Chapter 1 of 4

おそく帰る時には兵野は玄関からでなしに、庭をまはつて椽側から入る習慣だつたが、その晩は余程烈しく泥酔してゐたと見へて、雨戸を閉めるのを忘れたと見へる。

朝、階下の者が慌しく兵野の寝部屋をたゝいて、

「盗棒が入りました。」

と呼び起された。

主に兵野の衣類ばかりが紛失してゐた。彼は酒呑みで、着物のことには殆んど頓着なかつたから、それらは主に彼の亡くなつた父親からのものばかりであつた。着物の他には、彼の中古のソフト帽と金時計とステツキが見あたらなかつた。金時計とステツキは、やはり父親からのもので、時計は太い金の鎖が附いてゐる古型のもので、兵野には似合しくなかつたから一度も使用したことはなかつたし、またステツキも小柄の兵野には凡そ不適当の太い籐のもので、握りにはきらびやかな獅子頭が附いてゐるといふ風な老紳士用のものだつたから、ついぞ兵野は持出したこともなく箪笥と壁の隙間に倒し放しになつてゐたものである。

「でも、一応、交番へ届けておきませうかね。」

「――止めておかう。」

と兵野は云つた。「僕は、もう何うせ和服は着ないつもりだから……要らないよ。」

兵野は、さういふことには(もつとも、はぢめてのためしではあるが――)ほんとうに恬淡であつた。惜しいとか、残念だつたとか、そんな心持はみぢんも起らなかつた。

自分は何うであらうとも、盗難に出遇つた場合は届け出をしなければ法に合はない――とか、大きなことばかりを云つてゐたつて何うせ着物なんて買へやしないのだから届けておいて、万一戻りでもすれば幸せぢやないか――などゝ、兵野の細君と、大学生の松田達が切りと、不満の煙りをあげてゐたが、

「ぢや、何うでも君達の好きなようにしといて呉れ――」

兵野は、左う云ひ棄てゝ慌てゝ二階へ駆け戻ると、こんこんと眠つてしまつた。

その後、その話は兵野のうちでは誰も口にしなかつた。無論、兵野も忘れてしまつた。

そして、一年ばかりの時が経つた。

兵野の酒は、だんだんたくましくなつて帰りの遅い晩が度重なつてゐた。

或る晩彼が――いつものやうに銀座裏の酒場で十二時となり、郊外へ戻つて来たが、何うも飲み足りないので、途中の、場末の露路らしいごみ/\とした横町で車を降りてから、あちこちを物色すると、未だ、中から呑介連の声が切りに響いてゐる居酒屋を見出したので、雀躍りをして飛び込んだ。

中は、仲々の盛況で、二坪ばかりの広さのところに細長いテーブルが二列に並び、学生風の男が二人と、飯を喰つてゐるカフエーの女給風の二人伴れと、奥の隅で数本の徳利を眼の前に並べた中年の会社員風の男と、その他、未だ二三人の商人風の人達が、夫々さかんに盃をあげて、談論の花を咲かせてゐる最中であつた。

「お君ちやん、ちつたあ俺のところに来てお酌をして呉れよ。淋しいからなあ!」

さう云つたのは、最も多数の徳利を並べてゐる会社員であつた。彼は、それほど多量の酒を傾けてゐるにも関はらず、別段、饒舌にもならず、ほんとうに淋しさうに、ぼんやりと天井を眺めたり、腕組をして凝つと想ひに耽つてゐる様子であつた。

お君ちやんと呼ばれた娘の方を兵野が眺めると、丈のすらりとした細おもての、髪を桃割れに結つた、一見、場末の雛妓風に装つた小娘が、おでんの鍋の傍らで燗番役をつとめてゐた。

「お酌に行かないと、泣く? 堀田さん――」

「そんなことを云つて呉れるな、お君ちやん――俺は、ほんとうに淋しいんだからな。」

「そろそろ、はぢまるの――堀田さん見たいな我儘な人つたらありはしないわ。人はね、誰だつて皆な淋しいのよ、それを誰だつて我慢してゐるだけのことなのよ。」

「さうかな……」

と、堀田と称ばれた男は娘に酌をされながら、意見でもされた子供のやうにがつくりとして、盃を宙に浮べたまゝ考へ込むのであつた。

「その理屈が、何うしても僕には解らないんだ……」

「理屈ぢやないわよ。貴方は法学士のくせに、そんなことも解らないの。」

「淋しい/\、無性に淋しい、理屈も何もなくしんしんと僕は淋しい。そして僕には、世間の人は皆な面白さうに見へて仕方がないんだ。」

体格は仲々堂々たるもので、肩のいかり具合などは柔道の心得でもあるらしく、眺められたが、その堀田の音声は、あのやうな感傷的の言葉を吐くのに最も適してゐるかのやうに細々として、笛の音に似てゐた。

その声を耳にしてゐると兵野も、泥酔にちかい状態であつたせいか、思はず釣りこまれて沁々としてしまひさうであつた。

「いつたい人間が、――これほど分別ざかりの一個の男の胸中が、斯んなにも間が抜けてゐて、斯んなに頼りなくて、たゞ、もう、無性に、斯んなに悲しくつていゝものかしら――そんなことで何うなる……」

娘は、横を向いて欠呻を噛みころした。――堀田の声が、厭に冴え冴えとひゞくと気づいて兵野があたりを見廻すと、いつの間にか其処にゐた客達の姿はひとりも見あたらなかつた。

「お君ちやん――お酌だ、飲んで、飲んで、僕は、この寂しさの奈落に真ツさかさまに落ち込むのが本望さ。」

「あら、とう/\、泣き出してしまつたわ、厭な堀田さんね。」

「泣く堀田は嫌ひか、お君ちやん――」

真実、堀田の両眼からは珠のやうな涙がさんさんと滾れ落ちた。――兵野が、堀田の有様を眺めたとこによると、決して彼は、そんなことを云つて娘の甘心を誘はうとしてゐるのではなくて、心からなる人生の寂莫を誰にともなく訴へて、ひたすら単なる断腸の思ひに切々と咽び入つてゐるのであつた。

「ねえ、君――」

不図堀田は、兵野の方へ盃をとつた腕を伸して、

「まあ、この憐れな男の盃を一杯享けて呉れ給へ、君はさつきから僕の方を如何にも同情に充ちたらしい眼差しで眺めてゐるが、憐れんでゐて呉れるのぢやなからうか――」

と取り縋つた。

「憐れむなんてこともないけれど――俺は、君に好意を感じてゐたところだ。」

兵野が斯う云つて盃を享けとると、突如、堀田はのやうな奇声を挙げて、

「有りがとう、君は俺の友達だ!」

と叫ぶや、いきなり兵野を抱き寄せた。

「苦しいよ、堀田君――まあ、離して呉れ。」

「おゝ、俺の名を呼んで呉れたか、天野君。」

と堀田は狂喜のあまり、思はず兵野を、出まかせの姓で叫んだが、兵野は別段訂正の必要も覚えなかつたので、そのまま、

「君は此処の常連か?」

などゝ訊ねた。

堀田は、途方もなく誇張した言葉で、さめざめと涙を滾しながら沁々と人生の哀感について、兵野に訴へた後に、

「今まで俺の斯んな心持を真顔で聞いて呉れる者は、お君ちやんより他はなかつたが、謀らずも今夜、君といふ同情者に出遇つて斯んな嬉しい事はない。今後、是非とも無二の親友としてつき合つて呉れ。俺は、何だか君が、兄哥のやうな気がして来た。」

さう云つて、しつかりと執つた兵野の手を決して離さうとしなかつた。

「……ぢや、これからもう一切寂しい/\なんていふ譫言を云ふのは止めにして――」

笛のやうな声で、あんなことばかりを繰り返されると、丘野も妙になりさうになつたので、

「元気好く飲もうぢやないか!」

と云つた。

「賛成だ――斯んな春らしい好い晩を、めそ/\してはゐられない。出よう――」

彼は勢ひ好く叫んだ。

あの、お君つて子は、とても感心な娘で、親爺とたつた二人であの店を経営してゐるんだが、近頃その親爺が病気になつて――。

外に出ると堀田は、居酒屋の内幕ばなしをはぢめたが、お君のことに移ると、吐息をのんで、

「僕は、他に野心もなにもないのだが、あの家の為には出来るだけのことを仕度いと思つてゐるのさ。貧乏といふよりも僕は、あの父子の世にも稀な純情に打たれてゐるんだ。世が世なら僕は盗棒を働いてゞも……」

堀田は兵野の肩に凭りかゝつて、夜更けの町を歩きながら、そんな話をした。

「盗棒と云へばね……」

と彼はつゞけた。――「僕は一度で好いから、何うかして監獄といふところへ入つて見たいと思ふんだがね。何処に居たつて何うせ君、この人生は寂しくてやりきれないんなら、いつそ監獄に囚はれたら、寧ろどつしりとした落莫の底に落着きを見出せて、屹度得るところがあらうと思ふんだ。僕は、そこで一篇の詩をつくりたい……」

「君は詩をつくつてゐるの?」

「詩人なんだ、僕は――」

堀田は亢奮の声をあげて、

「牢屋へ行きたい、牢屋へ行きたい――」

などゝ叫んだ。

兵野は吃驚りして、慌てゝ堀田の口腔を塞いだ。

もう町は一帯に寝沈まつて、霧が深く閉してゐた。

「もう何処まで行つたつて、起きてゐさうな店なんてなさゝうぢやないか、別れるとしようか。」

兵野は、少々白々しくなつて、ためらひだすと、

「なアに、これから僕の住家まで行つて、明方まで飲むんだ。」

堀田は、しつかりと伴れの腕をおさへたまゝ車を呼び止めた。

兵野は、車に乗るといち時に酔が発して、うとうとゝしたので、車が何処を何う走つて、何処で降りたかもうろ覚えであつたが、醒めて見ると、小机を前にして盃を執つてゐる堀田が、

「やあ、醒めましたかね。寒くはありませんでしたか。風邪でも引かせては大変だと思つて随分心配しましたよ。」

と、急にいんぎんな言葉に変つて、にこにこと笑つてゐた。

薄暗い電灯が一つ燭つてゐる屋根裏のやうな部屋だつたが、其処此処に散乱してゐる様々な道具類は凡そこの部屋にふさはしくない豪華なものばかりであつた。大型の紫檀の書棚には金文字の洋書が隙間なく並んで上段には中世紀の海賊船の模型や銀の燭台やらが並んでゐるし、一方の飾棚を見あげると数十種の洋酒の壜が四段、五段と隙間もなく並んでゐる。

兵野が起きあがらうとすると、

「そのまゝ、どうぞ、それにくるまつてゐて下さいよ。」

堀田は、立ちあがつて来て毛布で丘野をくるんだり、薬をさしあげませうか、とか、水なら、それそこに、今私が汲んできたばかりのがある――とかと、その細心の親切振りはまことに至れり尽せりといふべきであつた。

この男の寂しがりの歌にあてられて、すつかり参つてしまつたと見へる――兵野は、さう思ひながら、唐草の切子になつた古風な硝子の水差からがぶ/\と水を呑んだ。いくらか醒めて見ると兵野は、大分てれ臭くなつて、脇を向いて酒の壜の並んでゐる棚を眺めてゐた。

「どれでも、よろしいのを御遠慮なく召しあがつて下さいませんか、お望みなら私がシエカアを振つてお目にかけませうか、私はひと頃欧洲航路の船でバア・テンをやつてゐたこともあるんですから、腕は相当自慢の値打ちがあるつもりなんですがね。」

云ひながら堀田は、新しいウヰスキイの栓を抜いて、益々愛嬌よく兵野にすゝめるのであつた。

「それとも酔醒めの口あたりにはアブサンが好いでせうかな。」

兵野は酒の智識に欠けてゐたので、ぼんやりしてゐると堀田は、いとも小器用な手つきでまた別の壜の栓を抜いたり、水のコツプを並べたりしてもてなすのであつた。

さつき居酒屋の娘から、あなたは法学士のくせになどゝ云はれてゐたがバア・テンダアの経験があるなんて、仲々の苦労人と見へるな――と兵野は思つた。

もともと一般の酒呑みの通有性で、醒めたとなると人一倍遠慮深い兵野は、歓待されゝばされる程気まりが悪くなつてきてやりきれなくなつたので、一気に酔つてしまはう、そして酔つた紛れに辞退しようと覚悟して、次々にグラスを傾けた。

「やあ、俺は――うちに客のあることをすつかり忘れてしまつたよ。斯うしてはゐられない。折角だが、失敬するぜ。」

暫くして兵野が、そんなことを呟きながら、むくむくと立ちあがらうとすると、

「さうですか、それあ残念だなあ……」

堀田は、深い吐息といつしよに心底から名残り惜しさうに呟くのであつた。――「ぢや、また明日の晩、都合がついたらお君ちやんの家に来て呉れませんか、私は雨だらうが嵐だらうが屹度行つてゐますから……」

「えゝ、行きませう、屹度行きます。」

兵野は、堀田の涯しもない純情味に心からの魅力を感じさせられて、はつきりとさう云ふと勇ましく握手を求めた。

「あゝ、さうですか、必ず、ぢや待つてゐますよ。あゝ、私はもう、明日貴方に会ふことが出来なかつたら、死んでしまふかも知れませんよ。」

余程堀田も酔つた紛れの亢奮に駆られ過ぎてゐたとは云ふものゝ、さう云つてしつかりと兵野の手を握つた時、不図兵野がその眼に気づくと、涙が止め度もなくハラハラと流れてゐるではないか!

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