Chapter 1 of 3

「まア随分暫らくでしたね。それで何日此方へ帰つたの?」

河村の小母さんは、何の挨拶もなく庭口からのつそりと現れた純吉を見つけて、持前の機嫌の好さで叱るやうに訊ねた。

「四五日前……」

純吉はわけもなくにやにやしながらうつかりそんな嘘を吐いた。

「だつて学校は余程前からお休みだつたんでせう?」

「えゝそりやアもう七月の初めから休みだつたんですが、一度此方へ帰つて来て――」

何かうまい口実は見つからないものかと彼が思ひ惑うてゐるうちに、好いあんばいにせつかちな小母さんはそんな話題にこだはつてはゐず、

「ともかく此方へおあがりよ。今日はもう朝から忙しくて/\、やつと今片づけたところなんです。」といひながら、座敷の障子を明け拡げた。

純吉は縁側に腰を降した儘、煙草を喫しながらぼんやり広い庭を眺めてゐた。深く繁つた泉水のまはりの樹々のなかゝらは無数の蝉の鳴声がひとつに溶け合つて、喧ましい夢のやうに周囲の静かな空気をふるはせてゐた。

「旅行にでも出掛けるんですか?」

「旅行? そんな楽しみぢやないんですがね――」といつた小母さんは楽しみらしく、声色に意味あり気な甘味を含ませた。

拙いことをうつかり訊いちやつた! と純吉は後悔した。……みつ子だな――純吉は直ぐにさういふ想像を拡げた。

「清一が明日名古屋へ行くんで――」

「あゝ名古屋ですか。」純吉は口ばやく繰り返して、努めて邪念なさ気に点頭いた。名古屋といふのは勿論みつ子の代名詞なのだ。

さて斯うなると何かみつ子に関するお世辞をいはなければなるまい――純吉はそんなことを思つて、それが非常に厄介な気がした。

「みつちやん別に変りはない?」

「えゝ、変りはないが相変らず我儘でね……」

「ハッハッハ。」純吉はいかにもこの家庭に特別の親し味を持つてゐる者のやうな素振で、小母さんに調子を合せた。我儘でね……も何もあつたものぢやない、この子煩悩の愚かな母親奴! 純吉は肚でそんなことを思つた。

「斯んなに此方から行く時は食べ物ばかしを持つて行く……」

小母さんは笑つて、座敷の隅の品物を指差した。

「子供は?」

「いゝあんばいに大変丈夫ださうです。」

「みつちやんが、阿母さんになつたかと思ふと何だか可笑しいなア。」

「そんなことをいつたつて純ちやんだつて、今にすぐお父さんですよ。それはさうと学校は何時卒業?」

「未だ、未だ。」純吉は何の興味もなく呟いた。まつたく彼は、そんなことは大変茫漠とした謎のやうな気がして、そんなカラお世辞をいはれると煙のやうな頼り無さを覚ゆるばかりだつた。彼は、苦い顔をして泉水の水を眺めてゐた。――今迄は古いなじみの為か何の気にも懸らなかつたが、みつ子が居なくなつてからは、親類でも何でもないみつ子の母親のことを今迄通り小母さん/\なんて称ぶのも妙な気おくれを覚えた、さう思ふと此家に来ることも酷く面倒で、加けに小母さんと斯んな会話を取り交すのは何よりも退屈な気がしてならなかつた。

「やア失敬、暫く。」

湯あがりらしく艶の好い顔を光らせて、清一が出て来た。

「やア、暫く。」純吉は努めて愛想よく微笑んだ。此奴拙いところに来やがつた――清一が自分のことを一寸さう思ひはしなからうか? 純吉はそんな邪推を廻らせた。

「姉さんが此間手紙で、君によろしくといつて寄越した。」

「あゝ、さう。僕からもよろしくいつて呉れたまへ。」さう答へて純吉は、よろしくとは一体何たることだらう、馬鹿気たやりとりだ、などゝ思つた。それにしても清一の口から自分の消息を聞いて、彼奴まだ相変らず口先ばかし元気なことを喋つてぶら/\まごついてゐるのか! みつ子がそんなに思ひはしないだらうか、などゝ純吉は想像して冷汗を掻いた。

「純ちやんは此頃家に遊びに来るかなんて訊いて寄越した。――だが此頃少しも遊びに来ないんだね、学校の方が忙しいの?」

「あゝ、学校はあまり忙しくもないがね、滅多に此方へ帰らないんだよ……」

さういつて純吉は思はせ振りに、卑しい笑ひを浮べた。

「面白いだらうね、東京の学校は?」人の好い清一は、学校へも行かず家の業を継いだ自分の身を喞つやうに寂しく訊ねた。

「なにしろ彼方に居ると友達が多いからね。」純吉は、そんな出たら目を喋つた。彼は東京には一人の友達もなかつた。碌々学校へも通はず、多く下宿の二階に転々して暮しながら休暇を待ち構へて帰るのだつた。

夜になつてから純吉は、清一を誘つて酒を飲みに出かけようかと思つたが、口先だけの遊蕩児である身の程を顧みて、うつかりするとそんな処で清一に出し抜かれる怖れを慮つたから、到頭終ひまで、出かけようとは口に出さなかつた。

「一二年前の方が面白かつたね。」

清一がさういつたのは、みつ子が居た頃といふ意味だつた。

「そんなこともないさ。思ひ出すといふ感傷は、何に依らず愉快に思はれるものだがね、さういつて、現在と過去とを思ひ比べてゐることは愚かなことだ。」純吉はいかにも自分は理性の勝つた者であるといふ風に、そして現在だつて面白いことがあるといふ意味を仄かに知らせるつもりだつた。清一は純吉に好意を示すつもりで云つたのだ。それを純吉が邪まに解釈したのでイヽ加減な笑ひでその場を紛らせた。……さうはいつたものゝ純吉の心は極めてもろい感傷に陥つて、切りにうとうとと過ぎた日の追想に耽つてゐた。

「そりやアさうだね。」清一はきまり悪さうに呟いた。

「だが……」純吉は云ひかけて息の塞る思ひがした。

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