三
湯村は可也酔つて居た。そこに出たビール七本の中、五本は彼が飲んだのだ。痩せた頬殺げした顔は蒼く、目が鋭かつた。烟管へつめる左の指がピク/\顫へて居る。
何の機会からか、話は、信仰問題に落ちた。尤も二人共に基督教へ籍を置くゆゑ、自然そこへ行つたのだらう。でも二人共酒は飲む、教会を離れて信仰が得られないものなら、宗教に背いても好いなぞ云つてる。
湯村は急に力を籠めて、「今の世に最う信仰は無い、神の権威は地に墜ちた。有るものは唯理解だけ、理解を離れては神の存在すら信ずる事の出来ぬ、浅間しい時代だ。」と云出した。
二人の学生は正直に顔を見合した。
湯村は続けて云ふ。「夫婦だ、親友だ、恋人だと云つても皆然うだ。互に信じて胸と胸とが触れ合つて、あやしい温味がその間に交流するなんて云つたのは、ズツト/\以前の事さ。今の世は詩や物語から分離して居る。唯相互の心を理解し合はうとする外に何の愛情も無い。今の世には唯むごい冷かな目の愛だけが残つて居るんだ。」と。
「然う考へたら、然し、人生は寂しいものになるでせうね。」と小村が云ふ。
「寂しいとも、無論寂しい。」
「そんなにして迄、寂しがる必要がありますか、損な事です。」
「損得で論じやしない、これが人生の実相さ。吾々現代の人と生れたのが不幸なんさ。」と声が憤つてる。
「そんなら、強ひても信仰を求めたら何でせう。或る場合には築上げるんですね。無信仰の時代なんて、そんな事を考へただけでも恐ろしいですね。」
「築上げる? そりや好いかも知れん。然し、築上げたいにも築けん人がある。僕なぞもその一人だ。君等のやうに降誕も奇蹟も甦生も、何の苦も無く信じ得る人は幸福だよ。そりや幸福だよ。」と然う云つて、ランプの心をグツと捩上げた。
小村も流石にムツとした。「然し僕等は降誕や奇蹟を離れても基督を信ずる事が出来ます。主の生涯が既に絶大な詩です、宗教です。」
「それが基督の人格美と云ふんだらう、度々聞く言葉だ。詰り理解ぢやないか、確実を信ずると云ふ事は既に信仰の範囲を脱して居る。」とグイ/\酒をあふる。
「では宗教を原始時代に復さうと云ふんだ。」
「無論、総ゆる事が原始に復らんきア駄目だ。」と叫んだ。
「それぢや、どこに吾々の安心を得ませう。」と田住は謙遜つた声で尋ねた。
「安心なんか現代にあるものか。新しき幸福とか知られざる神とか云ふものが、西洋詩人の理想通り見付かりや結構だが、さも無い間の人間はたゞ動揺あるのみさ。世の冷たい波に揺られ揺られてき苦しむのみさ。」
「迷信は何うです。」
「迷信も好い、けど僕等にや最う迷信も得られまい。」
「何う云ふもんでせう。詰り近代科学の影響なんでせうか。」
「根本は無論それだらう。人間の心に驚異心が無くなつた、見えざる目を恐れると云ふ事が無くなつた。」
「然うですかね。」
「雨に驚き、風に驚く頃の人間でなきア真の宗教は有ち得ない。驚くと云ふ大なる力が人間に真の信仰を与へる。詰り近代の人間は余り自然に馴れ過ぎた。」
この続きの話が長い間取交された。喋るのは湯村一人。二人の学生は黙つて聞くより外はなかつた。
「何うも有益な話を伺つて、非常に啓発する所がありました。」と二人の学生は厚く礼を述べて帰つた。
二人が帰つた後、湯村は妹に蚊帳を釣らせて寝たが、今の話に目が冴えて、何うしても眠られない。酒も醒めた。
信仰と理解、何うも大なる問題らしい。慥かに小説になる。無信仰の現代に産れて、信仰に憧れる主人公は面白い、屹度書ける。辰馬が喜びさうな小説が出来よう。尤もこの事に付いては、是迄深く考へもしなかつた。今日偶と、偶然と云はば偶然、口を衝いて出た言葉だ。湯村の癖で、ある時、偶然にある問題に触れると、話の中に皮が着き肉がついて動かす可からざる問題に成長する。今夜も慥にそれだ。
今の議論を実際に当嵌めて見た。恋、交友、夫婦、みなよく合理する。それと共に、先生に対する事件、彼女に対する事件、みな解決される。嬉しくて/\ならなかつた。
翌朝目が覚めると、辰馬から移転の通知が来て居た。もう耐らなくなつて、直ぐ車を命じて家を乗出した。