Chapter 1 of 4

私は夏の中頃から、鬼涙村の宇土酒造所に客となつて膜翅類の採集に耽つてゐた。私は碌々他人と口を利くこともなく、それで誰かゞ私の無愛想な顔を蜂のやうだと嘲つたが、全く私は眼玉ばかりをぎろ/\させて口を突らせ、蜂のやうに痩せて、あたりの野山を飛びまはつてゐた。

或る朝私は靄の深い時刻に起き出て、先達うちから山向うの柳村の鎮守社の境内に半鐘型のスヾメ蜂の巣を発見しておいたので、その後の状態を観察しようとして面紗や皮手袋を用意して、酒倉の脇を抜けようすると、馬に荷を積んでゐたひとりの若者が、これから山向うの竜巻村まで赴くのであるが、帰途に空樽をつけて来るためにゼーロンを空身で伴れて行くから、途中まで乗つて行かないかと云つた。ゼーロンとは私が五六年も前に抽象的に名づけた酒倉の老荷馬であるが、そして私の空想ではドンキホーテのロシナンテにも匹敵すべき私の愛馬であつたが、実際では少しも私に慣れてゐなかつた。私はそれに勝手にそんな名前をつけ、永年の間夢に慈しみを寄せつゞけてゐたせゐか、目のあたりでは一向私に親しみもせず、加けに臆病馬で、虻が一尾腹にとまつても激しく全身を震はせて飛びあがつたり、牝馬に出遇ふと己れの廃齢たるも打ち忘れて機関車のやうに猛り立つたりする態に接すると、悲しみともつかぬ憎念に炎ゆるのであつた。だが永い間の私の「ゼーロン」に寄せる感傷性は、やがて人々の間でさへ認められて稍ともすると彼等は、その鞍を私にすゝめるのが習慣だつた。

私は、内心可成りの迷惑を感じて、

「いゝえ、要りませんよ、たくさんだよ。」

と手を振つたが、若者は、それを、私がすゝめられる酒を辞退してゐるものと感違ひして、馬の方はもう問題の他にして、

「竜巻の権五郎へ持つて行く新酒なんだから、ともかくまあ出がけの祝ひをつけてお呉んなさいな。」

と枡をつきつけると、朱塗の酒樽を傾けてこんこんと音をたてた。私は稀に故郷の近くに戻つてゐるものの生家へは足踏みもせず、斯んな草深い田舎で蜂を追ひかけてゐるといふのには、云ふべくもない暗鬱な情実におさへられてゐるのでもあつたが、うつかり酒の酔などに駆られると碌でもない因果観念の塊りが爆発して世にも浅猿しい青鬼と化す怖れがあつたので、堅く酒盃を慎んでゐたのであるが、祝ひの新酒ときくと口にしないわけには行かなかつた。

川面の薄靄が颯々と消えて、川向うの櫟林には斑らな光りが洩れてゐた。ゼーロンは光りの方へ尾を向けて、後脚で切りと土を蹴つてゐた。

「ふざけるない、土竜の無精馬奴、びんた一つ喰はさうかえ。」

若者はゼーロンを罵つて、二三日前に田原の町まで荷をつけて行つたところが、大した重さでもないのにまるで脚どりがひよろ/\して危うく酒をこぼされさうだつた、稀大の横着馬である故に、空樽より他には載せられないなどゝ述懐した。

ゼーロンは、突然歯をむき出すと、鼻つまりのやうな鈍重な声で醜い嘶きを発した。その得意な嘶きを耳にすると何時も私は、力一杯に「びんた」の衝動に駆られるのが常だつたが、変なハズミから他人前では特に私はゼーロンを信じてゐるといふ風になつてしまつてゐるので、別段に憎い眼つきもしなかつたし、また蔭ではゼーロンよりも寧ろ私の方が臆病で、どちらかと云へば私の方が遠まはしに老馬の気嫌を窺ふ位ゐであつた。何ういふものか、いや、それは私の心底に真の愛情が湧かぬ為だらうが、如何ほど私が奴の空機嫌をとつても一向に慣れるけしきもなく、その憎態な嘶きで飼手を飛びあがらせたり、尻尾の房で面体を振り払つたりするばかりであつた。

「それでもまあ、手前えのやうなビツコでも好興なお方もあつたもので、わざ/\東京から可愛がりに来て呉れるとは……」

祝ひ酒でほのぼのとした若者は、そんな冗談を呟きながら老馬の背中に鞍をつけてゐた。好興なお方とは私の意である。仔細に検めぬと判別し憎い程度であるが、ゼーロンの後の左脚は大腿の関節が自由でなかつた。

私は、若者が口先ばかりで終ひにびんたを試みなかつたのが遺憾であつた。あの若者の団扇のやうな平手が、どす黒いゼーロンの頬骨に景気よく響いたら、何んなに目醒しいことだらう――私は、左うおもふだけで胸先がうづき、その想ひを晴らし損つた向つ腹が胸一杯にくすぶつてしまつた。

Chapter 1 of 4