Chapter 1 of 3

「やあ綺麗だなあ……」

埃りまみれの靴の紐をほどきながら、ひよいと顏を上げた私は、さう思はずひとりごとを言つた。

崖ばらに一かたまり、何んの花だか、赤やら白やら咲きみだれてゐるのが、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。

「その躑躅でございませう? ――本當に今が見頃でございます……」

ひとりごとのやうに言つた私に、さう愛想よく答へたのは、一番末の妹らしい嬰兒をおぶつたまま私を出迎へてくれて、いま私の背後に立つてゐる、二十ぐらゐの素朴さうな娘だつたが、――即座に、これが友人の話の、と私は思つたけれど、その頃は私だつてそれと知つてその娘の顏を不躾けにまともから見られるやうなんぢやなかつた。……

「へえ、あれが躑躅!……」と私はさも感嘆したやうに言つた。

實際、躑躅なんて云ふ花は、東京の山ノ手線の停車場の崖ばらなどに散りぎは惡く何時までも咲いてゐる汚らしい奴ばかりだと思つて居たものだから、私にはその同じ花がこんなにも綺麗に咲くとはちよつと信じられない程だつた。――私はふと自分の身がいま邊鄙な山奧の温泉場にあることを思つた。さうしたら何んだか快いやうな切ない氣持になりだした。これがその旅愁と云ふものかしら。

何しろ私の生れて初めてと言つていい一人旅だつた。それをこんなにも山の奧まで長いことガタ馬車に搖られて來たんだものを。――と、私は東京から此處までの約半日がかりの旅路を思ひやつたのである。……丁度その日の三時頃、汽車が初夏の山へさしかかり、幾個も幾個も長々とした隧道をくぐり拔け出した時分には、それをひどく心許ながつて、もう一人でなんぞ旅に出て來たことを私は少からず後悔し出してゐた。――汽車はそんな私には無頓着に、隧道から青葉へ、それからまた隧道へと走りつづけてゐたが、その隧道と隧道との間隙を見つけては、あたかも噴水がほとばしるやうに、無數の青葉の簇りがまぶしい光を浴びながら、私の眼のなかへ躍り込む。それもはんの一瞬間きりで、すぐ又すべてはもとの暗黒のなかに消え立つてしまふ。――實は、私達だけがその隧道のなかに吸ひ込まれてしまふのだけれど、それが私にはさう見えぬ。何んだか私達と一緒に、それらの青葉までが隧道のなかに吸ひ込まれて行くやうな氣がする。そしてそれらの青葉らも隧道の外にあるのは私達と同じにごく僅かな間だけなので、その間に出來るかぎり多量の日光を吸收しようとして、それらは死物狂ひになつて身もだえしてゐるのではないかと思はれる位に、如何にも目まぐるしく、まぶしく私の眼に映るのだ。それらの青葉は又、私が窓ぎはで少し深い呼吸をする度毎にはげしく匂つた。それは隧道の中では一層はげしく匂ふやうだつた……

その日の暮れ方、私は山間の或る小さな驛に下りた。本線を何んとかいふ驛で輕便鐡道に乘り換へて、それから約一時間ばかり、その狹苦しい客車の中にちぢこまつてゐたので、私はすつかり身體中が痛くなつてゐた。だが、私の今夜泊る豫定の温泉地までは、更に二里ばかり乘合馬車に搖られて行かなければならないのだ。

それもすぐその乘合馬車が出てくれればいいのだが、もう二三十分待たなければそれが出ないと云ふのだ。どんな温泉地かは知らぬが、こんな思ひをして其處へ行くことが私にはなんだか莫迦莫迦しくなつて來た。よし今日はどうにかその温泉地まで行きついてたにしても、また明日、これと同じやうな思ひをして次ぎの温泉地へと再び出發するやうな氣持に果してなれるだらうか知らん? それにしても、あいつはよくこんな山の中に一年近くも辛抱して居られたなあ……と、私は三四日前、何處か一週間ばかり旅行するのにいい處は無いかしらと搜してゐた時、この半島の旅を私に教へてくれた一人の友人のことを思ひ出したのである。……ふん、分つたぞ。あいつはこの邊の景色のいいことだの、温泉のいいことだのを散々私に説いた擧句、どこそこの宿屋には可愛いい娘が居るなどと言ひ出して、しきりに私を煽動するから、――それぢや其處へ紹介状を書いてくれと言つたら、そんなものなんかと笑つて誤魔化してしまつたばかりか、仕舞ひには私が彼を知つてゐる事も何んだかその宿の者に言つて貰ひたくなささうな口吻だつたつけ。……今、その理由が分つた。大かた、金の事ではよく人を手こずらせる彼奴のことだから、そこの宿賃でも溜めてしまつて仕樣ことなしに一年近くもそんな山の中にくすぶつて居たのにちがひない。――こりあ飛んでもない奴に教はつて來たもんだなあ……

そんな風に私は乘合馬車の出發を待ち佗びながら、しばらくその驛の附近をぶらついてゐたが、そのうちに輕便鐡道の細い線路の横に、何んだか得體の知れない恰好をした菰被りの荷が、それも同じやうな奴が二個竝んで轉がつてゐるのに私は眼を止めた。其處へ丁度、一人の男が自轉車に乘つてやつて來て、それを重たさうにリア・カアに運び始めた。するとその時まで私と一緒にそれを物珍らしさうに眺めてゐた、そして矢張り私のやうに乘合の出るのを待つてゐるらしい、一人の湯治客らしい男が居たが、それがつかつかとそちらへ歩み寄つて、自轉車の男と何やら話し出した。私はその二人の對話をぼんやり聞くともなしに聞いてゐた。

「そりあ何んですね?」

「これかね? これは狐の御馳走でさあ」

「へえ、狐の? ……ぢや、何處かで狐でも飼つてゐると見えますね」

「ああ……この先きに養狐所があるがね……」

「養狐所? ……へえ、其處には何匹ぐらゐ居ます?」

「さあ、かれこれ百匹ぐらゐは居るかね……」

「そんなに? ……でも大丈夫なんですか」

「…………?」

「化かしやしませんか」

「はははツ……××××××」

最後の言葉は私によく聞きとれなかつた。しかし二人の男はその時聲を出して笑ひ合つた。何か私の解せない言葉でもつて卑猥な事をでも言つたのかも知れない。――旅びとが又聞いた。

「それは一體何んです。その菰被りは?」

「こいつは馬の足でさあ……」

さう言ひながら、その自轉車の男はその菰被りの荷を無造作にリア・カアに積んでゐた。

ふと立ち聞きしたそんな薄氣味の惡い話はますます私の心細さを募らせるばかりだつた。そんな山道の中途で、日でも暮れられてしまつては大變だ。何を一體愚圖愚圖してゐるんだらうと私は今更のやうに乘合馬車の方をうらめしさうに睨んだ。

そのうち漸つと乘合が出るといふ。乘合はそれでもかなり混んだ。だが旅の者らしいのはさつき自轉車の男に話しかけてゐた男とそれから私との二人きり。あとは土地の者ばかりらしい。私は馬車の一番奧の方に陣取つた。少しぐらゐ餘計搖すぶられても、此處の方がいつそ氣樂でいいから。

馬車はやがて川底に石の見えるやうな溪流に沿ひながら街道を走り出した。馬車から見える樹立はいづれも青々と茂つてゐたが、もう日の暮れに間もないので流石にその光り具合は弱々しくなつて居て、馬車がその木蔭を通る時は何んとなくひえびえとさへ感じられた。路傍にはところどころに農家らしいのが立つてゐた。――そのうちそれ等の一軒の前に夥しい人だかりのして居るのが私の眼に入つてくる。馬車がその方へ近づいて行くと、突然その群集の中から一人の男が飛び出してきて馬車の方へ救ひを求めるやうに兩手を擧げる。馬車が止まる。人殺しでもあつたのかしら? ……私はちよつと不安になる。その時人の環がさつと開いて、中から五六人の者が何か昂奮してがやがや話しながら出てくる。見ると、その中に一人、異樣に目を惹くやうな服裝をした若い娘がまじつてゐる。それは何んと意外なことに――花嫁すがたなのだ。おや、おや、この乘合に乘つてお嫁入りをするのかな? ……。けれど馬車が混んでゐるので、彼等は出入口のところでまごまごしてゐると見える。その間、一人のお婆さん(その花嫁の母親らしかつた)が窓の外から馬車の中をきよろきよろ覗いてゐたつけ、そのお婆さんが大きな聲でかう呶鳴つたものだ。「ハイカラさんの隣りが空いてゐるぞ!」それを聞くと私は殆んど反射的に車内を見まはした。ハイカラさんて? そんなのは一人も見あたらないではないか――が、私はやつとその意味を解する。何んだい、ハイカラさんてこの俺の事かい! ……私はちよつと苦笑する。洋服を着てゐるのはどうも私だけだ。だいぶくたくたになつた代物だが。成程、それでも、こんな田舍では珍らしいハイカラさんに違ひないや。……だが、その村の花嫁ごに私の隣りに坐られるのは、いささか閉口する。私はどうだつて構はないが、この私のスペイン製の赤いネクタイが文句を言ひかねない、――或る人に貰つたんだが、かういふネクタイは銀座のその店でしか賣つてゐないものと見えて、これを着けてその店の前を通る度にそこの店員が、私にではない、このネクタイにちよつとその目禮をするんだ。――一體どんな花嫁かはまだよく顏を見ないから知らないけれど、どうせ村の……だが、私は都合よくその花嫁ごと膝をならべずにすんだ。と言ふのは、その時まで上り口近くに腰をかけてゐた土地の者らしいのが氣を利かして、それへその席を讓つて、私のその隣りへ移つて來たので。さて、馬車にはその花嫁ごと父親らしいのとが二人だけ乘り込んだ。それからしばらく車の内と外で、やかましく喋舌り合つてゐたが、そのうち馬車は喇叭を鳴らして走り出した。

だいぶ馬車の中にはその父親と知合なのが乘つてゐたと見えて、それらの人達が、一齊に何やら甲高い聲で話し合ひ出した。強い訛りのある言葉なのでよく私には聞きとれない。が、いづれそのお嫁入りの事でも話題にしてゐるのだらう。そんな人々の中で、花嫁ごは小さくなつて、こちらには背を見せて、默つて腰かけてゐる。うしろ向きなのでよく分らぬが、恐らくにこりともしてゐまい。ひどく固くなつてゐるやうで、それになるたけ馬車に搖すぶられまいとしてゐるものだから、一層その姿勢が苦しさうに見えるので、私はその花嫁ごに少からず同情してゐた。――その間、馬車の中は絶えずざわめいてゐる。が、結局、その方がいい。馬車の中がへんに陰氣くさいのよりも。つい先刻まであんなに悄氣切つてゐた私までが、何んだかこのユウモラスな田園劇に一役――さう、「都會から來た青年」とでも云つた端役を買はされたやうな具合で、妙にはしやいだ氣分にさへなつて居るではないか。

私たちの馬車は、絶えずその左側に、川幅の次第に狹くなつてくる一つの溪流を見下ろしながら、それに沿うて走つて行く。街道もますます山道らしくなる。あぶなく何かの木の枝が私の頬にふれさうになる。ときをり私たちを恐れて飛び立つ小鳥がある。私にはその小鳥が馬車の窓から手づかみ出來さうに思へるくらゐだ。

やがて街道が二股に分れようとする。そこで馬車がちよつと止まる。花嫁の一行と、それから土地の者らしいのが二三人下りる。そのわかれ道のところには、數人の男がかたまつて立つてゐる。花嫁等を出迎へるために其處で待つてゐたものらしい。これから花嫁の一行は徒歩でこの山道を登つて行くのか知らん。私はとうとうその花嫁の顏をよく見ずにしまつたが。……

私が窓からほつとしたやうに彼女の勇敢な後姿を見送つてゐると、やがて喇叭が鳴つて馬車が動き出した。車の中は先刻から見ると、まるで火が消えたやうにひつそりしてゐる。道も急に山徑らしく、體温表のやうにジグザグしながら、かの流れはますます遙か下方に見下ろされてくる。もう日の暮れに間もあるまい。そのせゐか、あたりの風景はだんだんセピア色を帶びて來る。畑の中で夕日の最後の光らしいのを受けて一瞬間金色にひかる蜜柑を手にしてゐる子供等、蟹のやうな恰好をして片手に籠をかかへながら草を摘んでゐる娘等、馬車の窓から顏を出してゐる私に向つて何かを合圖しようとするかのやうにはげしい身振りをしてゐる大きな樹木等、――かう云ふやうな風景を今私は生れて初めて見るのにはちがひないが、なんだか今までにもこれとそつくり同じ風景を何處かで見たことがあるやうな氣がしてならぬ。私はこれとそつくり同じ風景を誰かの繪ででも見たのか知ら。それとも私は夢の中ででも見たのか知ら。――と、かういふ時に誰でもがなるやうに私もちよつと感傷的になつたが、私はふと、それらのすべては私の疲勞のせゐではないか知らと思ひ出した。何時だつたか物の本で、「視力が疲勞する時は物體が空間の中でと同じやうに時間の中でも二重に見えて來ることが屡ある」と云ふやうな意味のことを讀んだ時、前者の場合のやうなことは、――都會でよく疲れ切つて狹苦しい喫茶店などの、居心地のわるい椅子に腰を下ろしてゐる時など、そこの壁にかかつた額縁だの、花瓶だの、茶碗だのがぼんやり二重に見えてくるやうなことは自分の經驗で知つてゐたが、――今のやうな、かう云ふ、ふと思ひ出せさうでゐて妙に思ひ出せないやうな風景の感じは、この云ひ知れず切ないやうな感じは、或ひはその後者の場合のやうに、すべての事物が時間の中でぼんやり二重になつて感じられて來るのではないだらうか。今私が居るやうに、かうして走つてゐるガタ馬車の中では。……

日は遂に暮れた。私はふと車上から、とある一軒の山家のなかで一人の老婆がランプらしいものを掃除して居るのを見かけた。それは確かに昔ながらのランプらしかつたが、この邊にはまだ電氣さへ來てゐないのかしら。とすると今夜私の泊らうとしてゐる宿屋にも……?

馬車が止まつた。私は二三人の者と一緒にそれを下りた。私は人に教へられた通りに、街道からちよつと横にそれて、急勾配の坂をずんずん下りて行くと、その突きあたりが友人から名前を聞いてゐた温泉宿だつた。そのうす暗い玄關の板敷にどつかと腰を下ろして、靴の紐をほどきにかかりながら、私がひよいと顏を上げると、今私の下りて來た崖ばらに、思ひがけなく綺麗な花が、白だの赤だの、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。……

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