Chapter 1 of 5

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時正に倫敦に於ては冬期の宴会騒ぎが今を盛りの真最中、いつもながら当代流行の魁を行かうといふ連中が先きに立つて彼方此方でさまざまな宴会を催してゐる折から偶その中へ一人の貴族が現れた。貴族とは云へ、彼はそんな身分よりも寧ろ一風変り者だといふ点で人目を惹いてゐた。面白可笑しい周囲の歓楽の中に雑りながら自分だけはそんな仲間に加はることは出来ないと云つたやうな様子をなしてただ四下のさざめきにじつと見惚れてゐるのであつた。彼のこんな様子が、思慮分別などはさらりと棄ててただもうたわいもない歓楽に酔ひ痴れた人達の胸に怖気を与へたことは云ふまでもない。女達などは彼に一と目ぢろりと見られると鳴りをひそめてしまふ程であつたがその実彼が陽気な女の笑声などに気を配つてゐるこの態度には、見たところ傍にそんな思ひをさせたいと努めてしてゐるやうなところもないではなかつた。しかしこんな畏怖に打たれた人達も、それが果して彼のどんな点から来るものかそれをはつきり説明することは出来なかつた。或者はそれは死人のやうな灰色の彼の眼――相手の顔をしげしげ打戍る時の、それはしかし別段骨身に応えるほどの眼付でもなかつたし、またたつた一目で相手の腹の底を見破るといふ程のものとも思はれなかつたが、しかし何となく肌に重たく圧しかかる鉛色の光を放つて頬に浴せかけられるあの眼のせゐだと云つたものもあつた。とにかく一風変りものであるがために、彼は方々の家へ招かれて行つた。人々は皆彼を見たがり、又強烈な刺戟に慣れて今では退屈の重さに耐へかねてゐる人達は、現前に注意を惹くに足るものの出来たのを喜んだ。その死人のやうな濁つた彼の顔色は曾て羞恥の心からも心頭に発した激情のためにも血の気ひとつ上つたことはあるまいと思はれる色合はしてゐたけれど、しかし目鼻立ちや輪郭はさすがに美しかつたので許多の浮気女どもはその道に名うてな誰れ彼れに倣つてひとつ彼の気を引いて見てやろう、せめては情のそぶりぐらゐでもいいから彼からせしめてくれようと企てた。マーサー夫人――結婚以来客間に現はれてこの奇異な人物の愚弄の的になつてゐた例のマーサー夫人ごときも大分それに肩を入れてひとつ香具師の衣裳を着て彼の気を引いて見ようとした。……が御苦労千万……と云ふのは彼女はそれを身につけて彼の前に立つた時彼の目は明らかに彼女の目と見合したものであつたのに、それでも彼は彼女を認めぬ体であつた。……さすがに物怖ぢしない図々し屋もこれには角を折つて降参してしまつた。勿論普通ざらにある男たらしの女などは彼を見向かせることさへ出来なかつたのは云ふまでもない。しかし、さらば彼は女といふものに対してまるで無関心であつたかと云ふに決してさに非ず。貞淑な人妻やまだ何も知らぬうぶな生娘などに対すると非常に慎重なとりなしで話をしてゐた。ただ彼はさう云ふ女たちに対しても、自分からは話しかけなかつた。けれども喋らせてみればその弁舌はどうしてなかなか人を惹きつけるものがあるとの評判であつた。それは弁舌が特異な彼の怖ろしい性格を抑制したがためか、或は悪徳を忌む彼の著しい嫌悪感が聞くものをして感動せしむるの故か。何れにしても彼は、女の家庭生活を悪徳を以て汚す男達の中にも交はつてゐたと同時に、家庭的な淑徳を身の誇りとしてゐる婦人達の仲間にも加はつてゐたのである。

これと時を同じくして、恰もこの頃同じく倫敦へオーブレイといふ少年の紳士がやつて来た。彼はたつた一人の妹と早くに親に死に別れた身なし児で、子供の時分に世を去つた両親が遺して置いてくれた巨額の財産を持つてゐる人物であつた。その財産を何くれとなく世話することを主人に対する唯一の忠義立と心得てゐる後見人がいまだに彼には幾人もついてゐて、その後見人たちに彼は金動で働く家の子たちの世話責任を一切まかせてゐるうちに、次でに彼は分別を養ふことより、どちらかと云ふと、あの婦人帽子屋の見習職人には禁物だといふ廉恥と公明との信念に富む浪漫的精神を養ふやうになつて行つた。彼は万人を救ふものは徳望だと信じてゐた。世の中の悪徳などゝいふものは、あれは小説によくあるが如く、神がこの世の色どりにもと下し置かれたものだと考へてゐた。われ/\人間の住んでゐるいぶせき小屋のみじめさは着物で云へば胴着のやうなもので、暖を取りさへすれば事足れりとすべきもの。しかもその皺だらけな襞や色とりどりな継ぎ当ては画匠の見界によつて都合よく美化されてゐるのだと彼は考へてゐた。要するに彼は、詩人の夢が人生の現実であると考へてゐたのである。彼は男振りよく、竹を割つたやうな気立、その上に金はあると来た。こんなわけ合ひだから、彼が陽気な空気のなかへ入つて行つたりすると、方々の母親たちが彼を取囲んで、うちの娘は物憂れたげな落着いた娘だことの、うちのは少しお転婆だことのと、あることないこと搗き交ぜて喋り出す。娘達の方はまた冴え冴えとした顔つきで彼に近づき、彼が口を開きでもすると、瞳を耀かせて彼の才幹美質とは見当外れた見界へ引込んでしまふのであつた。もと孤独を好み孤独の時の空想を愛する彼ではあつたけれど、このやうな次第でこのごろやうやく牛脂や蜜蝋の蝋燭の灯のまたたき――それとて別に幽霊が出るからといふ訳でもなく、たかゞ芯を切らなかつたからまたゝくのであるがこの揺曳する灯影の間にゐるのが精々でこの世の中には、日頃自分が勉強した書物の中の記述や面白いと思つた画などいかほど積み重ねてみても現実世界に於ては何等の根拠もなかつたことに気づいて礑と愕いてしまつた。しかし彼は己れの増長するに任せた自尊心のうちにその補ひを求めて儚い夢の一切を断念しようとした。その矢先に、彼の出世の道で出会つたのがこの物語の初めに於て述べたあの不可思議な一人物である。

彼はあの人物をまじ/\と打眺めてみたが、体のうちにすべて吸収し尽してゐるものか外部には殆どしるしらしいものを現はしてゐないこの人物の性格に対して彼は観念らしい観念を捉へることが出来なかつた。この事実は双方暗黙の間に認め合ふと云ふより、寧ろ双方の接触を避けしめると云つた意味合ひを含んでゐた。そこで彼は例の如き傾向の想像を馳せて好んで途方もない考へをいろいろ描いてゐるうちに、やがて彼は相手を一個のロオマンスの中の主人公に仕立てゝさて自分の目の前のこの人をといふよりも寧ろ自分の空想の栄え行く果を見究めようと決心をした。彼は次第にその人と近づきになり、さうしてその間、怠なき注意をこの人に払つて彼の知遇を得るために努めたので、相手の態度だけはいつも見逃さないだけになつた。そのうちに彼は相手のルスヴン卿がどうやらこつちを煙たがつてゐるらしい様子にぼつぼつ気がついて来た。やがて或る日――街で支度の覚え書きを見たことから、その人が旅に出掛けようとしてゐるのを知つた。そこで彼は今まではほんの自分の好奇心を煽つてゐたに過ぎないこの不可解な人物に関して何か知識を得るよすがになると喜び勇んで早速後見人の許へ自分は今度旅に出かけることになつたからと、事に託して暗に通告をしてやつた――無論この頃は若者たちをして年寄連と対等にならせるには悪い事も大駆け足で体験させるために、さうして醜悪な密通事件の際に、示された手際の程度如何に従つて冗談や賞讃の主題として話される場合に、いつも彼等若者をして恰も空から落ちて来たかのやうに振舞ふことなからしめんがために旅行は必要なものとして数代の間考へられてゐたので後見人たちは直ぐに承知した。そこでオーブレイは早速ルスヴン卿にその意嚮を述べた。ところが驚いたことには、卿の方から是非とも彼に同行して欲しいとの申出があつたのである。明らかに誰が見ても常人とは同一視出来ぬ卿の如き人物から見込まれたのだから彼はすつかり喜んでそれを受諾し、さて日ならずして彼等は逆巻く潮路へ出で向つた。

今までオーブレイはおち/\とルスヴン卿の性格を研究する機会とてはなかつたのであつたが今度といふ今度彼は初めて分つた。いろ/\な行状が彼の目の前に曝露された。彼の行為の動機はその結果からこれを見ると、大分違つた結論を与へられてゐた。この同行者の磊落虚坦な点である。それは実に大雑把であつた。……怠堕無頼の徒や浮浪の輩は、己れの当座の饑餓を満たすに充分以上のものを彼の手から獲ることは出来た。けれどもこれは徳義心から出たものではなささうであつた。言ふまでもなく打続く不幸の為めに徳に厚い人の身にも赤貧の見舞ふ例はいくらでもあることなのに、然しオーブレイは彼が施物を与へるのは徳にさへも附き纏ふ不幸のために貧窮に陥つた有徳者に対してではないのだと考へざるを得なかつた。それらの施物は圧へ切れる侮蔑の窓口から投げ与へられたのであつたと考へざるを得なかつた。がそれに反して道楽者などが困窮から逃れんがためではなく道楽に耽つたりまたは益々邪道に深入したりせんがためにならば、この人は非常に金目な施与物を持たされて帰つた。それを彼は一般に有徳な貧者の内気な羞恥よりは道楽者の厚かましさの方が力強いからだと做していた。只こゝに一つルスヴン卿の慈悲についてオーブレイが心に深く感銘した事柄があつた。それはこの人から慈悲をかけられたものにとつてはその慈悲が一つの殃になるだらう事を必然に認めねばならなかつた。なぜかといふに彼等はやがては断頭台に導かれて行くか最も低い最も浅間しい不幸に沈むかの就れかであるからである。つぎつぎにオーブレイの驚いたことには、ブラッセルやそのほか行く先き先きの町へ着くと、先づ第一にルスヴン卿がその土地で目下流行してゐる道楽といふ道楽を悉く鵜の目鷹の目になつて漁り歩くことであつた。彼は faro(一種のカルタ賭博、我国で「ギンカウ」と称するものに相当するものなるべし)の本場へ行つてはその卓に坐つた。彼は賭けた。さうして土地で名高いすばしこい奴が相手に廻つてゐなければ彼はいつも勝つた。しかしさう云ふ奴が敵に廻つてゐるときつと儲けた金以上のものをスツテしまふのがきまりであつた。だが彼はどんな場合でも顔色だけは、あのいつも社交界を睨め廻してゐた顔色だけは決して崩さなかつた。ところが年の若い無分別な新参者だとか大勢の家族を背負つてゐながら勝負運に恵まれない一家の主人などに出逢ふと、その顔つきはがらりと打つて変つて、彼の願ひは望み次第、まるで運命の掟でも見るかのやうに百発百中、逸れることゝてなかつた。……この虚心な心の状態が罷むと、彼の両眼は半死半生の鼠を嬲る猫の眼よりも烈しく、炎となつて燃え耀いて来るのであつた。彼は行くさき/″\の市々でもとは金まはりのよかつた青年をその幅を利かしてゐられる仲間から引き放して、淋しく牢獄のなかへ追ひやつて、この悪魔の手の届く縄張りへ自分を陥れた運命を呪はせ、また一家の主人達には、今まではふんだんにあつた財産を手離させて子供達のねだるものぐらゐは充分その中から間に会つたものを今は錏一文無くしてしまつたのでたゞ不機嫌に黙り込んで饑じさを顔に物言はせてゐる子供たちの中に交つて狂乱したやうに坐つてゐなければならないやうな目に合はせて引上げるのであつた。然しさればと云つて彼自身は賭博机の上からは一銭の金だつて懐に入れる訳ではなかつた。得るものは直ぐ右から左へ大勢の蹂躪者たちに任せて失つてしまふのであつた。何も知らぬうぶな青年達が必死になつて掴まうとしてゐる中から彼が引つたくつたばかりの最後の貨片までも。こんな事ぐらゐなら或る程度の心得さへあれば出来もしようが、しかし心得ぐらゐでは何と云つたつて海千山千の豪の者の狡猾手段を向うへ廻して戦ふことは出来ない。オーブレイは屡々ルスヴン卿にこのことを陳情したいと思つた。自分の利益になる訳でもないのに、それどころか結局多数の人々に破産の憂き目を見させるやうなこの種の慈善と愉快なら断念して貰ひたいものだと思つたのである。……けれども彼はそれをつい一寸延ばしに延ばしてしまつてゐた。……なぜかといふに彼はルスヴン卿が今日は打明けて話してくれるか、明日は打明けて話してくれるかと、その時の来るのを心待ちに待つてゐたのである。だが、そんな機は一向来なかつた。馬車に乗つてゐる時などでも、荒々しい自然の豊かな風景を眺めてゐる時などでも、彼はいつでも同じであつた。眼はその口と同じく何事をも語らなかつた。こんな訳でオーブレイは、自分の好奇心の種たる人物の直ぐそばに居りながらも秘密を発いてやらうといふ空な望みに絶えず心をわくつかせてゐる以上には、何一つの満足をも得ることが出来ずにゐた。しかしかうして絶えず相手の秘密に熾烈な想像を寄せてゐるとどうやらこの男には何か超自然な力があるやうに思はれて来るのであつた。

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