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しかし放課後をひとりあとまで残された川上忠一は、それだけですでにおどおどしていた。数え年の十三歳(生活年齢は十二年と五カ月)で尋常四年生の彼は原級留置を二度も喰った落第坊主だった。けれども父親にしてみれば、何とかしてこの子を――と思うのである。「何ちったってこいつを真から知ってんのはあっしですよ」と保護者の父親は学校の床に膝を折って懇願した。「家にいる時あ、とても頭がいいんだが、学校じゃあ丙やら丁やらで……なるほど、あっしら風情の餓鬼あ行儀は悪うがしょう、したが、それとこれとは訳がちがいまさあ、なあ先生様そういうものでがしょう? やれ着物が汚ないの、画用紙が買えなかったのと、そいでもって落第くらったんじゃあまったくたまんねえでがすよ。あっしゃあ考えました、こりゃあやっぱしええ学校に上げなくっちゃ嘘だとね……区役所で通知を貰うんには骨も折りましたが、はあ、いいあんばいにやっとこさこんな立派な学校へあげることができて――これ、忠!」と彼はそこで恥しそうに着物の腰あげを弄くっている伜の手を引っ張るのであった。「ああ、見ろうな、こんな立派な御殿みてえな学校に来たんだから、お前もちゃんとお辞儀してお願い申すもんだ」それほどの気持で中途入学してきた川上忠一は、しかし、いきなり低能組に編入されたのである。校長はそれも彼の権限として、汚れくさったその子の通信箋を一瞥すると何らの躊躇もなくこの教室にあらわれ、一個の器物を渡すかのごとく簡単にそれを杉本の手に渡そうとした。杉本はむっとして校長の顔を注視した。すると彼はその時はじめて腰の上に組んでいた後手をほごし、それを上下に振り動かしながら口を切った。「智能測定はせなけりゃならん……たのむよ杉本君、まあとにかく君い……」そう言って渡された子供なればこそ――と杉本は思うのであった、校長が無雑作に決めた低能児の認定を、いわゆるビネー・シモン氏法によって覆えしてしまいたいのだ。もしもそれが、当代の実験心理学が証明する唯一の科学的な智能測定法と言うならば――。杉本は測定用具と検査用紙を教卓に投げおき、「なあ川上――」と子供の頭に手をおいた。「お前の父はどんな仕事を毎日してんだ?」一日の仕事に疲れきってはいながらも、彼はその子の冷たそうな唇を見つめて答えを聞きのがすまいとするために、ぶるぶると身体を緊張させていた。
川上忠一は首をすくめて、できるだけ教師とその視線を合わすまいとしていた。彼は徐々にその眼を窓の外に移して行った。放課後まったく子供のいなくなった校舎は、しーんと静まり、かえってそのしーんとした静寂が耳につくのであった。
「え? 川上?」とさらに教師は答を促して彼もまた窓外のうすれ行く夕陽の色に眼を移していた。川上忠一は何か決心したようにあわてて着物の襟をかき合せ、上眼づかいに教師を見据えた。
「さっさと片づけて早く帰るとしようぜ」と杉本が言った、子供はぶるぶるっと両方の掌で顔を擦り、にたっと笑ってみせた。恥しがっていたのだ――それだのに、なぜこんなに執拗く促しているのだろう――職業がその子の智能を直接的に規定しているという理由からだけなのだ、そしてそれが検査要目の最初の項にあげられた設問だからである。杉本は狼狽してそれをひっこめようとした。
「言いたくないんだったら……」
川上忠一はうるさげにそれを途中で遮えぎると、たたきつけるようにがなった。
「船だよ!」
「船? 船とはどんな船だい?」
「ちえっ――わかんねえな」そう舌打ちして子供は度胸を据えるのであった。さあこうなったら何でも喋ってやるという風に、教師の顔を正面に見て語気をあらくした。「船は船じゃねえか! 大河をあっちい行ったり芝浦い行ったりする船じゃねえか。あたいがぎーっと舵をおしてんだ、あたいだって――」川上はそこでうすい唇をつきだし早口になっていた。「まちがわねえでくれ、泥船じゃねえんだからな、ちゃんとした荷船でよ、あげ羽丸てえんだ。でも、何だってそんな巡査みてえなことばかし聞くんだい?」杉本は蒼ざめて吸いかけているバットを揉み消した。「あたいらは正直もんだよ」と川上はさらにつづけた。「うそなんてこれっぽっちも言いやしねえよ、さ、早くかえしてくんな」
「儲かるかい!」杉本はそう言って話題を外らそうとした。
「儲かるもんか!」川上忠一は眉根をしかめてそれを即座に否定した。「発動機に押されっちゃって、からっきし仕事がまわってこねえんだよ、遊んでる日がうんとあらあ、遊んでてもしかたがねえんだけんど、何しろ仕事がねえんだからなあ、父だって辛いし、あたいだって――」そう雄弁になってぶちまけだした子供の言葉を、杉本はじいっと聞いていることができなくなった。彼は埃と床油の臭気が立て籠めていることに思いあたり廻転窓の綱をがちゃりと曳いた。夕映えの反射がそこで折れて塗板の上をあかるくした。「先生えあたいなんかはなあ、まちの子供みたいにあそんじゃいられねえよ、おっ母の畜生が逃げっちゃったんだ、そうよ、船は儲からねえからよ。儲からねえたって言ったって……」教師は照れかくしに教卓のまわりを歩き、ぱっぱっと煙草をふかしつづけた。落第坊主即低能と推定されて自分の手に渡されたこの痩せこけた子供が、こんなに淀みなく胸にひびく言葉をまくしたてるのだ。よしそれならば――と杉本は真赤な顔を子供に向けなおし、まだわめきつづけようとする口を強制的にでも止めてしまおうとした。
「よし!」杉本はどしんと床を踏みならした。「よし! もうわかった、それならば――」彼のそのいきおいにはっと落第生に変化してしまった川上忠一は、亀の子のように首をすくめぺろりと細い舌を出した。しまった――と思ったがすでにおそいのである。そして彼自身もその刹那から職業的な教師にかえったのも知らずに、「それではなあ川上、これから先生が訊ねることはどんどん返事をしてくれよ」と言いつづけていた。それから彼は測定用紙をひろげ、三歳程度の設問をもったいぶって拾いだしていた。
「コノ茶碗ヲアノ机ノ上ニオイテ、ソノ机ノ上ノ窓ヲ閉メ、椅子ノ上ノ本ヲココニ持ッテクル――んだ」
おそろしく生まじめな眼を輝かした教師に、川上忠一はへへら笑いを見せて簡単にその動作をやってのけた。
「その調子!」と杉本は歓声をあげた、その調子――そして、このもったいぶった検査を次々に無意味なものにたたきこわしてしまえ。彼はそう思って、「ではその次だ」と呶鳴った。
「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」
「しち面倒くせえ、どぶん中に捨てっちまわあ――」
「え? 何? なに?」杉本はすでに掲示されている正答の「スグ詫ビマス」を予期していたのだった。だがこの子供の返答は設定された軌道をくるりと逆行した。杉本は背負い投げを喰わされたようにどきまぎした。「え? 何? なに?」と彼は繰りかえした。「もう一度言ってごらん?」
「どぶに捨てっちまえば、誰が毀したんだかわかりゃしねえだろう?」と川上は訊きかえした。
「じゃあもう一つだけ――」杉本は何度も使った質問を誦んじながら今度は子供の顔を注視するのであった。「モシオ前ノ友ダチガウッカリシテイテオ前ノ足ヲ踏ンダラオ前ハドウスルカ?」
「ちえっ! はり倒してやらあ……」
そのはげしい語気に衝かれて杉本は思わず「なるほどなあ」と声をあげ、検査用紙をばさりと閉じてしまった。すると、川上忠一の痩せとがった顔がもう全然別な憂愁に蔽われていた。彼は暮色の迫った窓を見つめだした。コンクリートの教室はうす墨いろに暮れていた。ぶるっと身ぶるいを出して彼は血の気の失せた薄い唇を舐め今さらのように教室を見まわした。それから彼は、もはや教師の存在を無視してさっさと腰をあげた。「暗くなってきたなあ――」と杉本は一言つぶやいた。川上忠一はその声にまた突然学校を思いだしたらしく、気味わるげに教師の顔色をのぞきこむのであった。しかし、こんな夕方になっては、どうしてもこれ以上先生の意志に譲歩することができないと思った。「あたいはもう失敬するぜ、何しろ父が心配するからな」と呟いて自分の鞄を手許に引き寄せた。引き寄せてはみたが、長い間学校に虐めつづけられてきたこの子供は、教師の顔色をいっそう覗きこみながら、身体は扉口に進め、首だけはうしろに向いて動かないのであった。杉本は鼠色になった教室の壁を見つめてぼんやりしていた。とうとう扉に手をかけた川上忠一は、決心してわめいた。「あたいは帰るよ、いいかい? 父の晩飯を炊かんきゃならねえし――それに、あたいの家がなくなっちまうからよ!」それを喚きおわるが早いか、彼はぺこんと習慣になった敬礼を残して、扉をはね開けた。一足教室の外に出て教師の眼をのがれたと思うと、子供は一ぺんに重荷をおろした気がし、あとは綱を断たれた野獣のような猛々しさを取り戻して長い階段を一気に駈け下りるのであった。
杉本は暗くなった教室にしばらくそのまま頬杖をついてぼんやり考えていた。彼の意気込みにもかかわらず川上忠一の智能指数はやっぱり八〇に満たないのである。測定したあとの、あのもやもやした捉えどころのない不愉快が今はことさら強く彼の頭に噛みついてくるのであった。それが真実に子供たちの運命を予言しうるものとすれば(実験の結果によれば――と当代の心理学者が権威をもって発表する)コノ指数ニ満タザルモノハトウテイ社会有用ノ人間タルコトヲ得ズ。「この社会! この社会!」と杉本は繰りかえした。えらい心理学者や教育学者たちが規準にした「この社会」と、そこから不合格の不良品として選びわけられ、今は彼に預けられた、低能な子供たちの住む「この社会」とは、同じ「この社会」でも社会の質が異っていた。そっちの社会で要求している……川上忠一も素気なく拒否したのだ。そうして彼は抗議する――何だってそんな巡査みたいなことを訊くんだい? 杉本は自嘲的に自分の職業を三つの単語で合唱する――「べからず、いけない、なりません」そいつにぐわんと抗議して川上忠一は教室をとびだして行った。一本お面を喰ってふらふらとまいった杉本は、…………………………、「…………、…………!」と叫びたい気持になってきた。杉本はうす闇の中でにやり歯を出して笑い、さておもむろに腰をあげた。すると、朝の八時からこんな日の暮れまでいらだてつづけていた神経が一度に崩れ、身体がくたくたに疲れているのを発見した。その杉本を、図体の大きな使丁がこれもいらいらしながら捜しあてたのであった。
「杉本さん、大変だぜ」と使丁がどなった。
「横着な面をするない」と杉本もどなりかえしていた。
昇降口に仁王立ちになっていた使丁はむっとした。帰り仕度をしてしまった杉本も、それを見ていっそうむっとした。年がら年じゅうこづきまわされている彼らは、これだけは自分の自由意志だと思いこんだものがぐわんと阻まれるその刹那に、想像できないほどの敵愾心を煽られるのであった。こんな平教員に舐められるものかという風に使丁は明らかに冷笑を浮べて、「へへえ……これだよ杉本さん」と自分の首筋をたたいてみせた。「子供が紛失してお前さん、親爺さんが泣きこんできてらあ」
「なにいッ?」と杉本は棒立ちになった。
「お前さん子供がどうだっていいと言うならば、校長さんに話さにゃならんが……」
「いや――」と杉本は使丁を停め「俺が捜してみせる」と呶鳴った。そして小使室に駈けこんだが、彼は自分のその行動がきゅうに忌々しくなってそこから振りかえりざま声を荒くした。
「か、勝手にしろ」
だが、小使室にしょんぼりしていた川上忠一の父親は、一ぺんに神経を取り戻して「先生さまあ――」と悲鳴をあげた。「あとにも先にもたった一人の伜でがして、なあ、先生さまあ……」
彼はそう言って、胸に漲っていた心痛のはけ口を杉本に向け、潮くさい身体をやたらに折り曲げるのであった。
学校の門を出てからの子供が、それぞれの家に辿り着くまでの責任はやっぱり教師にあるというのであった。しかし今日の責任は、いやがるその子供を日没まで引き止めていただけに、杉本はいても立ってもいられぬようにそわそわした。「先生さまあ――」とその父親はもう子供がなくなったように口説きつづけた。「あの野郎は親思いで今日まで一ぺんも心配かけたことはねえのに、はあ、今日という今日はどうしたことでしたか……」