Chapter 1 of 26

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小説 圓朝

正岡容

夕月淡く柳がくれの招き行燈に飛ぶ禽落とす三遊亭圓朝が一枚看板、八丁荒しの大御所とて、焉んぞ沙弥より長老たり得べけむや。あわれ年少未熟の日の、八十八阪九十九折、木の根岩角躓き倒れ、傷つきてはまた起ち上がり、起ち上がりてはまた傷つき、倦まず弛まず泣血辛酸、かくして玉の緒も絶え絶えに、出世の大本城へは辿り着きしものなるべし。即ち作者は圓朝若き日のそが悶々の姿をば、些か写し出さむと試みたりけり。拙筆、果たしてよくその大任を為し了せたるや否や。看官、深く咎め給わざらむことを。

梨の花青し 圓朝の墓どころ

(昭和癸未睦月下浣於 巣鴨烟花街龍安居)   作者

第一話 初一念

「……」

クリッとした利巧そうな目で小圓太の次郎吉は、縹いろに暮れようとしている十一月の夕空の一角を悲し気に見つめていた。

「……」

目の上一杯にひろがっている夕空がみるみる言葉どおりの釣瓶落としに暮れいろを深めそめ、ヒューヒュー音立ててそこら堆い萩の枯葉を動かしてはしきりと次郎吉の身体全体を吹き抜けていく夕風も、はや夜風といいたいほどの肌寒さを加えてきていたが、懐手をしたまんまその目を動かせようともしなかった。まるで凝結したように佇んでいた。

「……」

だしぬけに向こうの上野の御山の方から、北へ北へと鳴きつれてゆく薄墨いろの雁の列があったが、一瞬チラと目をくれただけで次郎吉は、あとの雁が先になったら笄取らしょ……、小さいときから大好きなこの唄を誦もうともしなかった。

「……」

いっそう目は雁の列とは反対の上野の御山のその先のほうへ、ジッと、ジィーッと注がれていったその辺りいっときは夕闇が濃く、広小路辺りの繁昌だろう、赤ちゃけた燈火の反射がボーッと人恋しく夜空へ映って流れていた。

「……」

ためつ、すがめつ。そういった感じで次郎吉は、その明るみを見つめていた。なつかしくてなつかしくてたまらない風情だった。

「……」

夜目にもだんだんその目が曇ってきた。フーッと深い溜息を吐いた。そうしていった。

「……あの赤く見える下に寄席があるんだ、吹抜亭が……」

銭湯の柘榴口のような構えをした吹抜亭の表作りがなつかしく目に見えてきた。愛嬌のある円顔をテラテラ百目蝋燭の灯に光らせて、性急そうに歌っている父橘家圓太郎の高座姿がアリアリと目に見えてきた、いや、下座のおたつ婆さんの凜と張りのある三味線の音締までをそのときハッキリと次郎吉は耳に聴いた。

「出てえ……やっぱり俺、寄席へ出て落語家がやっててえ」

何ともいえない郷愁に似たものがヒシヒシ十重二十重に自分の心の周りを取り巻いてきた。ポトリ涙が目のふちに光った。

と、見る間にあとからあとから大粒の涙はポトポトポトポト溢れてきた。

頬へ、条して光って流れた。

「……俺、俺……」

とうとう次郎吉は洗いざらしたつんつるてんの紺絣の袖を目へ押し当てて、ヒイヒイヒイヒイ泣きじゃくりだした。

……そのころ日暮らしの里と呼ばれた日暮里はずれ、南泉寺という古寺の庭。

次郎吉は始めにもいったよう、芸名、小圓太。

音曲噺の上手、橘家圓太郎の忰として七つの年に初高座の、それから十四の今年まで、しょせんが好きで遊び半分の出たり出なかったりの勝手勤めではあったけれど、とにかく、正味五年にはなる高座暮らしをしてきたのだった。

それがなんと晴天の霹靂。

二、三日前、急に高座から引き摺り下ろされて、繁華な湯島切通しの自宅から場末も場末、こんな狐狸の棲む日暮里の南泉寺なんて荒寺の小僧にされてしまったのだ。

この寺の役僧をしている腹違いの兄玄正が闇雲に反対して芸人を止めさせ、自分の手許へ引き取ってきてしまったからだった。

もちろん次郎吉の小圓太はいやだといった、槍ひと筋の家に生い立ちながら好んで落語家の仲間へ身を投じた父の圓太郎も決して廃めさせたがらなかった、むしろ本人が好きな道ならましぐらにその道をこそ歩かせたがった。

が、夫圓太郎の寄席芸人となったことすらいやでいやで耐らなかった女房のおすみは、何といっても聞かなかった。青戸の在の左官の妹でありながらおすみは、圓太郎とは比べものにも何にもならないほど凜とした気質のおんなだった。ここぞとばかり玄正の説に賛成して、次郎吉の小圓太を廃めさせようとかかった。

そのころの芸人の常とはいえ、しょっちゅう道楽をしてはその後始末ばかりさせているおすみの前、何としても圓太郎は頭が上がらなかった。

「道楽者は阿父さん一人でたくさん」

こうキッパリといわれると一言もなかった。

それには自分と一緒になる前、おすみが深川のほうの糸屋へ嫁いていて生んだ子の玄正にも、いい年をしててんで圓太郎は口が利けなかった。全体どこにも武家出らしいところのない、それ故にこそ、またかくも音曲師として世間から迎えられてしまったのだろう圓太郎は、武家とか出家とかそうした堅苦しい商売の者との応待が、この世の中で一番苦手だった。町役人という名のあるだけに、家主と口を利くのも窮屈千万でならなかった。従って仮にも義理の親子であるのに、いつも玄正とさしで話すたんび、店賃の借りのある大屋さんの前へ出た熊さん八さんでもあるかのよう、わけもなく圓太郎は玄正に対し、ヘイコラしてしまうのが常だった。

さて今度その二人から膝詰で、小圓太の次郎吉を高座から退かせろと談じ付けられたのだった。

ウンもスーもなかった、世にもだらしなく呆気なくものの見事に承諾するのやむなきに至らされてしまって、即ち次郎吉はその日のうちに落語家を廃めさせられ、この日暮里南泉寺の兄玄正の手許へと連れてこられてしまったのだったが……。

「……つまんねえなあ俺」

もうとっぷりと暮れつくしてしまったそこら中を、やっと涙の顔を上げて見廻すと、世にも悲し気に呟いた。

見れば、暗い本堂のほうには微かに寒々とした燈火のいろが動いている。それが破れ障子へ、ションボリ狐いろの光りを投げかけている。

……いまのいま瞼に浮かんだ父圓太郎の頬照らす吹抜亭の高座の灯のいろとは似ても似つかぬ侘びしさだった。

ボーン……ボーン……。

どこか、ほかのお寺からだろう、梵鐘の音が闇を慄わして伝わってきた。いおうならこの鐘の音いろも、芝居噺のせりふのとき新内流しの合方にまじって楽屋で鳴らされる銅鑼の音とは比べものにもならないほど野暮でつまらなかった。第一、いってみればそこには活きた人間の情や心持というものを滲ませている何物もなかった。てんで次郎吉には必要のなさ過ぎる冷静で峻厳な世界の「音」ばかり「声」ばかりだった。

「……けッ……」

ただ「けッ」とのみいいたかった、ほんとうにいま次郎吉は。

いつ迄、暗闇の中に愚図々々してもいられないので渋々庫裏のほうへ取ってかえすと、ちょうど庭下駄を突っかけて義兄の玄正が自分を探しにでようとしているところだった。薄ら明りの中に半面影隈取られて冷たく浮き出している尖った義兄の顔は、自分たちとは全く世界を異にしている人々だけの持つ厳しさだった。毎度々々のことながら取っ付けないものをそこに感じた。

「和尚様御食事じゃ。サ、早う給仕」

そう冷淡に(と次郎吉にはおもわれた)いい捨てて踵を返すと、侘びしい灯の流れているほうへ、真黒い衣を鋭くひるがえしながらとつかはと消えていってしまった。

時分時だというけれど、自分たちの住んでいた町家のようにお汁の匂いひとつただよってくるでもない。それも次郎吉には侘びしかった。

急いで和尚様のお居間へ入っていくと、もう誰かが運んできたのだろう、つつましくふた品ほどのお菜をのせた渋いろの塗膳を前に、角張った顔を貧血させて和尚様は、キチンと手を膝の上に、控えておられた。

「あいすみませんおそくなりまして……」

ちっとも小坊主らしくない軽いちょくな調子でいいながら、ピョコッと次郎吉はお辞儀した。

「……」

黙って和尚様はところどころヒビの入っている大きなお茶碗をヌイと差し出された。

……少しずつよそってそれを長い長いことかかって三杯。でもその三杯のすむ長い間、何ひと言和尚様は語りだされるでもなかった。すべてはただ黙々とした中に終始された。ほろ酔で阿父さんが木やりくずしか何か歌いだす我家の食膳が、そこに満ち漲る愉しい温い雰囲気がつくづくと次郎吉は恋しかった。しらぬ他国にいる寂しさにしんしんと身内の冷え返ることを感じた。

やっとお食事がおわると、

(もう片づけて)

という風に目で前のお膳を指された。

待っていましたとばかり、ピョコッとまたお辞儀をして立ち上がると、次郎吉は立ちのまま両手でお膳を持ってさっさと引き下がってきてしまった。

それからやっと自分たちの食事になった。

こちらは濛々と大きなお鍋から湯気が立って、傍目にはひどく美味しそうだったが、取柄といえば温いばかり。今夜も下らなく仇辛いお雑炊だった。

お菜はひね沢庵が三切れずつ。

でも次郎吉を除く皆はフーフー吹きながら、幾杯もお代りをしては啜り込んでいた。幾度かジロリジロリこちらを睨むようにしている義兄の目を感じながらも次郎吉は、どうしてもたべることができなかった。

二杯――やっとの思いで二杯だけたべた。

それから火の気のない本堂へ坐って、永いこと皆とお経を誦んだ。

観自在菩薩、深般若波羅蜜多……。

般若心経だった。霜夜の往来に立ちつくしているようキーンキーンと痛く膝頭を凍らせながら次郎吉も、皆のあとへ従いてそのお経をモグモグ口の中で誦んだ。あまりの寒さが、風花落ちかかる夜更けの街から街を慄えていく寒念仏の辛い境涯が、そのまましきりにいま自分の上にあてはめて考えられてきた。いつかお経は上の空になった。そのとき皆のお経の声がひとしお耳許でグワッと波打って高まってきて、ポトンと絶えた。おしまいだった。

そうしてやっと各自が寝間へ引き取るのだった。次郎吉は役僧たちの寝る部屋が一杯だからとて、庫裏の脇の長四畳のようなところへ寝かされた。

冷たいゴツゴツした夜具蒲団。

枕許で惨めに一本、燈芯の灯が薄青く揺れていた。

……何だろうあの和尚様のお菜ッたら。

いよいよ募ってきた夜更けの寒さにガタガタ身体中を慄わせながら床の中で次郎吉は、しきりに最前の和尚様の食事のことを情なく思い返していた。

ふた品ほどの皿の上――ひとつは真黒い粒々でもうひとつは茶っぽいドロッとしたものだった。

浜納豆に金山寺味噌、たしかにそうと次郎吉は睨んだ。

どちらも美味しくない、およそ次郎吉の虫の好かないたべものだった。しかもここへきてもう三晩、たいてい毎晩和尚様はあのお菜だった。

他人事ながらあんなお菜ばかりたべていなければならない和尚様が気の毒で気の毒で仕方がなかった。

でも……。

和尚様よりこの俺たちのお菜ときたら、またもっとひでえや。

最前の仇辛い雑炊の舌ざわりを、悲しく次郎吉は舌の上へ喚び戻していた。何とも彼ともつきあい切れない味だった。味も素ッ気もないとよくいうけれど、まだそのほうがいい、味のあるだけいっそう情ない代物だった。

ほんとに何て雑炊なんだろう、ありゃ。

阿父さんがよく宿酔のとき、深川茶漬といって浅蜊のおじやみたいなものをこしらえ、その上へパラリと浅草海苔をふりかけたのをよくお相伴させて貰った。けれどあれとこれとじゃうんてんばんてんの違いがあらあ。

ひでえにもひどくねえにも、よく仲間がやる落語に「万金丹」てのがあって、道に迷った江戸っ子二人、山寺へ一夜の宿を借りると、世にも奇妙な味の雑炊をたべさせられる。

しかもときどき舌へ絡みつくものがあるので、

「何ですこれは」

と和尚様に訊くと、

「藁だよそれは」

「エ、藁?」

「ウム」

ニッコリと和尚様は笑って、

「お前その藁をたべるとお腹ン中がよく暖まる」

「壁じゃあるめえし」

というくすぐりがある。

何のことはない、その藁入りの雑炊もかくやとばかりのここのお寺の雑炊だ。

とすると俺たちもおっつけ壁になる口か。

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