Chapter 1 of 4

おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。

淺間根腰の宿場の一つとしての、瓦解前の繁榮にひきかへ、今は吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大きな二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。しかもそのなかには半ば廢屋になりながら、まだ人の棲んでゐるのがあつたり、さすがにもう人が棲まずになり、やぶれた床の下を水だけがもとの儘せせらぎの音を立てて流れてゐるやうなのも雜じつてゐた。

村の西のはづれには、大名も下乘したといはれる、桝形の石積がいまもわづかに殘つてゐる。

その少し先きのところで、街道が二つに分かれ、一つは北國街道となりそのまま林のなかへ、もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾までひろがつてゐる佐久の平を見下ろしながら中山道となつて低くなつてゆく。そこのあたりが、この村を印象ぶかいものにさせてゐる、「分去れ」である。

その分去れのあたり、いまだに昔の松竝木らしいものが殘つてゐたり、供養塔などがいくつも立つたりしてゐる。秋晴れの日などに、かすかに煙を立ててゐる火の山をぼんやり眺めながら、貧しい旅びとらしいものがそこに休んでゐる姿を今でもときどき見かけることもあるのだつた。

おえふの生れた家、牡丹屋は、もとはこの宿の本陣だつた。何もかも昔のつくりで、二階はいかめしい出格子になり、軒さきに突きでた木彫りの蒼龍にも、まだ古さびた色が何處やらに、ぼんやりと殘つてゐた。……

おえふたちは小さいときから、この生れた家を離れたきりでゐたのだつた。――もともと、おえふの父の草平といふ人は、郡はおなじでも、ここから五里ほど離れた或村の赤屋敷といはれてゐる舊家の出で、牡丹屋とは血つづきだつたが、此の村の人ではなかつた。が、明治のはじめ頃にその牡丹屋の主人がまだ稚い子を殘して亡くなると、後見に頼まれて、瓦解以來何度も倒れさうになつてゐたその世帶を引き受けることになつた。しかし、牡丹屋は、――といふより、この古い宿全體がいよいよいけなくなるばかりだつた。――そこへ鐵道が出來た。が、村は素通りをされる。――おえふの父の、草平は、その預つてゐる牡丹屋をみすみすその儘仆れるのにまかせてゐるときではないと思つた。そこで自分の一存で、隣村の原野のまんなかに出來た停車場の前へ、率先して、牡丹屋の裏にあつた厩舍をそつくりそのまま移した。さうしてそこで蕎麥を賣り、汽車辨を一手にまかなつた。それが見事にあたつて、牡丹屋は徐々に立ちなほり出した。

おえふも、弟の五郎も、その驛前にできた新店から、たつつけ姿で、舊道のはうにある寺を校舍にした小學校へかよつた。

そこの村も村で、それまではほかの宿場とおなじやうな運命をたどつて、ひどく衰へ、みるかげもない一古驛となり果ててゐた。が、その村のなかに停車場のできるのと前後して、そこいら一帶の風物がそのすこし前から日本の各地に夏を過ごす高原を搜してゐた外人の宣教師たちの目がねにかなつて、夏だけ、そこに風變りな部落がいつのまにか出來るやうになつてゐた。

おえふは弟たちと寺の小學校にかよひながら、さういふ村の急激な變化を、――村のあちこちに紅殼塗りの小屋が急にたち、萵苣やキャベツなどの畑ができ、又、その近くに牛や羊の飼はれてゐる牧柵などができてゆくのを、何か目をみはるやうな驚きと、一種の憧がれをさへもつて見てゐた。しかし、それも夏のあひだだけのことで、冬になると、おえふたちは又いかにも山の中の娘らしい娘に立ちかへつてゐた。

おえふが年頃になると、その村の蔦ホテルから、突然、長男の娵にと懇望された。

大體、その蔦ホテルといふのは、もうその頃は村の北方にある森の中にいかにも山のホテルらしいものになつてゐたが、ついその前までは、舊道のなかほどにあつたほんの小さな蔦屋といふ旅籠屋だつた。――若い頃村を飛び出して、靜岡あたりで傳道師をしてゐた當主の耕作は、このごろ自分の郷里が外人のおほく集つてくる避暑地として拓かれだしてゐるのを知ると、こんな事をして妻子をかかへながらうろうろしてゐるよりはと、自分の家に戻つてきて、そこで日曜學校をひらき、かたはら英語がすこし話せるので通譯などをやつてゐた。そのうちに知合の外人たちに頼まれて、自分の家にも二人三人泊めるやうになり、その客たちにいろいろ教はつて、疊の上に花の模樣のあるうすべりを敷いたり、繩でベッドを編んだりすることを覺え、だんだんホテルらしい恰好になつて來はじめてゐた。

そのうちに好いパトロンが見つかつた。獨逸人の寡婦で、二三度泊りに來てゐるうちに、この村がすつかり氣に入り、本氣でホテルをやる氣があるなら金を出してやるから此處にもつといいホテルをつくつてはどうだと、向うから言ひ出した。そこで、その獨逸婦人の提案で、村の北にある小ぢんまりとした森のなかに場所を選んで、そこにともかくもさうしたホテルらしいものを建てた。さうしてそれから數年のうちに、ずんずん發展して、そのうち本陣でもやりはじめたホテルを凌駕して、村で一流のホテルになつてゐた。

ただ、さうやつて稼業のはうは一番工合のいいホテルになつてはゐた。――だが、この狹い山のなかの村、ことに古い家柄のものをいふ此の村では、なんとしても蔦屋の一家は家柄が惡かつた。同じ稼業をしてゐる本陣とは、何かにつけ、とても太刀打ちできなかつた。……そこで長男の娵として、牡丹屋のおえふが眞先きに選ばれた。牡丹屋といへば、いまでこそ昔ほどの羽ぶりは利かなかつたが、隣りの村の本陣。――そしておえふの父の草平は、たとへ本家すぢではないとはいへ、いろいろ牡丹屋のためにも、村のためにも盡してきた人で、いまではもう押しも押されないその村の顏役になつてゐた。

おえふが、親の云ふなりになつて、蔦ホテルに嫁いでいつたのは、明治の末、かの女が十九の春だつた。……

結婚して一年。――おえふは、はじめて出來た子の初枝を生みに、母親のもとに歸つてくると、そのままどうしてももうホテルに戻らうとはしなかつた。理由はなんとも云はなかつた。それを云つても、誰にも分かつてもらへさうもないから、一そ云はずにゐようと思ひ込んでゐるやうな容子だつた。……

おえふは、それまでとは打つて變つて、急に勝氣な女になつた。誰になんと云はれようと平氣なやうに、店さきなどで背なかにした初枝をあやしてゐるおえふの姿は、いかにも屈託なささうに見えた。

さうしておえふの父がいままで面倒をみて相當のものに仕上げた驛前の店を、もう成人した本家のあととりに讓つて、それと入れ代つて、隣りの村のもとの牡丹屋に隱居をすることになつたとき、おえふも初枝を連れてそちらへ一しよに往つた。さうしてそれきり遂にホテルへは戻らなかつた。

弟の五郎は、それを機會に、東京に出た。

おえふは初枝を漸くふところから離せるやうになつた頃、ホテルでは草津の有名な温泉旅館からそこの評判娘を娵にしたといふ噂を耳にした。

が、それからまだ一年と立たないうちに、その娵も離縁になつたことを知つても、おえふはもうなんとも思はないやうになつてゐた。一たん詮めると、かうも氣が強くなれるものかとおもはれるほど、かの女は全くいまの境涯に安んじてゐるやうにさへ見えた。さうして、そこいらの村の女たちと同じやうになりふり構はない容子をしてゐたが、さすがに何處か品があり、それがかへつてかの女のまはりに一抹の淋しさを漂はせてゐたことはゐた、――が、そんな事にも無頓着らしく、いかにも何氣なささうにしてゐるおえふには、ああ不しあはせな女だと人々に云はせないやうなものがあつた。

こちらの舊牡丹屋は、もうながいこと廢業同樣になつてゐたが、おえふたちが移つて來てから、夏など人に頼まれて學生を二人三人預かつてゐるうちに、それからそれへと聞きつたへて、夏休みになると學生たちが行李に一ぱい本を詰めて勉強に來だした。そのうち、村の南にある谷間に夏場だけの假停車場ができ、使ひ古しの乘合馬車が一臺きりで、松林の中を伐りひらいた道をとほり、そこと宿との間を往復するやうになつた。

おえふはその夏のあひだ、學生の世話を一人で引き受け、小女などを相手に、昔の自分に立ち返つたやうに、赤い襷がけで娘らしく立ち働いた。年よりもずつと若く見せてゐるおえふの美貌は、學生たちの間に、何かと噂の種を播いてゐた。しかし、おえふはそんな事にはいつかう氣もとめず、身なりかまはずに働いてゐるばかりだつた。さうして夏だけ手つだひに歸つてきてゐる弟の五郎などに何かぞんざいにものを云つてゐるときなどは、これがあのおえふさんかと思ふほど、きびきびしたものの云ひ方をしてゐた。

或る夏の半ばのことだつた。おえふが小女と一しよに流しもとで働いてゐると、丁度日ざかりなのでさつきから人けの絶えてゐる街道のはうに、急に人影がみとめられた。見てみると、三村さんの奧さんと、娘の菜穗子と、もう一人、見かけたことのない、背がたかくて、疲れたやうな、痩せた男との三人づれだつた。三村夫人はふと日傘の中からおえふと目を合はせると、何か見られたくないやうに、無言で會釋をして、すうつと通り過ぎていつた。おえふはさういふ夫人の容子に何か異樣なものを感じた。そのときその連れの背のたかい男は菜穗子とならんで、家の前に立ち止まり、軒さきに突きでた龍の彫りものなどをまぶしさうに見上げてゐたが、ふと家の中から夫人と會釋をかはしたおえふの姿に目をとめると、何か意外なやうな目ざしでかの女の方をじつと見た。が、そのまま菜穗子に何か話しかけられて、もう一度軒のはうへ顏をあげながら、そこから歩き去つた。

こんな山國にはこんな女もゐるのか、――その人の目はさう云つてゐた。おえふはそんな鋭どい目ざしでこれまでつひぞ人に見られたことがないやうに思つた。

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