一
鶴子からの手紙だつたので彼は、勇んでY村行の軽便鉄道に乗つた。勇んで――さうだ、彼は、ちよつと自分の姿を傍から眺めて見ると、あまり勇みたち過ぎてゐる自分が癪に触るほどだつた。
何とまあ自分は気の毒な慌て者だつたことだらう――彼は辛うじて間に合つた汽車の窓に腕をのせて、真盛りの莱畑を眺めながら、あんな手紙位ゐでこんなにも一個の人間が有頂天になるものか! などゝいふ風なことを自分に対して何といふこともなしに皮肉に考へたりしたが、そんな想ひは窓先を寄切る白い花片のやうに一瞬の間に消え去せて、凄じい車輪の響が、そのまゝ凄じく彼の胸で歓喜の響を挙げてゐるだけだつた。
この汽車の時間に間に合せるまでの彼の騒ぎといつたらなかつた。はじめは学校の制服で出かけたのだつたが、不図思ひ直すと、彼は大いそぎで、とつて返して、新しい春の背広服に着換へたりしたのである。腕時計を見ると、この汽車に十分しか間がなかつた! 彼は、ワイシヤツ一枚で、上着を抱へたまゝ外へ飛び出すと、靴音荒く奔馬のやうにポンポンと走つて停車場に駆け込んだのだつた。そして、笛が鳴つて、徐ろに滑り出した車に鳥のやうに飛び乗つたのである。
菜畑の向ふには海が青々と晴れ渡つてゐた。走つてゐるのか、滞つてゐるのか、何うしても見境のつかない小舟が点々として落葉のやうに青海原に散つてゐた。崖道に添うて走つてゐる汽車が、曲り角に出会ふ度ごとに景気のよい汽笛を挙げると、菜畑の中から小鳥が飛びたつのが見えた。それほどこの汽車は崖道になればなるほど歩みがのろくなるのであつた。この汽車は、曲り角や急勾配に来るとしば/\脱線するのが珍らしくなかつた。車が脱線すると、車掌が凡そ狼狽の気色のない調子で車中の客に向つて、皆さん、どうぞ、ちよいとお降りを願ひます、陽気の加減かまた/\車が脱れました――こんなに長閑な天気の日だと、車掌はこんな冗談などをいつたりするのであつた。そして、機関手と火夫と車掌と、そしてこんな場合には屹度一人の義侠心を持つた客が現はれるに決つてゐる――四人が力を合せて、車体をおすと、一息で脱線は治つてしまふのである。十人乗れば満員の札を掲げる汽車だつたから――。
春の休みで帰つてゐるのなら何故鶴子はもつと早く知らせて寄こさなかつたのだらう? 今日から鎮守様のお祭だから遊びに来ませんか? なんて、何と白々しい、巧な、意地悪な、礼儀正しさだらう……。
あんな手紙に憾みごとを述べてやらう! などゝ彼は思つた。何も彼も、彼は、甘く、切なく、嬉しかつた。
「帰つたら直ぐに手紙をくれるといふ約束で、わざと僕達は別々に帰つて来たんぢやないか!」と、軽く不平さうな顔を示してやらなければならない――などゝ彼は思ふのであつた。
「僕は、お祭なんかに招ばれたくはなかつたのに――」
「だつて、あなただつてお手紙をくれなかつたぢやないの、新橋まであたしを送らせたりしてゐながら……」と鶴子は攻め返すに違ひない――などゝ彼は、ゴロ/\と鳴る車輪の響に安心して、鶴子の声色を呟いて、夥しく胸をときめかした。
「寄宿舎にあてゝは、矢ツ張り僕は手紙を出す元気は出なかつたんだよ。……僕は、あれから手紙は三つも書いてゐる、その一つを今日、今、此処に持つてゐるよ。」
彼は、チヨツキの内かくしのポケツトをおさへながら妙な挙動と一緒に呟いた。
「それ頂戴――」と彼は、戯曲を朗読でもするかのやうに、女の科白を続けるのであつた。
「はじめは、そのつもりで持つて来たんだけれど、もう、あげる必要はなくなつてしまつた。目の前で読まれるのは困る……」(と僕は思はせ振りな、様子を示してやらう。)
「後で読むわ、頂戴よ!」(と可憐な彼女はいひ張るに違ひない。)
「厭だ/\。破いてしまはう。」(こんなことをいつて逃げ出すと、飽くまでも彼女は追ひ縋つて来るに違ひない――鶴子の書斎で、僕は卓子のまはりをグル/\と逃げ廻つたり、庭先の芝生に逃げ出したりするのだ。そしてよい加減疲れて、つかまつたら、焦れ抜いた彼女は何んな風に僕を酷い目に合すことだらう、あの乱暴者は――)
「御免だ/\! あやまつた/\!」
彼は、切なさうに身悶えして、そんなことを叫んだりした。
石ころにでもあたつたやうな音がすると同時に車が突然止まつた。停車場かしら? と思つて彼が顔をあげて見ると、蜜柑畑に挟まれた蔭の豊かな小径だつた。
「おや/\、今日は馬鹿に具合がよいと思つてゐたらたうとうこんなところで脱線しやがつた。」
「おぢさんや、眠つてゐちやいけねえよ、車が脱れたゞとよう、ちよつくら降りてくれとよう。」
「何てまあよく眠つてゐるおぢさんだらう、ぢや、まあ、ひとり位ゐはそのまゝだつていゝだらう。こんないゝ陽気で、うと/\としてゐる人を起すのも気の毒ぢやないかね。」
彼が車の一角を持ちあげる役目を引きうけた。彼は力に自信がなかつたから、十分な心構へをして真先に腕を伸ばしたが、まだ彼が何んな力も込めないうちに、ガタンと箱車が動いて、車はもう線路に乗つてゐた。――あまり眺めがいゝから、この辺でちよいと一服しようではないかと、老人の乗客が提議すると、機関手も車掌も傘のやうな蜜柑の樹の下に腰を降ろして煙草をふかしはじめた。
丘の中腹にあたつた蜜柑畑なので、小さな左右の岬に抱き込まれた岩石の多い海が泉水のやうに見降ろされた。もう村の子供達が素裸になつて、岩から岩を飛び渡つてゐた。
子供の火夫が、いたづらに警笛を鳴らして休息者を驚かせたりした。
彼ひとりが車の中で腕を組んでゐた。