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入江のほとり
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入江のほとり
正宗白鳥
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 5 of 10

五

勝代は腹がチクチク痛みかけると、懐炉だけでは心許なくて、熱湯を注ぎこんだ大きな徳利を夜具の中へ入れて眠ることにしていたが、ある夜、徳利の利目がなくって真夜中ごろにしばらく忘れていた激しい痛みを感じだした。階下へ下りて母親や兄嫁を驚かすのは気の毒であるし、それよりも自分の腸胃のまだ癒っていないことを家の者に知られて、東京行を引止められるかもしれないのが恐ろしくて、腹を圧えて呻きながら我慢していた。が、疼痛は容易に収まらなくって、呻き声は自然に高くなった。

次の室に寝ている辰男の耳にも入った。彼れはふと目を醒まして、それと気がつきながら、妹の様子を見に行こうともせねば、声を掛けもしなかった。寝返りを打ってふたたび眠りにつこうとした。が、呻吟がしだいに耳障りになってしようがない。猫を追いだすようにこの睡眠の邪魔物を遠ざけるわけには行かない。……で、彼れはランプを点けて、そっと自分の寝床を、先日まで良吉のいた次の室へ持って行った。そこでは呻吟声がだいぶ遠くなった。

「辰さん……」と、勝代は襖を洩れる灯火に目をつけて、術なげな声を出した。

辰男は返事をしない。夜半の寒さに身震いして、寝床の中へもぐりこんで、灯火を消した。

勝代はふたたび兄を呼んだが、返事がないので、寝床から匐いだして襖を開けてさらに呼んだ。「お父さんの机の上にある薬を取ってきてくれんかな」と頼んだ。薬嫌いで医者がくれた薬さえ二度に一度は秘密で棄てたほどなのに、今の場合父の常用の消化薬をさえ手頼りにする気になった。

たしかに兄は起きているのにと訝りながら、勝代は手索りでマッチを捜して、ランプを点けてみると、兄は例の処に寝ていなかった。近眼を顰めてようようその寝床を見つけると、腹を圧えながら側へ寄って耳許で声を掛けた。誰にも知らさないでそっと取ってきてくれと頼んだ。

辰男は物をも言わず、突如に起上った。そして、裾の短い寝衣のままランプを持って階下へ下りて行った。行灯の火は今にも消えそうに揺めいていた。彼れは父の部屋や兄の部屋には年に一度足を入れることがあるかないかで、部屋の様子がどうなっているか知らなかった。

音のせぬように襖を開けて入ると、子供の時分から見馴れていた赤毛氈を掛けた机が、以前のとおりに壁ぎわに据えられてあった。机の上には大きな硯や厚い帳簿や筆立や算盤がごたごたといっぱいに置かれてあった。新聞に蔽われている碧い薬瓶を捜しだしながら、彼れはふと大谷円三という封筒の文字に目を留めた。母が先日問わず語りに言っていた縁談の周旋者の名前が大谷だったので、彼れは封筒を取上げて覗いたが、手紙を引きだして読もうとはしないで、元の処に置いた。そして、柱に掛った寒暖計を見て、「三十五度か、寒いわけだ」と思いながら部屋を出た。どの部屋からも安らかな寝息が洩れていて一人も目醒めていなかった。ガランとした家の中には寒い風が流れている。

勝代は待ちかねた薬瓶を兄から渡されると、すぐに手の平に薬を移して、「このくらいの分量で利くじゃろうか」と兄に訊いた。

「そんな薬は毒にもならん代り利きやせん」と、辰男はぶるぶる慄えながら、顔を蹙めた妹の苦しげな様を見下していた。

「水を持ってきてくれなんだのかな」

「……徳利の湯で飲んだらよかろう」

もったいぶった兄の言葉を妹はおかしく感じた。教えられたとおりに、徳利の栓を抜いて口移しに湯を啜った。太息を吐いて、いくらか安らかな気持になって、

「階下では皆な眠とったかな。勝は心細いから、も少しそこで起きとっておくれな」

そう言われると、辰男は自分の寝床へ退くことができなかった。

「勝はこないに身体が弱うちゃ困るがな。ほかの兄弟は丈夫なのに勝一人だけは……」

「……運動せんからじゃ」

「この村にゃ厭らしい人間ばっかりおるから外へ出るのが恐ろしいもの。……辰さんは身体が強いからええなあ。家じゃ姉さんが早う死んだし、勝も長生せんように思われるけれど、女子は婆さんになるまで生きておらん方が結句仕合せなように思われる。お姉さんは家で皆なに介抱されて死んだのじゃけれど、勝は他所の土地で一人で死ぬのじゃ」勝代は疼痛が和ぐのにつれて、こんなことを言って涙を浮べた。

辰男は幾度も嚔をした。寒さに堪えられなくなるし、妹の愚な言草に興も起らないので、言葉の切れ目にその側を離れて、自分の寝床へ入った。夜具の中へ首をすっこめて足を縮めて、冷えた身体の暖まるので、いい気持になっていたが、すると今見た手紙の内容がいろいろに想像されだして、自分に女房のできるのが不思議でならなかった。……学校の小さい生徒か母か妹かのほかには、女と口を利いたこともなければ、しみじみ女の顔を見たこともないので、思出にも若い女の影ははっきり浮ばない。山間の学校にいた時分には、土地の若い女に逢うと、極りの悪い思いをして顔を外らせていたのだったが、今は平気でいて自然に目がつかぬようになっている。……彼れは自分の縁談から、どんな男にも、女房のあることに思い及んで、妙な気がした。そして勝代が出て行った後で、まだ見たこともない女と自分とが、この二階に住うことを、夢のように感じながら、ぐっすり睡眠に陥った。

翌日学校の往帰りの途中でも、彼れはしばしば結婚について珍らしげに考えた。擦違う女の姿形を無心に見過せなくて、穢しい田舎女の一人一人が頭の中に浸みこんだ。テーブルに向うには向ったが、今日の英字の解釈に早く根気が疲れて、所在なさにしばしば机を離れては障子を開けて外を眺めた。

西風の凪いだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟は眠りを促すような艪の音を立てた。海向いの村へ通う渡船は、四五人の客を乗せていたが、四角な荷物を背負うた草鞋脚絆の商人が駈けてきて飛乗ると、頬被りした船頭は水棹で岸を突いて船を辷らせた。辰男はしばらく船の行方を見入っていたが、乗客の笑い話は静かな空気を伝って彼れの耳にも入った。入日の海や野天の風呂場をも彼れは久しぶりに見下した。夜はいつもよりも長く炬燵に当って過した。

Chapter 5 of 10
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