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トリスタン
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マンパウル・トーマス
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Chapter 2 of 9

2

という次第なのであった。しかもクレエテルヤアン氏自身が、誰でもこの話に興味を示す人には、それを語り聞かせた。彼は消化が財布と同じく順境にある男のごとく、大声でぞんざいに、かつ機嫌よく話した。舌を長く突き出すように動かしながら、北の海岸に住む人の、不器用な、そのくせ口早な調子で話すのである。時々は言葉を口からほうり出す。だから、一音一音が小さい発射のように聞える。すると、うまく行った洒落でも笑うように、それを笑うのであった。

彼は中背で肩幅がひろく、がんじょうで脚が短かく、はちきれそうな紅い顔と、ごく薄い明色のまつげに蔽われた水色の眼と、大きな鼻孔と、濡れた唇とを持っている。イギリス風の頬髯をたくわえていて、身なりもすっかりイギリス風である。そしてこの「アインフリイト」で、あるイギリス人の家族に――父と母と三人のかわいい子供たちとそれにナアスと――出会ったのが、ひどく嬉しそうだった。その家族はただ、ほかにどこに泊ったらいいかわからないという理由だけで、ここに泊っているのだが、彼は毎朝、この家族と一緒に、イギリス風の朝飯をしたためた。いったい彼は、どっさりよいものを飲み食いするのが好きで、料理にも酒にもほんとによく通じているところを見せ、故郷の知人仲間で供せられる晩餐の話や、あるえりぬきの、ここでは誰も知らぬ御馳走の話なんぞをして、療養客たちを大いに興がらせた。そういうおり、彼の眼は優しい色をたたえて細まるし、言葉には、なんだか上顎と鼻にかかったような響が加わるし、同時にまた喉の奥で、軽くぐびぐびいうような音が、それに伴うのであった。なお彼がそのほかの地上的な歓楽をも、原則として嫌っているのでないことは、廊下である部屋つきの女中と、かなりけしからぬ態度でふざけているところを、「アインフリイト」の療養客の一人、文筆を業とする男に見つかったその宵に、証拠立てられた。――それは小さな滑稽な事件だったが、それを見た著作家は、おかしいほど胸の悪そうな顔つきをした。

クレエテルヤアン氏の夫人のほうはどうかというに、彼女が心から良人を愛慕しているということは、明らかにはっきりと看取ることができた。良人の言葉や身振りに、彼女は微笑しながら随いてゆく。しかもそれが、よく患者が丈夫な人に示す、あの思い上った寛容の態度ではなく、性のいい病人が、健康感に溢れている人々の、たのもしい元気の現われに対して示す、あの優しい喜びと共鳴の態度なのであった。

クレエテルヤアン氏は、「アインフリイト」に長くは滞在していなかった。彼は細君をここまで送って来たのだが、一週経った後、細君は親切に介抱せられている、完全な手にまかされているとわかってみると、もうこのうえ留まっていることはできなかった。同じ重要さを持った義務――彼の栄えてゆく子供、これもやはり栄えてゆく商売が、彼を故郷へ呼び戻すのである。そのため、彼は余儀なく出立して、最善の看護を受けているまま、細君を残してゆくほかはなかった。

数週間以来「アインフリイト」で暮しているあの文士は、シュピネルという名だった。デトレフ・シュピネルというのである。そして彼の外貌は変妙なものだった。

三十をちょっと越した、骨格のたくましい、栗色がかった髪の男を、眼の前にうかべて見るがいい。髪の毛は、こめかみのところがもう目立って白くなりかけているが、まるい白い、少しはれぼったい顔には、どこにも髯らしいものの痕さえ見えない。剃刀が当っているのではない――それは誰が見てもわかるであろう。軟かい、ぼかしたような、少年めいた顔で、ただところどころに、ぽつぽつと小さなうぶ毛が生えているだけなのである。それが実に奇態に見えた。焦茶色の光った眼のきらめきには、おとなしい色があり、鼻は短かくつまって、心もち肉が多すぎる。さらにシュピネル氏は、弓形の、海綿に似た、ロオマ式の上唇と、大きなむしばんだ歯と、珍しく偉大な足とを持っている。脚のぐらぐらした例の紳士たちのうちの、皮肉屋で警句家の一人は、彼のことをかげで「腐った赤ん坊」と呼んでいた。だが、これは毒々しい上にあまりうがっていない。――彼はいつも上等な流行の身なりだった。長い黒の上着に、色の小粒模様のチョッキを着ていた。

彼は非社交的で、何人とも事をともにしなかった。ただ時たま、ある愛想のいい、なさけ深い、湧き溢れるような気分に、襲われることもある。それはシュピネル氏が、美的境地に没頭する時、――二つの色の調和だとか、高雅な形の花瓶だとか、落日に照らされた連山だとか、なにか美しいものを見て、夢中になって、ひたすら感嘆するような時に、必ず起るのである。「実にきれいだなあ。」と、そんな時、彼は首をかしげて、肩を釣り上げて、両掌をひろげて、鼻と唇に皺を寄せていう。「まあ見てごらんなさい。実にきれいじゃありませんか。」そしてこういう刹那の感動に駆られれば、彼は男女を問わず、貴顕な人々の首っ玉にも、かじりつきかねないのである……

彼の机の上には、その部屋に踏み入る者なら、誰にでも見えるような位置に、自分の書いた本が、いつものせてあった。それはある中篇小説で、上表紙には、まったく訳のわからない画が描いてあり、一種のざらざらした目の荒い紙に、一字一字が、ゴシック風の寺院のように見える字体で、印刷してある。フォン・オステルロオ嬢は、あるひまな小半時にこれを読んで、「気の利いた」ものだと評した。ただしこれは彼女が「たまらなく退屈な」という批判を書き換えるきまり文句なのである。この小説の場面は、流行を追う客間だとか、贅沢な婦人の居間などで、そこにはえりぬきの品々がみちみちている。ゴブラン織だの、時代のついた家具だの、高価な陶器だの、とても買えぬような布地だの、あらゆる種類の芸術的な宝石だので、みちみちているのである。こうした品々の描写には、最も暖かい力がこめてあって、それを読んでいると、鼻に皺を寄せながら「実にきれいですなあ。まあ見てごらんなさい。実にきれいじゃありませんか。」といっているシュピネル氏の様子が、たえず眼に見えるのである。……なお彼がこの一冊よりほかに、まだ本を著していないというのは、どうしても変であった。なぜなら、彼は明らかにむきになって書いているからである。一日の大部分を、彼は物を書きながら自分の部屋で過ごしているし、また非常にたくさんの手紙を――ほとんど毎日一通か二通ずつ――郵便局へ持って行かせる。――ただそれでいて、彼のほうではごくたまにしか手紙を受け取らないというのは、奇妙な滑稽なこととして、目についた……

シュピネル氏は食卓で、クレエテルヤアン氏の夫人と向い合せだった。この夫妻の加わった最初の食事の時、彼はややおくれて、側翼の地階にある大きな食堂に現われると、弱々しい声で、一言みんなに向って挨拶を述べてから、自分の席についた。するとレアンデル博士が、かなりぞんざいな調子で、彼を新来者たちに引き合せた。彼は会釈をしてから、確かに少し間が悪そうに食事をはじめた。非常に細い袖口から出ている、大きな白い形のいい手で、ナイフとフォオクをかなり気取って動かしながら。しばらく経つと、楽な気持になって、彼はクレエテルヤアン氏とその夫人とを、かわるがわる落ち着いて観察した。クレエテルヤアン氏のほうからも、食事が進んでゆくうちに、「アインフリイト」の施設や気候に関する、二三の問や所感を、彼に向って述べたし、夫人も持前のかわいらしい調子で、二言三言口をはさんだ。それに対してシュピネル氏は、慇懃に返事をするのだった。彼の声は穏やかでずいぶん感じがいいのだが、彼は口を利くのに、なんだか歯が舌の邪魔でもしているような、なんとなく不自由なもつれるような癖を持っていた。

食後、談話室に席が移されて、レアンデル博士が、わざわざ新来の客人たちだけに、特に挨拶した時、クレエテルヤアン氏の夫人は、自分と向い合せだった人のことを尋ねた。

「あのかたはなんとおっしゃいますの。」と夫人は問うた……「シュピネリですか。わたくしよくわかりませんでしたの。」

「シュピネルです……シュピネリじゃありません、奥さん。いいえ、イタリア人でもなんでもないので。なに、レンベルクの生れですよ、わたしの知っているところでは……」

「あんたなんとかいわれましたな。あの男は文士なんですかい。それとも何です。」とクレエテルヤアン氏が問うた。両手を例の寛やかなイギリス風のズボンの隠しに突込んだなり、耳を博士のほうへかしげて、よく人のやることだが、聴きながら口を開けている。

「さあ、よくは知りませんが――物を書いています……」とレアンデル博士は答えた。「なんでも本を一冊、出版したことがあるようですよ、小説かなにかを。わたしは実際よくは知らないのですが……」

こう何度も「よくは知らない」を繰り返すところを見れば、レアンデル博士は、この文士を大して重んじてはいないらしい。そして彼に対してはいかなる責任をも負わない気らしい。

「でも、それはたいへん面白そうじゃございませんか。」とクレエテルヤアン氏の夫人はいった。夫人はまだ一度も、文士というものと顔を合せたことがなかったのである。

「それはそうですとも。」とレアンデル博士は如才なく答えた。「あれで少しは名が売れているのだそうですから……」それきりで、もうこの文士の話は出なかった。

ところが、それから少しあとで、もう新しい客人たちは引っ込んでしまって、レアンデル博士も、同じく談話室を出ようとした時、シュピネル氏はシュピネル氏で、博士を引きとめてやはりいろいろ質問した。

「あの夫婦の名はなんというのですか。」と彼は問うた……「わたしにはもちろんちっともわからなかったのですよ。」

「クレエテルヤアン。」とレアンデル博士は答えたなりもうまた歩き出した。

「御亭主のほうはなんという名ですか。」とシュピネル氏は問うた……

「クレエテルヤアンですよ、二人とも。」といい捨てて、レアンデル博士はずんずん行ってしまった。――博士はこの文士を、実際大して重んじてはいないのである。

われわれの話は、クレエテルヤアン氏が故郷へ帰ったところまで、もう来ていたかしら。そうだ。彼はふたたびバルチックの海岸で、商売をしたり子供を――母親に大変な苦労をかけたうえ、ちょっとした気管支の故障までひき起させた、あの無遠慮な元気旺盛な小僧を、相手にしたりしながら暮している。若い妻自身は、しかし「アインフリイト」に居残った。そしてシュパッツ市会議員夫人が、年上の友だちとして彼女の味方になった。しかしそれはクレエテルヤアン氏の夫人が、ほかの療養客――例えばシュピネル氏と、親しい仲になることを、妨げはしなかった。シュピネル氏は、みんな意外に思ったことには(なぜなら今までは何人とも事をともにしなかったのである)、はじめから夫人に異常な帰依と懇篤とを捧げていた。そして夫人も厳格な日程が許すひまな折々に、彼と雑談するのをいやがってはいなかったのである。

彼はおそろしく慎重な恭謙な態度で、夫人に近づいて、いつも必ず、丹念に声をひそめて夫人に言葉をかける。だから耳の悪いシュパッツ夫人には、彼のいうことが、たいていはまったく毫もわからないくらいである。クレエテルヤアン氏の夫人が、柔かに微笑しながらもたれている安楽椅子へ、彼は例の大きな足を爪立てながら歩み寄って、二歩の間隔を置いて立ち止ったなり、片方の脚をあとへ引き、上体を前にかがめて、いつものどこか不自由なもつれるような調子で、低く迫るように話す。しかも、もし夫人の顔に、ちょっとでも疲れた飽きた色が見えるようなら、何時たりとも、すぐさま大急ぎで引きさがって、姿を消してしまう心構えができているのである。しかし彼は夫人をいやがらせはしなかった。夫人は彼に、自分とシュパッツ夫人のそばへかけるようにと勧めたうえ、なにか彼に問をかけておいて、それから微笑を含んだまま、もの珍しげに彼に傾聴する。それは時おり彼のいうことが、夫人にはまだ一度も経験のないほど、面白く奇態に聞えるからである。

「いったいなぜこの『アインフリイト』にいらっしゃいますの。」と夫人は問うた。「どんな御療治をなさっておいでですの、シュピネルさん。」

Chapter 2 of 9
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