、これからの問題だが。――

九鬼の突然の死は、勿論、この青年の心をめちやくちやにさせた。しかし、九鬼の不自然な死をも彼には極めて自然に思はせるやうな殘酷な方法で。

九鬼の死後、扁理はその遺族のものから頼まれて彼の藏書の整理をしだした。

毎日、黴臭い書庫の中にはひつたきり、彼は根氣よくその仕事をしてゐた。この仕事は彼の悲しみに氣に入つてゐるやうだつた。

或る日、彼は一册の古びた洋書の間に、何か古い手紙の切れつぱしのやうなものの挾まつてあるのを發見した。彼はそれを女の筆跡らしいと思つた。そしてそれを何氣なく讀んだ。もう一度讀みかへした。それからそれを注意深く元の場所にはさんで、なるたけ奧の方にその本を入れて置いた。覺えておくためにその表紙を見たら、それはメリメの書簡集だつた。

それからしばらく、彼は口癖のやうに繰り返してゐた。

――どちらが相手をより多く苦しますことが出來るか、私たちは試して見ませう……

夕方になると、扁理は自分のアパアトメントに歸へる。

彼の部屋は實によく散らかつてゐる。それは彼が毎日九鬼の書庫を整理するのと同じやうな根氣よさで、散らかしたもののやうに見える。――或る日、彼がその部屋へはひつて行くと、新聞とか雜誌とかネクタイとか薔薇とかパイプなどの堆積の上に、丁度水たまりの上に浮んだ石油のやうに、虹色になつて何かが浮んでゐるのを彼は發見した。

それは、よく見ると、一つの美しい封筒だつた。裏がへすと細木と書いてあつた。そしてその筆跡は彼にすぐこの間のメリメ書簡集のなかに發見した古手紙のそれを思ひ出させた。

彼は丁寧に封筒を切りながら、ひよいと老人のやうな微笑を浮べた。何も彼も知つてゐるんだと言つた風な……

――扁理はそんな風に二通りの微笑を使ひ分けるのだ。子供のやうな微笑と老人のやうな微笑と。つまり、他人に向つてするのと自分に向つてするのとを區別してゐたのだ。

そしてさういふ微笑のために、彼は自分の心を複雜なのだと信じてゐた。

扁理にとつて、細木夫人との二度目の面會が、その前のときよりもずつと深い心の状態においてなされたのは、さういふエピソオドのためだつた。細木夫人の部屋は、彼の夢とは異つて、裝飾などもすこぶる質素だつた。決してイギリス風でも、巴里風でもなかつた。そしてそれは彼に何となく一等船室のサロンを思はせた。

ときどき彼が船暈を感じてゐる人のやうな眼ざしを夫人の上に投げるのに注意するがいい。

だが扁理の心理をそんなに不安にさせてゐるのは、さういふ環境のためばかりではなしに、細木夫人とともに故人の思ひ出を語りながら、たえず相手の氣持について行かうとして、出來るだけ自分の年齡の上に背伸びをしてゐるためでもあつたのだ。

――この人もまた九鬼を愛してゐたのにちがひない、九鬼がこの人を愛してゐたやうに。と扁理は考へた。しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに觸れることが出來なかつたのだ。丁度ダイアモンドが硝子に觸れるとそれを傷つけずにはおかないやうに。そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでゐる……

さういふ考へがたえず扁理を彼の年齡の達することのできない處に持ち上げようとしてゐたのだ。

――やがて、ひとりの十七八の少女が客間のなかに入つてくるのを彼は見た。

彼はそれが夫人の娘の絹子であることを知つた。その少女は彼女の母にまだあんまり似てゐなかつた。それが彼に何となくその少女を氣に入らなく思はせた。

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