Chapter 1 of 4

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「あたしは酔ツぱらひには慣れてゐるから夜がどんなに遅くならうと、どんなにあなたが騒がうと今更何とも思はないが――」

周子は、そんな前置きをした後に夫の滝野に詰つた。

田舎で暮してゐた時とは、境遇も違ふし場所柄も違ふ、今ではこのセヽこましい東京の街中で、然も間借りをしてゐる境涯である、壁一重先きには他人が住んでゐるのだ、毎晩/\夜中も関はず大声を発して、加けにどたばたとあばれられたりしては、朝になつて隣りの人に挨拶をすることも出来やしない、まるで狂ひの沙汰だ……。

「それが、たゞの喧ましさとは違ふぢやありませんか、歌をうたふならせめて他人に聞かれても恥しくないやうな歌をうたひなさい。あなたゞつてもう学生ではないぢやありませんか、隣りのマンドリンが煩いなんてよくも図々しく云へたものだ、何処にお酒を飲みに行つたつて屹度鼻つまみに違ひない、几帳面の唄となつたら春雨ひとつ知らないでせう。」

周子は、あゝと深い溜息をついた。

滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、

「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。

「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」

「何が好いだらう、長唄でも……」

「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。

「ゆうべはどんなに騒いだ。」

独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。

「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。

「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」

「都の西北――を何辺やつたことでせう。」

都の西北、といふのは滝野が四五年前、それも落第を重ねた後に漸く末席をもつて卒業した或る私立大学の校歌のことだつた。

「それから、野球の応援歌!」

「それをやつては恥かね。」

「恥ですよ。」周子は疳癪を起して、金切り声で叫んだ。――滝野は、隣りに聞えるから止めろといふ意味を眼つきに表して、女のヒステリツクの発作を制御した。

「チエツ! 昼間になつていくら遠慮深くしたつて何になるものですか。」

「そんならもう止さうよ。」と滝野もムツとして、横を向いてうなつた。

「救かるわ!」

「誰がやるものか。」

「断言しましたね。」

「無論だア。」滝野は、ちよつと亢奮すると田舎なまりの語尾になるのが常だつた。

「ぢや今度から、酔つた時は何をやるの? いくら口惜しくつたつて、あれより他のことは出来ないでせう!」

「余計なお世話だい。」

滝野は、唇を噛んでゐた。何か他に出来ることがあるかしら? とちよつとムキになつて考へて見たが、何の思ひあたるところのある筈はなかつた。

「それから、ついでだからもうひとつ頼んでおきますわ。」と周子は更に云つた。――この部屋は露路を通る人からは、すつかり見透しなのだ、暑いから閉めておくわけには行かない、お午過ぎまで寝てゐることも止めて貰ひたい、寝像もあまり好い方ぢやない、口をあいて寝てゐる時もある。肌脱ぎになる習慣も止めて貰ひたい、運動だと称して(昼間)逆立ちをやつたり、でんぐり返しをしたり、出たら目の体操をやつたりするのも止めて貰ひたい、運動をしたければ、これも法にかなつたこと、例へば鉄亜鈴、棍棒、まだその他室内で出来るいろいろの道具がある。

「あれは焼けてしまつたかしら? 小田原の家に鉄亜鈴や、拳闘の手袋がありましたね、今度帰つた時探してきてあげませう。」

「そんなものいらないよ。」

「あなたが拳闘を習つたの!」

「僕は、知らん。」と滝野は空とぼけた。六七年も前拳闘の手袋を買つた記憶は、はつきり残つてゐた。彼は、父から拳闘の話を聞いて内心軽い好奇心を持つた。だがそんなことを見る者のある前でやつて見る程の勇気はなく、父にはセヽラ笑つて置いたが、何となくその構えをやつて見たく思ひ、わざ/\東京へ出掛けてフツトボール見たいな練習用の球とそれとを買つて帰り、他の眼をぬすんで、書斎の天井から球を吊して秘かに闘つて見たり、或は夜、裏庭に忍び出て、松の木にそれを吊して晴々と闘ひを演じたこともあつた。円盤や投槍や剣術の道具を買つたのもその頃だつた。だがそのうちのどれも、一週間とは続かなかつた。彼は、相手を求める熱心さに欠けてゐたし、独りぽつちの馬鹿/\しい運動には直ぐにテレ臭さを覚えて了つたから。

「東京住ひは苦しいことだな、それぢや始終袴をはいた気でゐなければならないんだね。」

「田舎だつてほんとうは、あなたのやうな不行儀な人は……」

「よしツ、もう決心した。これから俺は東京市民にならなければならないんだからね、浮か/\してもゐられまい。」彼は、生真面目な心でさう云つた。周子に非難されてゐる事実ばかりでなく、広く自分の生活にそんな風な楔を打たなければならない気がした。

その晩も滝野は、遅くまで帰らなかつた。

周子は、子供を寝かしつけてから、灯火を低く降して習字をしてゐた。あたりは森閑として、時たまけたゝましい響きをたてゝ走る自働車の音が消ゆると、何処からともなくもう秋の虫の声がした。

「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」

周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。

「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」

突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――)周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。

「もう君、遅いよ/\。」

その声は、遠慮深く、迷惑さうに低いのである。

「僕の家なら好いだらう、借りてる以上は俺の自由だ。」

何処かで追ひ立てられて来たんだな――と周子は思つた。時計を見ると、もう二時に間もない。(借りてる以上――とは何たる馬鹿だらう、卑しい法律書生でも云ひさうなことだ、法律書生なら安眠妨害といふ罪を知つてゐる、小田原の漁師のやうだ。)周子は、カツとして机を叩いた。

「止さうよ/\。」

「もう少し芸術の話を続けよう。」

(チヨツ/\!)周子は強く舌を鳴した。

「芸術の話ならしようか。」

「そして、歌でもうたはうか。」

「歌は御免だ。」

(あたしばかりぢやない、誰だつて参つてゐるんだ。)周子はさう思ふと、ちよつとその人も入つて来れば好いがなと、思つた。

「さア行かう/\、担いでツてやらうか。」

「担げるものか。」

「担げるとも。」

「ぢや担いで見ろ。」

「よし来た。――何でエこんなもの、……よウいこら! よんやこら。」

ガタ/\と具合の悪い戸を開けたり、桓根に突き当ツたりしながら、滝野は周子の見知らない客を伴れて入つて来た。滝野の胸は、裸体に近い程はだけてゐた。

周子は、丁寧に客に挨拶して、迷惑を詫びた。いつも行き来してゐる酒飲みの友達ならさうもしなかつたが、その日の客は余り酒にも酔つてゐないらしく、身だしなみの好い洋服を着て、胸にはボヘミアンネクタイを房々と結んでゐた。話の様子で察すると、滝野の学生時分の知人らしく、そして有名な詩人であるらしかつた。

「あゝ、夜は更けた、もう間もなく秋だ。」

食卓の前に坐ると詩人は、溜息のやうな嘆息を洩して、長い髪の毛を掻きあげた。周子は沁々と詩人の様子を打ち眺めて、いゝな! と思つた。

「久し振りに会つた滝野に、今日は酷い目にあはされました。」

「あなたは、そんなにお酒なんてめしあがれないんでせう。」

「えゝ、甘い西洋酒位いのものです、夜仕事をする時には、上等のウヰスキイを少量、二三滴紅茶に滴します、さうすると繊細な神経が青白く輝きます。」

「まア、好いですわね。」

「僕は、夜といふものに対して不思議な感覚をもつてゐます。」

「――」周子は、解るといふ風に点頭いた。解らないのだが、さうしないと軽蔑されるやうな惧れを感じたから。

「滝野、君も古くから昼と夜とを転換してゐる生活を持つてゐるらしいが、君はどうだ、君は、昼と夜と、どつちの世界にほんとうの自分自身の姿を発見する?」

「僕は――」滝野は突拍子もない声を挙げたが、そのまゝグッグッと喉を鳴して口ごもつた。

(態ア見やがれ)周子はそんな気がした。そして滝野は、ごまかしでもするやうに盃の手を早めながら、周子を顧みて、

「おい、酒を早く、酒を早く――。何だ斯んな処へ出しやばつて――」と叱つた。

「芸術の話をしようといふから、寄つたんだよ。」

「僕に出来ることは何だらう。」滝野はまたもごまかすやうに話を避けて「斯う生活も気分も行き詰つてゐては何うすることも出来ない、何かを沁々と習ひたいものだ。」などゝ上ツ調子に喋舌つた。「君は、さつき何とか君の愛誦する詩を朗吟したな、何だつたかね、もう一辺やつて見て呉れ。」

「ヴヱルレーヌの秋の唄だよ。」

「あゝ、さうさう、すゝりなくヴァイオリンの音とか云つたね。」

「ヴ※オロンだよ。――君、西洋音楽でも習つたらどうだ。」

「好ささうだな。」

「それが好い/\、あたしも一緒に習つてもいゝ。」と周子が云つた。

詩人が帰つてしまふと、滝野は何となく不機嫌だつた。そして、更に独りで酒を飲み続けた。

「ほんとうにあなた、西洋音楽でもお習ひなさいよ、此処を引ツ越したら。」

「まア考えて置かうよ。――さて、ひとつ歌でもうたはうかな。」

「遅いんですよ/\、それに昼間の約束を忘れやしないでせうね。」

「あの歌でさへなければ、好いだらう。」

夫がさう、きつぱりと云ふと周子は一寸好奇心を動かせた。(あの他にどんなことを知つてゐるだらうかな?)

「家の中でゞも自由が許されないといふのか。昼間も家でのう/\とするわけには行かないのか、運動の為に逆立ちをするのが何が悪い。」

「みつともないですよ、運動なら運動らしいこと、歌なら歌らしいこと……」

「くどいぞ! ……あゝ、酔つた/\。」

わけもなく滝野は、そんなことを云つた。「馬鹿にするない。」

「あゝいふ風に心が曲つてゐる!」

「何だつて出来るぞ。」

「ぢややつて御覧なさい、勝手におやりなさい――だ。」

滝野は、ふら/\と立ちあがつた。「よしツやつて見よう。踊りでも踊つて見ようか。」

「トンボ踊りは御免ですよ。」

二人とも喧嘩口調で、そんな馬鹿/\しい会話を取り交した。トンボ踊りといふのは、滝野が酔つた時自分で出たらめに名付けた出たら目の踊りで、口笛を吹いて、両腕を延して、爪先で立ちあがり、漫然と部屋のなかを彼方此方に浮遊する割合に静かな遊戯だつた。遊戯中に、首全体を蜻蛉の眼玉になぞらへてクリクリと回転させたり、軽く尻もちをついて、蜻蛉が水の上に産卵する光景を髣髴させたり、高く舞ひ、翻つて低く飛び、鳶の如く悠々と翼を延し、黙々として青空の下を遊泳する趣きを、見る者に感ぜしめるのだつた。

立ちあがつた彼は、その得意の舞を演ずるつもりだつたが、拒絶されたので、はたと行き詰つた。

「それぢや俺は、一体何をやつたらいゝんだ。」

彼は、口を突らせて不平さうに呟いた。

「知りませんよツ! あゝ、眠い/\。」

「歌はあれより他に知らないんだ。踊りもそれより他に知らないんだ。それがみつともないとされては、一体俺は如何すればいゝんだ。」

「煩い/\、酔つぱらひ。だから立派なことをお習ひなさい。」

「折角この俺が、面白い歌をうたひ、愉快な踊りに耽らうとするのを、碌でもない批評をして、恍惚の夢を醒さうとするのか?」

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