マント・焼鳥
一
世に、アルコール中毒とは、老人のこうした症状を指して言うのだろう、そうして、まだ年若いものの場合の酒毒の症状にはまたなにか別の病名があるのだろう、ともあれ毎晩毎晩お酒をあおっているうち、だんだん今松はお酒の気のない日には所縁ない強迫観念をおぼえるようになってきた。
目がクラクラ、胸がドキンドキンして、あまりいいお天気の日など、雲ひとつないうらうらと晴れ渡った群青の大空から、今にもなにかこう世界中をぶッ潰してしまいそうな大きな大きなガラス玉でも転がり落ちてきそうな気がしてたまらなく恐ろしかった。
そんなとき表へ出なければならないことがあると、前後左右を決して振り向かず、なるべく地面ばかり見つめて歩くことにした。そうでもすると、少しは強迫観念が薄らぐのだった。だから、いきなり人に突き当たられ、びっくりさせられることが少なくなかった。
「イ、痛。気をつけろ、馬鹿野郎」
今日もいきなり今松の耳もとで大きな声が爆発した。めっきり夏近い日が車窓のガラスに光っている日曜の午前、十軒店の五月人形屋の店の前を、乗っている市内電車が今通るところ、木原店の木原亭へ昼席へゆく途中だった。
「ア、ごめんなさい」
間、髪をいれずこう言った今松の声なんか、この大声の爆発の前、苦もなくかき消されてしまっていたのだろう。
それより早くポカポカポカポカポカーリ。
たくましい大きな拳固の雨があとからあとから降ってきた、今松の頭といわず、顔といわず、頬といわずに。
最前からしきりに起こってくる強迫観念を追い払おうと懐手した両方の手をシッカリ組み合わせていた今松だったから、どうすることもできやしなかった。
おまけに、痛さを耐えながらチラと見ると相手は、軍医か柔道の先生にでもありそうな、もしゃくしゃ鬚の、デップリ仁王様然とした見上げるような血色のいい大男だった。鼠色の夏マントをスッポリと着ていた。
「すみません。ハイすみませんでした、わかりました」
とても敵ではないと見てとって、理屈もなんにも言わず今松は頭を下げた。
なんべんもなんべんも頭を下げた。
「よし。わかったら許してやる。これから粗忽で足を踏んだらすぐ詫びを言えよ」
…………あんなこと、言ってやがら。
すぐにもなににも、現に小声だけれどすぐ詫びているんだ私は。それも待たずに、ポカポカポカと手前やりやがったんじゃねえか。
「オオ痛え」
やっとのことで組み合わせた懐手をほぐして、恐らく真っ赤に腫れ上がっているだろう、ひどくカッカと火照ってきた両頬を、腹立たしさと照れくささとにむせ返りながら、ワザとなんの苦もなさそうに撫で廻していた。
にしても――それにしても腹が立つ。
たいてい癪に障る奴たらない。
汝、どうするか――。日本橋近くなったとき、ソーッと今松は相手を盗み見た。
快く勝利感に支配されているのだろう、いやことによると今松の存在なんか雑魚一匹ほどにももう考えていないのかもしれない、この豪壮な仁王様は目を半眼に閉じ、今度はこの男のほうがマントの下で右手を左の肩へ、左手を右の肩へ、X字形に組み合わせて、悠然と立ちながら眠っていた。
「……よウし」
手早く今松は尻をからげた。
拳を固めた。前後左右見廻した。幸いに車掌台まで一気に駆け抜けられる程度に、客と客との間は空いていた。
プッと小さくその拳へ呼吸を掛けた。
ド、どうするか見やがれ。
ポカポカポカポカ。
たちまち続け打ちに、滅多打ちに、アッという間に五つ六つなぐりつけだ。
そのまんま、ピューッ。
後をも見ずにとはこのことだろう、横っ飛びに今松は車掌台まで飛んでいった。
ちょうど伴伝の前だった。
夢中で飛び下りて食傷新道を木原亭まで。楽屋へ入り、便所へ入った。手洗いの水へ手拭を浸して、打たれたところを押し付けた。熱い痛い顔中が、少うしばかり自分の顔らしさを取り戻してきた。
「今松兄さん……今松さん」
そのとき便所の戸の外で、前座をしている左楽の弟子の左鶴が、声高に呼んだ。
「あと高座へ上がる人が誰もきてないんです、早く、早く上がって」
「よしきた」
濡れた手拭を片手に握ったまま便所を出ると、外は初夏らしく晴れているのにひどく薄暗い高座へ、ソソクサと上がっていった。そうして、座った。
二つ三つ、暗い客席から拍手が聞こえた。
一礼して顔を上げ、「エー一席……」と言いながら、ヒョイと高座の真下へ目をやったとき、
「ア」
ギョッとした、今松は。
一番真ん前の高座とすれすれのところに、最前の鬚むしゃの仁王様が、やっぱり目を半眼に閉じたまま、やっぱり両手をX字形にマントの下の肩のところで組み合わせたまま、なんと座っているではないか。
「…………」
もうそのまんま今松はなんにも言えなくなってしまった。
二
ヘドモドしてしまったのなんのって、まったく、どうすることもできなかったほど、ただ、口ばかりいたずらにモグモグとしていた。
あわててしまった。
まごついてしまった。
いつもはほんの形式だけに口を湿す湯呑のお湯を、いつのまにどう注いだのだろう、湯呑のほうへ口を持っていかなくちゃ間に合わないぐらいダブダブに注いでしまって、こぼしながらググググと一気に呑んだ。
そうして夢中でしゃべり出したは、「垂乳根」でも「金明竹」でも「雑俳」でもなく、イの一番に覚え込んで大雪の晩に七へんしゃべった「波平行安」の小噺だった。
人間、最後の最後いよいよ断末魔に陥ったときは、誰しもが「お母さん」と心の奥でひそかにこう呼び掛けるものであるそうな。
いま今松が困りに困って己を失ったとき、たまたま落語家になりたてのホヤホヤに覚えた小噺「波平行安」をしゃべり出したということも、まさに「お母さん」と呼ぶその心持ちに近かったかもしれない。
しかも、この「波平行安」。
さんざんの不出来だった。
しどろもどろ。不出来にもなんにも、てんで形にもなんにもなっていなかった。
第一、お客様の姿が初めて高座へ上がった晩のよう、モヤモヤとしていてよく見えなかった。
そのモヤモヤひと色の真っただなかに、あの鬚もじゃの仁王様の姿ばかりが、まるで大空高くそびえ立つ浅草蔵前の大人形の大仏様のように消えたり、現れたり、また消えたりしていた。
なにをしゃべったかわからないままに、やっとのことに落だけつけると、ろくすっぽお辞儀もしないでそのまま楽屋へ飛び下りてきた。
「ア、御苦労さま」
こう左鶴に声を掛けられて、はじめて今松はきまりの悪いものを感じた。いやだ、我ながらいやな出来だった、ブルブルと今松は身慄いした。
「ナ、なんだってオイお前、満足に噺をやらねえんだ」
意外や、耳もとで師匠の声が起こった。
またギョッと今松は振り返った。
中入り過ぎに上がるはずの助六師匠が、相変わらずお閻魔様を思わせる赤いテラテラの盤台顔で、渋面作ってキチンと座っていなすったとは――。
「ア」
思わずペタペタと座ってしまった。
「若え身空に投げて小噺なんかでお茶ア濁して、そのまた小噺の出来が型なしときちゃ」
「チ、違います」
あわてて今松は遮った。
「なにが違う」
「違うんで師匠、投げて私、小噺をやったわけじゃ」
「じゃ、いったいなんだってまた――」
「わけがあるんですわけが。師匠」
今松は今、大真面目だった。
「じつは、じつはねえ、師匠」
電車のなかの鼠マントの仁王様の一件を、事や細かに話し出した。
黙って師匠は訊いていた、大きな口を気短らしく一文字に結んで、膝へ置いた両手を少し慄わせて。
「……そういうわけで、すッ飛んできて高座へ上がると、なんと師匠、その野郎が高座の一番真ん前に座ってやがるんで。いや驚いたのなんのってすっかりヘドモドしちまって……」
ツーッ。師匠の右手が伸びてまだ最前の痛みの去らない今松の頬にまたピシリと平手が鳴っていた。
「オイ」
そうして、睨んだ。
「芸人はいつどこでどんなお客様にお目にかかるかわからねえ。表を歩いておいでのお方様は全部お客様と存じあげて、常々失礼のないように心掛けていろイ。そいつをあろうことかあるめえことか、ト、飛んでもねえ、向こう様がおなぐんなすったからって、こちらも先方様をなぐり返すなんて、ソソ、そんなわからねえヘチャムクレが――」
もう一度助六の右手が、ピシリと今松の頬の上で、烈しい音を立てていた。
三
まだ日の沈みきらない上野広小路の角の焼鳥屋の紺暖簾を、肩で今松はくぐっていた。
まずい字で経木へ一本五厘。焼きたての串へさした焼鳥が、大きなお皿の上で、いい匂いをさせて煙を立てていた。
「もらうよ小父さんこれ。そいからお酒をコップで二杯ばかり、冷でいいんだ」
いい加減、もう頬を染めている今松が、いきなり焼鳥の串を口へ運びながら、痩せた人の好さそうな爺さんに声を掛けた。
師匠の帰ったあと中っ腹で木原の楽屋を飛び出すと、食傷新道のゆきつけの家へ飛び込んで、とりあえず二、三本、徳利を倒した今松だった。
それから足に任せてブラブラブラブラ日本橋を神田、お成道とこの上野まで。ちょうど、鈴本の夜の高座へ、うってつけの時刻になっていた。
脂の乗ったモツの肉を頬張りながら見上げる初夏の空はお納戸色に明るく暮れのこって、頭の上いっぱいにヒラヒラ蝙蝠が飛び交っていた。
「いいんですか冷で。なんならちょいとお燗いたし……」
コップへお酒を注ぎながら訊ねる爺さんへ、
「いいんだよいいんだよ、冷のほうがずっと飲み心地がいいんだから」
ひったくるように奪い取って、ひと息に飲んだ。
「もう一杯」
またコップを突き出した。
やっと暮れつくした鈴本の高座へ上がってすぐ今松がお辞儀をしたとたん、ズラリと高座のすぐ下に陣取っている十二、三の子供たちが、
「ヤーこの小父さん、さっき、大道で一本五厘の焼鳥食べてたよ」
「ヘッおかしいな、五厘の焼鳥食べてやがった」
「ヤーイ焼鳥野郎ヤーイ」
口々に囃し立てた。ハッと今松困ってしまった。
「冗、冗談でしょ坊ちゃん」
よく今日は高座の一番前からばかりいろんな事件の起こる日だぞと思いながらワザとすまして、
「私じゃござんせんよ、そりゃ。ソ、そんな焼鳥を食べてたなんて、そりゃどこか他の小父さんですよ」
こう弁解したけれど、
「嘘だ、嘘だイ、嘘ばかり言ってら。なあ皆たしかにこの小父さんだったなあ」
「そうともよ。俺、この小父さんの色の黒い顔、前からチャーンと知ってんだもの。誰がなんてったって小父さんだイ」
「そうだそうだイ、この小父さんが、一本五厘の焼鳥なんだイ」
たまりかねて七分がらみ詰めていたお客たちがドーッと笑い崩れた。よっぽどおかしかったものとみえ、あとからあとから笑ってはまた笑い、また笑ってはまた笑い、笑いのどよめきが静まらなかった。ばかりか、笑いの大波小波は寄せては返し、返しては寄せ、次第次第に土用波ほど高まっていった。
とてももう噺なんか聴きそうにない。
「エーそれはさておきまして、その……いえ坊ちゃん私じゃないてば……いえそれ坊ちゃん……困ったな、あ、こりやどうも」
上げも下げも付かなくなって今度は「波平行安」すらしゃべれないまま、真っ赤になってスゴスゴ楽屋へ下りた。
とたんに、
「オイちょっと顔を貸せ、今松」
……なんたるこッたろう、ここへも三軒目にくるはずの師匠の助六が休んだ芸人の穴埋めにもうきて聴いていたのだった。
「…………」
今松は酒の酔いもなにもいっぺんに醒め果ててしまった。
な、なんて魔日なんだろう、今日は。
それでなくっても昼間ピシャリと俺の横ッ面をハリ倒した師匠だ。
今度は二度目だ。
さしあたり例の銀煙管で真眉間を、真っ二つにでも割られることだろう。
スゴスゴ師匠の後から、楽屋の奥のほうの座敷へついていった。
ランプの灯に抜け上がった額を光らせて、オットセイの左楽師匠がいた。
むじなのつばめ師匠も控えていた。
講釈師から落語家になった柳条さんが真っ黒な大きな顔を見せて、しゃちこ張っていた。
「座れ、今松」
まず自分が座って師匠は言った。
「へ」
小さく座った。
「一本五厘の焼鳥食べたってお前」
ニューッと青筋を額へ浮かし、これ以上気まずい顔はできまいと思われるほど気拙い顔をしてジーッと助六は睨んだ。
「嘘、嘘ですよ師匠、大嘘ですよそんな、一本五厘の焼鳥なんて」
「嘘をつけ」
キッパリと師匠は言った。
「嘘だてえ、手前こそ嘘だ。前にお出での坊ちゃん方が皆ああやっておっしゃっておいでじゃねえか。食べたんだろう、この野郎」
「…………」
「言え。言えったら言え。白状しろイ、食べたか食べねえか、ヤイ、ハッキリと手前」
「タ、食べました。すみません」
敵はじと見てとって今松は兜をぬいだ。平蜘蛛のようにひれ伏してしまった。
「ウム」
ほかに同僚が大ぜいいたからだろう、銀煙管はおろか、幸いに平手も飛んでこず、しばらく苦りきって押し黙っていたまんまだったが、やがてのことに口を開くと、
「今松」
「ヘイ」
「お前アいい若えものだ。ましてこれからどんどん売り出そうって江戸っ子の芸人だ」
「ヘ、ヘイ」
「それが、いい間の振りをして大道で一本五厘の焼鳥なんぞ食べるようじゃ、しようがねえや。気をつけろよ、これから」
「あいすみません」
下げていた頭をさらに下げた。
「わかったな、オイほんとうにわかったな」
重ねて師匠は念を押した。
「ほんとに、ほんとにもう気をつけます」
「よし」
大きく肯いて、
「ぐずぐずしてると、二軒目の席が遅れる。行け、早く。どこだ二軒目は」
「神田の白梅なんで」
「ウム。早く行け」
「ヘイ。あいすみません」
文字通り虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して、居並んでいる師匠方へ挨拶もそこそこにションボリ楽屋裏の梯子を下りていこうとしたとき、
「待て待て今松」
頭の上から師匠の声がまた追いかけてきた。
「ヘイ」
梯子段の途中へ停まってふり向くと、師匠の赤い怖ろしい顔が目の上いっぱいにひろがっていた。
「どこの店だ、お前のその食べたっていう一本五厘の焼鳥屋は」
「ソ、それだけはもう師匠、御勘弁を」
梯子段の中ぶらりんで消えも入りたい今松だった。
「言ってみろ言って。念のために聞いておくんだ」
師匠の声がまだ一段と高まってきた。
「……………申し上げますヘイ。あの広小路の角の店なんで」
か細い声でやっと言うと、
「なに、角?」
ほんのしばらくの間、ジッと師匠は考えていたが、やがてのことにさらにひとッ調子声張り上げて、
「よせよせ今松、あの角のはよせ、三軒目のうちのほうがよっぽど美味えや」