Chapter 1 of 16

1

墨汁一滴

正岡子規

病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林黒竜江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱なり。

枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

(一月十六日)

一月七日の会に麓のもて来しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座といふ札あるは菫の如き草なり。こは仏の座とあるべきを縁喜物なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子の札あり。はこべらの事か。真後に芹と薺とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜とあるは丈三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪にて紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊にきはだちて目もさめなん心地する。『源語』『枕草子』などにもあるべき趣なりかし。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため

(一月十七日)

この頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯横町といへど昔は狸横町といへりとぞ。

田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一が句に「山茶花や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古への奥州路の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々

と博士は記せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空しく帰る俗客もあるべしかし。(一月十八日)

蕪村は天明三年十二月二十四日に歿したれば節季の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。(一月二十日)

伊勢山田の商人勾玉より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。

祈平癒呈

御両宮之真境(古版)              二

御神楽之図(地紙)               五

五十鈴川口のはぜ(薬といふ丑の日に釣る)    六

高倉山のしだ                  一

いたつきのいゆといふなる高倉の御山のしだぞ箸としたまへ

辛丑のはじめ

大内人匂玉 まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。(一月二十二日)

病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍らに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は健かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。(一月二十三日)

年頃苦しみつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強くなりて今ははや筆取りて物書く能はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終に墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあらず、朝々病の牀にありて新聞紙を披きし時我書ける小文章に対して聊か自ら慰むのみ。

筆禿びて返り咲くべき花もなし

(一月二十四日)

去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾以為へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。乃ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星』所載の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために妄を弁ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規不可並称の説を以て尊卑軽重に因ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益加はり殊に筆を取るに悩む。終に前約を果す能はざるを憾む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ幸なり。(一月二十五日)

俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を逞うし後半はいたく衰へたり。我短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一頓挫したるが如し。こは固より伎倆の退きたるにあらず、されど進まざるなり。吾見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて僅かに新作と為しつつあるには非るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心労れ眼眠たき者は永き夜の眠を貪るに如かず。眠さめたる時浦島の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何。(一月二十七日)

人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒のはがきさし、夷子の絵はがき、千人児童の図、八幡太郎一代記の絵草紙など。いとめづらし。此を取り彼をひろげて暫くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自らこの取り合せの中にあらはれて興尽くる事を知らず。

年玉を並べて置くや枕もと

(一月二十八日)

一本の扇子を以て自在に人を笑はしむるを業とせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者なりとか聞きぬ。芳菲山人の滑稽家たるは人の知る所にして、狂歌に狂文に諧謔百出尽くる所を知らず。しかもその人極めてまじめにしていつも腹立てて居るかと思はるるほどなり。我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。古の蜀山一九は果して如何なる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる一茶は必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。(一月三十日)

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん。(一月三十一日)

『大鏡』に花山天皇の絵かき給ふ事を記して

さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひて大さのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見え侍る。また筍の皮を男のおよびごとに入れてめかかうして児をおどせば顔赤めてゆゆしうおぢたるかた云々

などあり。また俊頼の歌の詞書にも

大殿より歌絵とおぼしく書たる絵をこれ歌によみなして奉れと仰ありければ、屋のつまに女をとこに逢ひたる前に梅花風に従ひて男の直衣の上に散りかかりたるに、をさなき児むかひ居て散りかかりたる花を拾ひとるかたある所をよめる

などあるを見るに古の人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しき画を作りにけん。土佐派狩野派などいふ流派盛になりゆき古の画を学び師の筆を摸するに至りて復画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。(二月一日)

われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃馬琴が『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に

文渓堂及貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人を索るに意に称ふさる者のあるべくもあらず云々

とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に

吾孫興邦はなほ乳臭机心失せず。かつ武芸を好める本性なれば恁る幇助になるべくもあらず。他が母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中音音が大茂林浜にて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使を誨るに、婦人は普通の俗字だも知るは稀にて漢字雅言を知らず仮名使てにをはだにも弁へず扁旁すらこころ得ざるに、ただ言語をのみもて教へて写するわが苦心はいふべうもあらず。況て教を承て写く者は夢路を辿る心地して困じて果はうち泣くめり云々

など書ける、この文昔はただ余所のあはれとのみ見しが今は一々身にしみて我上の事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早く已に大団円に近づかんとすると固より同日に論ずべくもあらず。(二月二日)

○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇崩ず八十余歳。李鴻章逝く七十余歳。

○星亨訴へられ、鳩山和夫訴へられ、島田三郎訴へらる。

○朝汐負け、荒岩負け、源氏山負く。

○神田の歳の市に死傷あり。大阪の十日夷に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。

○背痛み、臀痛み、横腹痛む。(二月三日)

節分に豆を撒くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。その日になれば男女の乞食ども、女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の門の内に入り、手に持てる升の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福は内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しよにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など貰ひ歩行くなり。やがてその日も夕になれば主人は肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼き初む。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寐れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口々々に挿むが多けれど柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(二月四日)

Chapter 1 of 16