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岡といふ彫刻家のモデルを務めて私がそのアトリヱへ通ひ、日が延びる程の遅々たるおもむきで、その等身胸像の原型が造られてゆくありさまを緯となし、その間に巻き起る多様なる人事を経として、そしてその胸像が完成される日までを同時に本篇の完結と目指して、これには凡そ四五十枚の前篇がありますが、それはそれとして、新たに稿をすゝめます。
大二郎と閑吉が、在らぬ話を何かと意味あり気に私とりら子に就いて、飛んだ目配せのやりとりを交はしたりするので、私はついあかくなり、と云つて、もうりら子と約束をしてしまつた以上、その来訪を待たなければならず、困り果てゝ、ふらふらしてゐると、泉水の鯉を眺めてゐた細君は、いきなりくるりと振り向くや物をも言はずぴしやりと私の頬を力一杯打つた。そして、また凝つと、白い雲が映つてゐる小さな水の上を見詰めてゐた。私は、むしろ小気味の好い痛痒を感じたが、実際の痛さよりも誇張した苦痛の表情を浮べて、
「痛いなあ!」
と叫んだ。
すると同時に彼女がもう一辺振り返つたので、私は仰天して跳びのき、そのまゝ裏木戸から逃げ出した。嗤ひに似た大二郎と閑吉の声をうしろに聞いた。私は、今りら子に告げた道筋を逆に駈けて行くと、街角の煙草屋の前で、灰色のボレロを着た無帽の彼女に出会つた。
「来て下すつたの、迎へに?」
「いゝえ……」
私は慌てゝかぶりを振つたが、未だ別段に左程も親しくもない相手に、然もその人を副主人公として起されたそんな突飛な騒ぎをまさか在りのまゝに吹聴するわけにもゆかず途方に暮れてゐると、何故か彼女は突然噴き出して、
「馬と猫にからかはれたんでせう、解つたわよ、関はないから行きませうよ。」
左う云つて私の肩に腕を載せた。私は徹底的に落着きを失つてぎよつとしてゐたが、梟といふ仇名に気づいて、胸を熱く炎し、慌てゝ、これから岡のアトリヱへ赴かなければならなかつたことを思ひ出したからといふやうな意味を告げながら反対の方角へ彼女を促した。何時もあれこれと身を持てあまして心の遣場の求められぬかのやうな切端詰つた時に、岡のモデル椅子にうづくまつてぎよろりとしてゐる自分に、凡ゆる胸のうちのエピロオグを仮托して息詰つてゐるが、今はもう一刻も速やかにあの椅子にたどり着いて往生してしまひたかつた。
「それでは妾もアトリヱへ行きますわ、見物に――」
「寒いですよ、とても。――とう/\この冬も壁が塗れずに終ひさうです。」
私は街中を通るのをいろ/\な理由から困つてゐたので、露路づたひに、町裏を流れてゐる小川のほとりに出た。川のふちを、弓なりに迂回しながら冬枯れの裏山を指して脚速く遡つてゐた。風のない麗らかな日和だつたが、水のふちには氷が光つて、道には霜柱が深かつた。一面に狐色の枯草が蓬々と蔓つてゐるばかりの田甫に出ると見渡す限り一点の動くものゝ影だに認められなかつたが、やがて行手の眼界を水平に横切つて宙を飛ぶやうな郊外電車が現れると、あちこちから無数の鴉の群が竜巻の木の葉のやうに舞ひあがつた。あんなにたくさんの鴉が降りてゐるからにはこの跫音にも驚いて飛び立つであらうがなどと私は、田甫道を行き尽して突きあたりの馬頭観音の傍らから坂道に差しかゝるまでそれとなく注意してゐたが、一羽の雀の姿さへも見あたらなかつた。
「それで、もう何れ位ゐ出来あがりましたの、原型は――?」
私は坂道を気遣つてりら子の腕を執つてゐたが、大二郎の眼にでも触れたらまた飛んだ噂を吹聴するだらうと気にはしたものゝ物静かに広々とした風景の中を越えて来た影響であらうか、いつか胸先からはきれぎれな不安の影は悉く鳥のやうに姿を掻き消して、歩いても/\いさゝかな戦きの羽ばたきも浮ばなかつた。
「たしか……?」
未だ壜のやうな型ちに盛りあがつてゐるだけの「私」を私は考へながら、
「頭の格構が幾分か解る程度だつたと思ひますが、大分休んでしまつたので、また氷つてゞもしまひはしないかと心配してゐるんですが。」
私は、あの壜型の頭に触れるやうな心地で、いつかの失敗を回想しながら片々の掌でそつと自分の後頭部を撫で降してゐた。
「まあ、未だ頭の格構だけなんですつて、随分呑気な人達ね。一体何時になつたら出来あがるんでせう!」
「わたしが悪かつたんですよ。」
「この前の時にあなたの行方が解らなくなつて、皆なが大騒ぎをしたことを御存じなの?」
「薄々は知つてゐますな。」
「冗談ぢやなかつたのよ、あの時は――。何しろ寒中のことで、一方では粘土が濡らしても/\も氷つてしまひさうだし、そちらはそちらでモデル君が何処へ雲がくれをしてしまつたのか皆目見当がつかないし、それこそ八方に手わけをして、まるで拐帯犯人を探すやうな騒ぎでしたわよ。」
「で、犯人は何処で捕縛されたんでしたかしら?」
「空呆けたりして、馬鹿々々しい!」
私は決して呆けたわけではなく、仮に形容した彼女の言葉が、そのまゝ適中してゐたので両脚が竦んだのである。私は、その頃「月光のなかの吊籠」と題するフアンタヂツクな創作にとりかゝつてゐたのであるが、不図身のまはりに気づくと衣服は襤褸のジヤケツ一つとなり、糧食の欠乏に駆られてゐた。私は或る闇の晩に、或る縁家先の塀を乗り越えた。或る理由で、夜盗が私であるといふことが解つてゐる限りは、現行を差押へて腕力沙汰に訴へぬ限り、その縁家先では所置を施す術がなかつたので、私はその所行は私であるといふ一札を残して、首尾好く或る仕事を遂行した。
そして今も尚ほ私のその創作の仕事は半ばにも達してゐなかつた。何もその仕事のためばかりに骨身を削つて時を費してゐるといふのではなく、糧食の輸入にいとも困難な活躍を演じなければならなかつたので、何も彼も思ふやうには捗らなかつたのだ。
「そんなことは何うでも好いぢやありませんか、済んだことですもの。あの時は、毎日毎日モデル椅子にばかり凭りかゝつて、こつこつと出来あがつてゆく自分の姿を見てゐるうちに、厭世的になつてしまつて、つい脱線したまでのことだつたんですよ。」
何気なささうに私は言葉を反らせたが、それはそれで済んだところが、やがてはまたあの浅間しい所行を今度は何んな方法で行ふべきか、それが最早再び目睫に追つてゐるらしいのに気づいて竦然として激しく頭を振つた。そんなことゝは知らずにりら子は今更のやうに今度は私の頭をはつきりと注意して、
「いつも、やはり頭が先へ出来あがつてゆくんですかしら?」
と何となく感心した様子で、長閑に眼を視張つてゐた。
「いえ/\、そんなことはありませんとも。」
私はあわたゞしくもう一辺厳し気に頭を振つて、はずむ呼吸を圧へながら、
「全体が、それはもう同じ程度に少しづつの均整をとりながらすすむんですから、何も何処が先にはつきりとするわけではありませんけれど……」
などと頗るとり済した口調で、恰でその道の専門家でゝもあるかのやうな面持で、無意に打ち消した。――だから何も頭ばかりが先に格構がつくといふわけではないので――と続けようとしたのだつたが、頭と云へば近頃また今は再び正しくも専門の夜盗としてのみの働きにだけしか動いてゐないそんな頭に思ひ及べば、たゞ斯うして「頭」といふ言葉を口にするのさへ辟易したのである。そして遇然にも斯んなことを話題にしたからには、これから今日も仕事にとりかゝつたならば、先づ彼女は原型のそれと、モデルのこれとを特に比較して見物するかも知れない? 私は自分勝手にそんなことを手酷く憂へて、それにしても困つた傍観者が現れたものだ! と恰で頭の働きを見透されて邪魔されるかのやうに弱つた。まつたく私は、モデル椅子に凭つて凝つとしてゐる間が何時でも最も禍ひ少なく冷徹に、あの頭の働きを回らし得る時間だつた。この四五日来あれこれと計画した夜盗の手段に関して、此度のモデルの仕事中に決断をつけようとさへ考へてゐたのである。
「だんだんに出来かゝつて行く自分の姿を、自分で眺めてゐるのは経験者でなければ解らない気分があるでせうね。」
「断じて抒情味のまじらない石のやうな陰気に閉されます。」
「あれはブロンズになるんですか?」
「岡君は自分の仕事に誇りを持つてゐるので、作品は凡てブロンズにします。」
「あなたに贈るんですつてね。」
「えゝ、わたしは石膏の方でも貰つて置き度かつたんですが、石膏ではとても不安で他人の手になんて任せてはおけぬさうです。それは尤もでせう。ブロンズを執つてしまへば石膏は何うならうと平気ださうです。」
話してゐるうちに私は、自分がブロンズになつてしまふことがとても堪らぬやうな迷信に病はされてゐた。うつかり前後の考へも弁へずにモデルになつたりしてしまつたことが悔いられた。それと同時に、未だブロンズにならないうちの原型石膏が何かのはずみにでも壊れてしまへば好いがなどといふことをこの頃になつて急に希ひ出した自分を、モデルになど選んだ作家を気の毒に感じた。
「決して滅びない記念像が出来あがるわけですね。東京へ移る時には、持つて行かれるわけなんでせう。」
「岡君の芸術には深い敬意を払つてゐるんですが……」
「えツ?」
彼女は私が頓興なことを突然口にしたものだ! と驚いたらしく聞き返した。熊笹が両側から雪崩のやうに生ひ繁つてゐる坂道を近道に選んで登り、更に降つて町端れのガードを私達は潜るところだつた。私は、敬意に値する岡の作品が、不幸にも「私の像」であるがために、ゆくゆく何んなに私の為に酷い扱ひを蒙り、稍ともすれば狂ひのやうになつて擲つたり蹴つたりするであらう、そして何んなに邪魔物扱ひにすることであらう! 私は近頃左う云ふ類ひの夢に悸やかされてゐた。けふの明け方などは、真実に斯んな夢を見た。この胸像が手もあり脚もある等身の立像になつて、私と格闘を演じた。闇の中を、私は一散に逃げてゐた。「彼」は待て/\! と叫んで追ひかけて来た。私は逃げるのも業腹だと気づいて、立ち直るや満身の力を込めた右腕で唸りをはらんだ半円を切ると奴の横面に稲妻のやうなパンチを喰はせた。するとまあ私の腕は肩の付け根からポキリと折れた。ところがさつぱり痛くもないので今度は左腕で素早く敵の頤を目がけて牛殺しのアツパーカツトを喰はすと、その腕も亦同じやうに肩から脱けて見当らぬところへ飛んでしまつた。私は慌てゝ奴の腹を蹴ると、それもバツタの脚のやうに他合もなく脱落した。私は、こいつはしくじつた、とうとう傘の化物になつてしまつた! と呟きながら一本脚で逃げ出さうとすると、奴は両腕で私の脚を攫むや有無なくぽきりと折つてしまつた。そして今度は奴が私の頭を石のやうな拳でぐわんと擲つたかと思ふと同時に、彼がキヤツ! といふ悲鳴を挙げたのである。見ると、いつの間にか擲つた奴が当の生きた私で、その瞬間まで私自身であつた私は、青銅の胸像に変つて、私の脚もとにごろりと転げてゐた。思はずブロンズの頭を力一杯擲つてしまつて、私は痛さのために拳骨をふるはせたのである。あまりに荒唐無稽な馬鹿々々しい夢で私は、目が醒めた時に口をあけてゐたが、全身は酷い汗だつた。
「いゝえ、その、自分で自分の像を眺めたら、つまりその作品価値とは全然別個の……」
私が吃りながらあやふやな返事をしてゐる時、折好くも降りの列車が轟然と通過して、私達は思はずそれぞれの両掌で耳をおさへた。ガーツといふ圧倒的な轍の響きを真似て、私もいたづらさうにガーガーと大きな口をあけて喉を鳴すと、それが天狗の溜息のやうに可笑しく私の胸に反響した。
「え? 何ですの? とても聞えやしませんわ、何を仰言つてゐるんだか……」
「何も意味のあることなんて喋舌つてゐるんぢやありませんよ。」
と私は云つたが、それも彼女には聞えず、何か私が芸術上の意見でも述べはじめたのかといふ風に彼女は熱心に追求した。
私は話題の転換に折の好い瞬間だつたと秘かによろこんで、その響きが消えた時には、ひたすらその列車の行手である真鶴や米神などといふ村の入江と岬が幾つも幾つも櫛型に入り組んださまを愛好措くあたはざるといふ風な調子で述べたてゝゐた。