Chapter 1 of 1

Chapter 1

ニュートン・ムーアが暗号電報で陸軍省に駆けつけた。迅速が契約の必須条件だった。ジョージ・モーリイ卿が直ちに本題入り。

「君にピッタリの案件だ。マザロフ銃は聞いたことがないだろう?」

ムーアは知らないと認めた。何かの新型で、その必殺武器に良くないことが起こったのでしょうか、と応じた。

ジョージ卿が説明、

「その通り。君の仕事は回収だ。若い優秀なロシア人が発明した。名前はニコラス・マザロフだ。試射して、実際マザロフから購入した。行く行くは歩兵戦術がひっくり返ることになる。実にすばらしい代物だ。弾丸は液体空気で発射され、薬きょうはない。銃身と弾丸の摩擦がないから、再装填するまで四百倍も撃てる。さらに煙と発射音が全く出ない。発明の価値が想像できよう」

「ええ、実際に見たいですね」

ジョージ卿があっさりと、

「ぜひ見てくれ。実は大至急、探してもらいたいんだ。なにしろ銃と設計図が盗まれたから」

ムーアがにんまり。呼ばれた理由がいま分かった。

「ここで盗まれたのですか、ジョージ卿」

「盗まれたのは昨日の午後、だまされたんだ。マザロフが会いたいと言ったけど、わしは忙しかった。では部下のパーキンソン大佐を、と求めた。大佐によれば相当困っているようだったとの事。銃の欠陥が見つかり、弾丸が引っかかりぎみで、射撃手が危険だという。そこで銃と設計図を一日か二日あずかっていいかと尋ねたそうだ。当然反対せず、頼みを聞き入れた。一時間前マザロフがここへ来た時、欠陥は直したかと聞いたら、びっくりのなんの、昨日のことは全く知らないという。実際、夕べ遅くまでリバプールにアリバイがあった。悪知恵の働く悪党が替え玉を演じて、あざやかに奪って行った」

「大佐はマザロフをご存知だと思いますが」

「良くは知らなかったが、間違いなく本人だと認めている。もちろん大佐も仕事で忙しかった。実際マザロフが嘘をつくなんて思わない。マザロフがここへ来るときはいつも糸のほつれた古いインバネス外套を着て、左側に茶色のしみがついたシャベル帽をかぶってくる。大佐は昨日両方見たと断言している」

「マザロフに会いたいですね」

とムーア。

ジョージ卿がベルを押すと、奥の部屋から、額の広い、黒い瞳の若い男がそそくさ現れた。身なりが悪く、率直に言えば汚なかった。ムーアがじろり、全身をさっと検分した。

「この方が噂のロシア紳士だよ、ニュートン・ムーア君」

マザロフがすかさず、

「名前だけはロシア風ですが、英国人です。銃を取り戻していただけたら、感謝してもしきれません」

ムーアが応じて、

「最善を尽くしますよ。ところで、ちょっと立ち入ったことを伺います。宿までご一緒して、お話を聞きましょう」

ムーアはこの男を信用した。ほんとのことを話していると確信した。マザロフを通りに誘い、腕を取った。

「宿まで案内してください。いろいろ質問します。まず、一番重要なことですが、あなたの知る限り、誰か新型銃のことを知ってますか」

「一人もいません。二年前、友達が一人いましたが、完成直前の物を見ていますけど、死にました」

「誰かほかの人にしゃべったかもしれませんね」

「かもしれません。死んだフランツは陽気なたちでしたが、機密は知りませんでした」

「そうですか、でも誰かに漏らしたかもしれません、大発明目前だって。あなたを監視して、陸軍省に出入りするのを見たかもしれませんよ」

マザロフが深刻にうなずいた。全ては神のみぞ知る。

ムーアが続けた。

「とにかく誰かが知って、成りすましたに違いない。心当たりがないようですのでこれ以上、該当者は尋ねません。探すべきは沈着で悪知恵の悪党、つまり神業の俳優です」

マザロフが淡々と、

「とても沈着です。だって、しゃあしゃあと宿屋女の前を通り、帽子とインバネス外套を、今着ているものですが、これを借りて、またしれっと返すほど冷静ですから」

マザロフが滞在している宿屋の女も認めた。もちろんマザロフが仕事でリバプールへ行ったことを知っていた。だから戻って来た時、驚いた。替え玉は突然呼び戻されたとか何とかブツブツ言って、フロックコートを脱ぎ、背高帽子を取った。マザロフが旅行に使うものとそっくりだった。そして古ぼけた馴染みの外套を着てすぐ出て行った。

「変じゃなかったですか」

と宿屋女にムーアが尋ねた。

宿屋女のジャレットは太っていたけど、決してぼけているわけじゃない。不幸にも上流階級から落ちぶれて、薄暗い宿屋に住まざるを得なかった。その上、眼も弱ってしまった。かつては男どもが想い焦がれた由。抜け目のない悪党の仕業を責められようか。

ムーアがにっこりほほ笑んで、

「だれも責められませんよ。もうご迷惑はおかけしませんから、ジャレットさん」

ジャレットは、告訴すると息まいて立ち去った。そして一時の静寂が訪れた。マザロフが帽子と外套を脱いだ。

ムーアが切り出した。

「きのうよく調べられたと思いますけど、これが例の二度拝借された帽子と外套ですか」

マザロフがうなずいたので、ムーアは外套を調べ始めた。盗人が何か手掛かりを、小さいものでも残していないか。ポケットを裏返した。

「何も無いでしょう。両方のポケットに穴があいてますから、何も入れないようにしています」

とマザロフ。

「小物はありませんね」

とムーアが返事しながら、折り畳んだ書類のような薄汚い紙を明かりに掲げ、テーブルにどさっと置いた。マザロフが無造作に調べ始めた。怪訝な表情だ。

「私のものじゃありません。見たこともありません」

二十枚以上の紙を真鍮ボタンで綴じてある。タイプ打ち。本文は会話体だ。事実、全部何かの喜劇かドラマの台本になっている。

ムーアが、

「最重要物件です。道中、台詞を覚えながら、最後に忘れたに違いない。被疑者が今わかりました。あなたになりすました男の職業は俳優です。手がかりですよ」

ムーアがちょっと興奮しているのを見て、マザロフが叫んだ。

「もっと詰めてください。所有者を見つけてください」

「まさに私の仕事です。順当な推論をすれば、この男は新しい喜劇に出演しているか、急に代役を演じることになったのでしょう、さもなきゃ馬車の中で台詞を覚えることなんてしません。私の友人に根っからの芝居好きがいます。多くの劇場に財政的な影響力があります。願望ですが、この友人が特定できるかもしれません。すぐ会いに行きます」

ムーアは直ちにイーバリー通りへ向かった。そこにジミー・マニングツリー先生が住んでいる。幼馴染みの若者で、演劇に造詣が深く、金儲け方法を知っており、芝居への投資が好きであった。顔は丸顔、眼は鋭く、舞台に精通している。

ムーアの説明が終わると、

「この台本の芝居はすぐ当てられるよ。朝食どう?」

ムーアは断った。男を特定するまで食事は体が受け付けない。腹ペコだったが、一口で喉を詰まらせそうだった。煙草を取って、椅子に寄りかかった。その間マニングツリーは眼前のタイプ文字に見入った。

やがて口を開いて、

「もし俺が劇の名前を言ったら、どの俳優か教えないし、名前も教えないよ。だって劇をよく見ていれば自分で出来るから」

ムーアがじれて、

「じゃあ、劇の名前はなんだい?」

「三目並べだよ。セスピアン劇場で最も有名な喜劇だ。陸軍省なんかでミステリー話に夢中になっていなければ、今頃マンデー新聞の最新版で全部わかっただろうに。舞台を見に行け。特等席をやろう」

遂にムーアが、手掛かりに息も絶え絶えに、

「初演は土曜夜だったのか。話ではセスピアン劇場に関わっているな?」

マニングツリーが大げさにウィンクした。ジミー・マニングツリー先生は大した役者だ。

「そういうこと。一万ポンドぶち込んだけど、三目並べでその三倍を取り戻すつもりだ。今晩特等席に座りたかったらできるよ」

ムーアが両手を両膝において居住まいを正し、

「どうも。さらに無理なお願いだが、楽屋に出入りできるようにしてもらえたらありがたいのだが。つまり、裏口へ入れてくれないか」

マニングツリーが応えて、

「まあ、普通そんなことはしないんだが、切実なようだからキミに免じて例外にしてやる。楽屋には分別をわきまえて出入りしないんだ。十時にセスピアン劇場に行くからそのとき名刺を出せば出来るよ。どういうことか知りたいな」

ムーアが静かに微笑んで、

「だと思ったぜ、あとで言うよ。当分口を閉じる。朝食は要らない、どうも。一口も食べられそうにない。この国が好きなら、今晩だけはへまさせないでくれ」

セスピアン劇場はきらびやかな観客で満席だった。特別席は宝石がきらきら。喜劇は賑やかで活気があった。ダイヤが絡んだえげつない筋書きだった。

特別席の角から、ムーアは劇の進行を見守った。

第一幕が終わりに近づいた。出自不詳の俳優が二人、うちの一人がムーアの追跡する男に違いない。劇の核心が刻一刻。やせた黒髪の男が舞台に立っている。体型と物腰がマザロフによく似ている。舞台の真中に歩み、もう一人の背の高い俳優の肩に手を置いて、

「それで私の取り分は?」

と優しく訊いた。

あっこれは引用だ、台本の第一行だ。特別席の棚に広げて、ムーアの眼前にある。息をのんだ。ここが決め所だ。

第二幕の緞帳が降りると、名刺を渡した。しばらくしてマニングツリーの個室に入った。

「ポール・ギルロイ役は誰?」

マニングツリーが口をとがらせて、

「よせよ。ハーマンを逮捕しようなんて。金ヅルを」

ムーアが応えて、

「そんなことはしない。内密の件は公表しない。ハーマンこそが情報を握っている唯一の人物だ。あの男のことを洗いざらい話してくれ」

「ああ、そもそも国籍はドイツ人、実母はアメリカ人だ。何にでも化ける。警察の手先やら名誉教授やら。四、五ヶ国語を流ちょうに話す。影のあるやつだが、素晴らしい役者だ。君も認めざるをえまい。最終幕の演技まで待て」

「キミの金ヅルのようだな」

「舞台に出ずっぱりだ。劇は二十五分続く。俺の忠告に従い、ひと言も聞き洩らすなよ」

ムーアが声を落として、

「悪いけど聞けないぜ。うっかりハーマンの楽屋に迷い込みそうだ。夢中になってポケットを探るかもな。文句を言うなよ、キミ。俺がご執心だと知ってるだろ。何も言うな。ただ教えてくれ、どっちがやつの楽屋なんだ」

マニングツリーがブツブツ、

「面倒なやつだなあ。いつもわがままなんだから。大きな危険を冒すぞ、責任とれよ。捕まっても助けないぞ」

「かまわん」

とムーア。

マニングツリーは部屋を指差して、とっとと出て行った。

ハーマンの楽屋は無人だった。着付師もいない。おそらくあと三十分は必要ないと知ってのことだろう。ベルがジンとなって、最終幕が上がった。ムーアは薄暗い片隅でハーマンの台詞を聞いた。今がチャンスだ。

一瞬ムーアは躊躇した。文字通り我が身を押し出した。いったん扉を閉めると、勇気凛凛。

何はさておきハーマンの普段着だ。扉に吊るしてある。しばらく目ぼしいものは見つからなかった。ついに一冊の手帳を見つけ、無断でめくった。書類や手紙があったが、手がかりはない。蓋付ポケットに名刺が一枚はりついている。エミール・ノーベルという名前だ。

ムーアは小躍りした。急いで手帳を元の場所に戻し、楽屋から飛び出た。誰も近くにおらず、忍び笑いを聞くものなし。劇場全体が拍手喝采でどよめいている。ムーアの奇策に向けられたものでもあった。問題解決だ。

名刺の名前はよく知っている。諜報部に勤めるものならどんな新人もエミール・ノーベルの名前は聞いたことがある。だって、欧州の手配写真の中で大悪党だもの。ムーアは名前も顔も両方知っていた。

公文書の盗み、設計書の奪取、このデブ大男のドイツ人は何でもござれだ。犯罪の半分はこの男が裏で絡んでいるらしい。正すのが諜報部の仕事。ムーアはノーベルと今まで会ったことはないが、本件では必ずや会いまみえる予感がする。

相手は悪知恵の働く卑怯者、奇妙なことに耳が不自由ながら、機転が利き、悪知恵にたけている。かてて加えて、ノーベルは名うての化学者だ。諜報部の伝説ではノーベルが人殺しを巧妙に行い、すべて大きな壁にぶち当たって未解決の由。そして今この銃を手に入れたとムーアは確信した。

役者のハーマンが盗みを実行したのはきっと金に目がくらんだためだ。ノーベルを見つけなければ。

道がはっきり見えた。またとない仕掛けの機会だ。もし役者のハーマンがノーベルを本当に知ってるなら、名刺が証拠だが、ことは簡単に運ぶかも。知ってないなら、それまでだ。

ムーアは急いで楽屋口横の小汚い小部屋を抜け、通りへ出た。口笛をそっと吹いた。路地の暗がりから影が現れた。

「お呼びですか、だんな」

とひそひそ。

ムーアが、

「呼んだ、ジョセフ。雑事を一つかたづければ、今晩休んでいいぞ。この名刺を取れ。数分後に、その名刺を自分のものだと言って、向うの楽屋係りに渡せ。顔を見られないように注意しろ。そして強いドイツ語なまりの英語で、はっきりこう言え。役者のハーマンに会いたいと。そうすると楽屋係りはしばらく会えないと答えるはずだ。自分は耳が聞こえないと言って、伝言を紙に書いて渡せ。それからハーマンに渡す名刺を置いて、重要案件で今晩会いたいと言え。ハーマンが出向いて会うようにしろ。以上だ、ジョセフ」

そのあとムーアは劇場に舞い戻った。聞いて安心したのは、伝言を書いて指示通り無事に渡したとのこと。少し経って、更にホッとしたのは、楽屋係りがジョセフの言った通りハーマンに渡した由。

もしノーベルの住所が名刺に書いてあったなら、こんなことは全く不要なのに。住所が分からないから、小細工が必要だった。

もちろんわずかな確率だが、役者ハーマンが諜報員ムーアの撒いた餌に食いつかないかもしれないが、そんな心配はない。この前、外套を借りたり、台本を置き忘れているからだ。

ハーマンは役者らの賛辞を受け、紅潮して笑顔で舞台に立っている。ムーアはじっと、楽屋係りが名刺と伝言を渡すのを見ていた。

ハーマンがブツブツ、

「異常だな。ノーベルさんがここへ来たというのか。どんな恰好だった?」

「恰幅のいい、強い外国なまりの、耳の不自由な方でした」

ハーマンはホッとしたようだったが、怪訝な顔だ。

「わかった、ブロトン君。誰か馬車を十分以内に手配してくれ。すまんが用意してくれた夕食は相伴できない。不意に仕事が舞い込んだ」

ムーアは時をおかず、劇場を出た。小細工がまじないのように効いた。今や前途は明るい。役者ハーマンはノーベルと大きな仕事をやり、居場所を知っており、前触れもなくそこへ行き、ムーアを導く。ノーベルが今いるところにマザロフ銃がある。たぶんその辺だろう。

当然、小細工した結果、悪党どもが追跡者を躍起になって探すかもしれないが、ムーアにしてみれば敵を脅して情報を取るしかない。ひとたびブツの在処が分かれば、捜査は簡単だ。それに必要なら大胆不敵な攻撃も用意している。

生々しく細かいことをあれこれ考えて、ありそうもない想像が膨らみ、ちょっぴり怖くなった。神経がぶるぶる震え、いつも吸ってる煙草のせいで、体が調子っぱずれに怖いほどジンジン鳴った。

しかし今、大喜びしたい気持ちだ。ムーアに狂気、狡猾の精気が湧くときはいつも、聡明で鋭敏な頭脳が成功に向かう時だ。こんな瞬間に、信じられない勇気が出る。前途洋洋な成功を予感した。

一台の馬車がのろのろと汚い通りを進み、路地入口からセスピアン劇場の楽屋口へやってきた。ムーアが呼び止めて乗り込んだ。

「俺が合図するまで動くな。馬車を貸り切るぞ」

御者がニヤリほくそ笑んだ。これは上客、ロンドンの御者が夢見るものの、めったに遭遇しない客だ。やがて役者ハーマンを乗せた馬車がスーッと通り過ぎた。

ムーアが叫んで、

「あとをつけろ。前の客が降りたら速度を落とせ。しかし絶対に止まるな。俺は進行中に馬車から下りる。ともかく金貨を一枚やる。長旅になっても、通帳がある。さあ、あとを追え」

長い旅になった。馬車は高性能馬力を披露することなく、しばらく葬列の速度でのろのろ追跡した。

ハムステッド・ヒースの旗竿の近くで、先頭の馬車が止まり、ハーマンが降りた。ムーアの乗った馬車は早足で駆け抜けた。だがムーアはもう中にいない。もし、つけられたとハーマンが疑っても、この巧妙な動きでわからない。

ハーマンはずんずん進み、半時間ほどして着いた所は真っ直ぐな真新しい道、クリックルウッドとハムステッドにある丘のふもとだった。大邸宅群の一戸だけ人が住んでる気配があり、残りは未完成。道の反対側は広い畑だ。

造りは両窓玄関、大きな張り出し付き、玄関広間があり、前庭一面に芝生が張ってある。

役者ハーマンが家の前で立ち止まった。中に誰かいるようだ。通路を進み、正面扉を開き、中に入り、大扉を閉めた。玄関の左部屋には明かりがこうこうと輝いているが、玄関には明かりがない。間違いなくエミール・ノーベルがここにいる。

ムーアは用心して車道沿いに進んだ。そっと正面扉を開けようとしたが、カギがかかっている。

ムーアがブツブツ、

「警戒してるな。やつら混乱してる。今頃ノーベルとハーマンは一杯食わされたと察し、理由を悟ったかも。性格判断すれば、勇気どころか大胆なのが役者ハーマンの特徴。やつは躊躇せずノーベルを見捨てるはず。会話が聞けたらなあ。だができない」

ムーアに聞こえたのはノーベルの太い声だけ、当然ハーマンは手話で応じている。長い間、これが続いた。

その間ムーアは全く何もしてないわけじゃない。既にハーマンの泳ぐ目や、弱気な口元に目を付けていた。品定めして、この男は、こと我が身の安全に関する限り、他人を顧みない。

ムーアがつぶやいて、

「とにかくあそこまで行こう。もし、ハーマンが手持ちの情報をノーベルに言わず、だまされたと悟ったら、やつはきっとノーベルには何も告げず、見捨てるはず。その際、ノーベルの耳が遠いことが重要な点だ。やつが家に入ったとき、ここに使用人はいなかった。俺にとっちゃ後で都合がいい。間違いなくノーベルはこの家を隠れ家として買った。とにかくロンドンよりずっと安全だ。おそらく家具はほとんどなく、いつでもずらかれる。今は家に侵入する方法を見つけることだ」

ムーアが玄関窓のガタついている窓枠を、頑丈な折り畳みナイフでこじ開けようとしている間、目指す部屋で会話が行われていた。

その部屋は家具が十分備わり、居間になっており、明かりが煌々と点いていた。書類や設計図が散らかったテーブルの上に、大男のドイツ人がかがんでいる。

頭がでかく、毛がなく、大きな赤ら顔、眼は冷たい青色、口元はサメのよう。覇気とか、意思は感じられず、残忍な狡猾さが漂っている。やつ以上のならず者はヨーロッパにいない。

役者ハーマンがノーベルに触れると、ノーベルがハッと見上げた。

「脅かすなよ。私の神経は他人が言うほど太くないんだ。よくないことか? キミ」

とノーベル。

「よくないって? 俺を呼びつけておいて」

とハーマン。

ノーベルが首を左右に振った。聞こえないからだ。

「明日会いに行くつもりだった。私が今晩来ただと。でもキミは劇場だろ。ええ、どういうことだ?」

とノーベル。

役者ハーマンが振り向いて、煙草に火をつけた。手が震え、膝がガクガクだ。完全にだまされてしまった。目の前に危険が迫っている。たぶんつけられてここへ呼びよせてしまった。だがノーベルは何も知らない。どっちみち知らせない。ノーベルが助けてくれてもだ。

「警告しに来た」

とハーマンがノーベルを指でつついた。

「おお、じゃあ危険だ。物音は?」

とノーベル。

ハーマンはしないと手話で身振りした。いままで何も見てない。ただ最後の数時間はつけられている感が強い。今夜は追跡を巻いた自信があるなどとは用心して言わない。ノーベルに警告しに来たことが重要な義務だと言えばいいし、ここでどんな不名誉なことをしているのやら。

ノーベルがハーマンの肩をぽんと叩いて言った。

「キミはいい男だ。朝までにあの銃の設計図をすべて暗記する。そのあと、銃と設計図は破壊する。パリに行ったら、そこで私の指示に従ってくれ。ところで、ブランデーとウィスキーがあるぞ」

ハーマンは何も欲しくないと身振りした。何はともあれ、すぐロンドンに戻らなきゃ。無理してここへやって来た。実際、空き家のどんな音も、割れ鐘のように神経に障る。

ムーアは正面扉が開いてハーマンが出てきたとき、かろうじて隠れた。鍵がカチャリとかかる音を聞いて苦虫をかんだ。ハーマンがあわてて去るのが見えた。

ことはまさに予想通りになった。ハーマンは、でぶの共犯者に何も言わなかった。やつの運命を断つことになる。ノーベルは家にいる。家に当分留まる。役者ハーマンは警告理由を説明しなかった。

一対一になりつつあった。明晰な頭脳・対・狡猾だ。きっとノーベルは攻撃に無防備だ。小銃ほど扱いやすいものはないが、このドイツ人はそれ以上の恐ろしい武器を知ってるし、一流の化学者・兼・科学者だ。

だがやらねばならないし、ムーアはそのつもりだ。静かにやる必要はない。窓枠の留め金に取り掛かった。やがて、カチッと音がして外れ、枠が取れた。直ちに玄関広間に入った。そっと足をおろすと、低い押し殺した唸り声が聞こえた気がした。

玄関広間は真っ暗で、一条の光が向うの部屋から漏れている。はっきりとノーベルがテーブルにかがんでいるのが見えた。またしても低いうなり声だ。

ムーアが暗がりに目を凝らすと、丸い燃えるような橙が二つ、床低くメラメラ火の玉だ。びっくりして叫び声をあげると家じゅうに響き、ノーベルに気づかれたのじゃないかと半ば恐怖で立ち尽くした。だが、ノーベルは気づかない。ノーベルは最後の審判ラッパが鳴っても聞こえない。

野火がムーアにじりじり近づいてきた。もう引き返して逃げない覚悟だ。ギラギラ眼球が円弧を描いたのを見た次の瞬間、ブルドックが顔にとびかかり、ムーアは床に仰向けに倒れた。

突然、凶暴な牙を光らせて、ムーアのこめかみに噛みついた。刺すような痛みに襲われ、血がだらだら流れた。次に、肉付きのいい分厚い肩に噛みついた。残忍な鋸歯がムーアの鎖骨に食い込むと、気が遠くなり、痛みで吐きそうになった。

だがもう叫び声はあげなかった。無益だと分かってる。考えるだけでも実に恐ろしい。なにしろ助けを全く呼べず、倒れているのだから。

ムーアはゆっくりネクタイに手を伸ばし、ダイヤ・ピンを引き抜いた。高価なピンは普通、鋼鉄から造られている。これを手に持ち武器にして、ブルドックの左前脚の下に伸ばし、ドクドク脈打つ心臓を狙った。ぐいと力を入れ、ピンを頭まで差し込んだ。

ムーアの鎖骨の上で犬がぴくぴく痙攣し、犬歯が外れた。ぶるっと震え、はあーと長い息を吐いて静かになった。数分経つとムーアに力が戻り立ち上がった。奇声を上げ、衝動的に笑いながら、両腕に犬の死体を抱えた。

むくむくと元気が湧き、不意に狂気に襲われた。犬を両腕に抱え、よろよろ部屋にはいると、ノーベルが一心不乱に暗記中。ムーアがテーブルの上にドスンと死体を投げた。

ノーベルは恐怖でひきつった叫び声をあげながら後ずさり。大きな赤ら顔が真っ青になり、青い目に涙が浮かんだ。テーブルの死体を見てから、顔面血だらけの痩せ男を見上げた。テーブルの上にはムーアが探し求めたマザロフ銃があった。

ノーベルが大声で、

「幽霊だ、幽霊だ、どうなってんだ」

ムーアがテーブルのライフル銃と図面を指差して、

「それだ」

と手話。

「知らんな」

とノーベルがブツブツ。

ムーアは手話がうまい。たびたび世話になった。ムーアが手話で応じた。

「ひっこんでろ。朝までにその銃を頭に入れようとしたんだろ。取り戻しに来た。ごちゃごちゃ弁解するな。お前とハーマンのやり方は先刻承知だ」

ノーベルがつぶやいて、

「俺の召使いが……」

「いないぞ、一人ぼっちだぞ」

ノーベルが薄気味悪く笑い、あたかも反駁するかのように、電気ベルの上に指をおいた。同時にハンカチで鼻腔をかばった。

空中に甘い臭いがかすかに漂うのに気づいた。次の瞬間、めまいに襲われた。ノーベルの目に邪悪な笑いが踊っていた。

悪魔のような手品が効いている。電気ベルを見ると、白いボタンがなくなって、丸い穴が開き、そこから間違いなく毒ガスが出ている。

ムーアもハンカチを顔に当て、テーブルの図面をひったくり、火の中に投げ捨てた。マザロフ銃の銃身をつかみノーベルの大きな頭に振りかざし、

「この悪党め、俺を殺そうとしたな。窓を開けろ、すぐにだ。さもないと頭をたたき割るぞ」

ノーベルはムーアが手話で脅したので、見つかったと悟り、命令を理解した。ぶよぶよ巨体をゼリーのように揺らし、カーテンを引き、窓を開けた。下は地面、芝が一面生えている。ムーアは、やにわに怒りが爆発し、左のこぶしを突き出し、ノーベルのたるんだ片頬を力いっぱい殴った。

肉体の衝撃があった。倒壊するようにノーベルがくず折れた。再びよろよろ立ち上がって、ちらと見れば、全速力で道路へ駆けるムーアの姿があった。

ムーアはハアハア喘ぎながら、

「我が王国のエッジウェア通りは……、馬車は……。俺はもう倒れる。もう動けない。ありがたい、警官がいる。ロバート、ロバート、酔っ払いの無法者だ。俺がどうなろうと、この銃を離すな。手を貸してくれ。手荒くするなよ。すぐクリックルウッド警察署へ行ってくれ」

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