一
玄奘三蔵法師が或日、孫悟空に向つて、
「汝の勇と智は天上天下に許されてゐる、天の魔も地の鬼も、汝の黒一毛にも及ばない。かゝる大智大勇と非凡な妖術とを有しながら、何故天下を領せんとせず、仏門に帰つて、それも余が如き力量もなく妖術も弁へぬ小法師に従うてゐるのか、その理由がきゝ度いのだ。」と問うた。すると悟空は立処に、
「勇や智は如何程あらうとも、それはこの身が存命の間だけに限られたもので御座いませう。悟空の身が滅びた時には、天地を破る此如意棒も棄てられた縫針にならねばなりません――。
のみならず悟空の智はもとより猿の智で御座います。」と悲しさうに答へた。
「ならば、汝は天地に説いて万世に遺さうと望むのか。」
「どういたしまして。
私は卑しい猿で御座います。決して説く力は持ちません。」
「説く力量の無いことを自分でよく承知してゐるのか。」
「はい、よく承知いたして居ります。」
「ハッ……ッ。」玄奘は突如、呵々と打ち笑つた。
「祖師様!」と、こゝで悟空は、今迄の調子は諄々としてたゞ己が持つてゐる「あきらめ」を苦もなく答へてゐるのであつたが、悲痛な声に一変して、(こんなくだらない事は他人に取つては、まるで取るに足りない愚なことで、自分もそれはよく知つてゐるのだから、と思ふ度毎に同時に打ち消してはゐたのだつたが、この瞬間にはその臆病な愚かな理性を忘れてしまつて……)「祖師様」と叫んだ。「何をお笑ひになりますか。悟空は勇あつて説く術を知らざるを真心から悲しんでお訴へ申してゐるのではありませんか。」――。
悟空は涙を流してゐた、が、ふと、恥入るやうな体で、而も玄奘の顔を凝と瞶めながら、「それとも、この猿奴の悲しむ顔付が可笑しうてお笑ひになるので御座いますか。」と息を殺して玄奘の顔を見上げてゐる……。
「何で汝の顔などを笑ふものか。」と玄奘が答へると、
……悟空の悲嘆の色は、みるまに消えて、
「それでは何の為に。」と追求はしたが、今の愚問を冷静に玄奘が聞いてゐる事と、同時に己の顔の醜さを笑はれたのではないと云ふ事が解かつたので、もう先の問答など、どうでもいゝやうな気がした程安心し落着いて了つた。(が、安心し乍らも、何とまあ俺は他合もない奴なのだらうかな、と思つてゐた。)
「汝の云ふ事が余りに矛盾してゐるから可笑しうなつたのだ。説くことを求めぬ者が、何も非凡な妖術を押へて他人の許に従うてゐる用はないではないか。汝の妖術が汝一代で滅するといふことを知つてゐるならば、思ふが儘に暴れ廻つて悪魔共を征服し、悟空の王国を建てるは容易なことではないか。」
「若し私が猿でなかつたら必ず王になつてお目にかけますが。」
「然し汝よりも数等醜い妖魔共が到る処に王となつて、縦な快楽に耽つてゐるではないか。」
「それは私もよく存じて居ります。然し私が思ひますには、悪魔共がいくら王座にをさまつてゐても、あの見苦しい姿体と顔貌の所有者である以上は到底心からの満足を得てゐる者ではなからう、と信ずるのであります。」
「汝は美女に愛さるゝのが本望なのか。」
「決して左様なことはありません、私は自分の姿の醜さを知つてゐる限り、寧ろ心に邪淫を思ふ時は恐ろしくてなりません。」
「では何のために生きてゐるのか。説くも求めず快楽も求めず、一生従者で犬の如くに死んでもかまはないのか。」
「仕方がない、と思つて居ります。」
「何故。」
「私は犬と同様なのです。なまじ猿が通力などを得たことが、反つて異様な醜さを赤裸にしたやうなものです。私は私自身が如何に不幸な運命の下に生れたかをよく存じて居ります。私は山猿で居度う御座いました。」
「……」玄奘は悟空の胸を察して、美しい眼瞼を伏せて黙した。悟空は卑しげな眼を窃に挙げて、恍惚として玄奘の顔を眺めるのであつた。
稍暫く経つて、「祖師様!」とまた悟空は悲しげに叫んだ。
「私の真心を申し上げてしまひますから決してお笑ひ下さいますな、愚かな従者をお持ちになつた祖師様、祖師様のお嘆きは悟空の罪で御座います。――私は、今申し上げた通りこれと云つて何の望みもありませんが、実はその……私は、……。
私は祖師様の、どうぞお許し下さい、その美しい眼、麗はしい顔、黒い毛の一本もない真白いお姿、整つた五体……それが何よりも羨しいのです。で、私は、たゞかうして祖師様のお顔を拝してゐられることだけが私の唯一の快楽なのです。」悟空は額を地に伏せて涙ながらに云つた。
「さうか。」玄奘は冷やかに答へた。
「私は、今迄随分と衆生を済度して参りました、がかう申し上げたらお怒りも御座いませうが、私は決して仏教に帰依する者として動いたのでありません。
せめて私の卑しい悲しみに、あはれな喜びを与へたいがために――醜い悪魔共を征服して、私より美しい凡ての人間を救つて来たのです。若し悪魔の方がより美しかつたら決して私は彼等の敵とならなかつたで御座いませう。」
「私は汝を責めぬ。汝の正直を讚へる。如何なる慾から出たかは知らぬこと、兎に角汝は衆生を済度してゐることは事実だ。衆生のために栴檀功徳仏を希うて苦しみ給うた大釈尊も、万物の喜悦を見られ度いがためになされたのだ。吾も万難を犯して西天竺へ行くはみな本心から出た慾なのだ。(かう云はれても悟空には少しも解らなかつた、釈尊の心も師の心も想像出来なかつた。)何か慾がなくて動くことの出来るものではない。衆生済度に働きながらも尚その裏に動く慾心を正直に悔ゆるところは他人の真似の出来ぬ徳であらう。」玄奘は説き続けたが、悟空の悲しみの色は消えさうにもなかつた。終ひには「こりやどうも、おだてられてゐるのだか、憐れまれてゐるのだか、讚められてゐるのだか、或は度し難き馬鹿と見限られてしまつたのか、いや屹度さうに違ひない。」となど思つたりした。