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文化史上より見たる日本の数学
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文化史上より見たる日本の数学
三上義夫
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 7 of 33

六 和算家の趣味

和算のまだ発達せざる遠き以前に継子立のごとき趣味の問題が行われて、数学に対する趣味は日本人元来の素質中に含まれていようとは、それからだけでも推察し得られるのであるが、支那の数学を受け入れて数学の学修が起こってから、この趣味ははたして多大に現われてきた。『塵劫記』は支那の『算法統宗』を土台としてできたといわれるけれども、この書物からして例の継子立の問題を説いている。鼠算といって鼠はどれだけ繁殖するかの問題もあるが、ことさらに鼠算の形になっているところに趣味を味わう精神が見える。継子立の問題は後に諸算家が色々に説いている。

和算の問題中において実用を離れたり、実用に遠いものはたくさんにあって、一々枚挙するのは容易でないが、今その主なるものをあげることとする。

一、方陣。数を方形に並べて縦横並びに対角線上の和がすべて等しくなるようにしたもので、支那から伝わったのであるが、支那よりも著しく発達したものになった。

二、円攅。同じく数を円形に配列したもの。

三、角術。正多角形に関する算法で、あまり実用があるらしくもないが、非常に注意して研究されたものである。

四、円周率五十位まで計算したなども実用はない。

五、何千次という方程式になるような問題をも好んでやった時代があるが、こんな複雑なものが実用になろうはずはない。

六、面積と辺の長さとその平方根との数を加えて、どうしたとかいうような問題もあるが、これらも同様である。

七、四角や三角や円の中へ、円や正方形を容れたような問題が極めて多いが、これらは一向に実用はない。

八、一つの問題を幾つもの方法で解いて見る。反対に一つの式で解き得べき幾つもの図形を作ったりなどして喜んだこともある。

これらの例はまだ幾らでも書き加えられる。これらはすべて実用から離れたもので、これらが和算の主要部分を成しているのは、すなわち実用を去りて実用以上に進んだことを示すのである。

和算家は問題を解いただけでは満足しない。得た結果を必ず術文の形に起草する。これは支那算書から伝わった風ではあるが、これを極端にやっている。これも実用のないことで、かえって数学研究上には有害なくらいなものであった。

数学が実用を離れて進むのはいずれの国も同じことで、こうならなければ進歩はできないのであるが、いったいに何でも理論的にやって行かない日本人が、数学だけは実地適用の範囲を棄てて実用もないところまでやって行くのであるから、そこにある意味を認めなければならぬ。これは全く趣味としてやったものといい得られよう。

数学の上でこの趣味性の大いに現われているものの実例をあぐるときは、和算書には図入りのものが極めて多く、『塵劫記』にも大きな絵が入れてあり、それ以後のものにも、絵入りの算書ははなはだ多い。はなはだしいのになると、一冊の書物が絵ばかりで、その上に歌のようなものを加えて問題を説明しているだけのもある。

算額といって額面に算法の問題や解を書いて神社仏閣の絵馬にあげる風は盛んに行われたもので、現今でも諸方の神社の拝殿や絵馬堂などに幾らも見られる。福岡の箱崎及び住吉、厳島の絵馬堂、備中の一宮、道後の八幡、播州の尾上及び龍野、大阪の住吉、伏見の御香の宮、京都の祇園及び安井神社、大津の三井寺、信州諏訪及び別所、碓氷峠の熊野神社、上州妙義山、前橋の八幡社、上総の鹿野山、常陸の土浦、磐城の三春、それから塩釜神社等にはいずれも現存し、東京付近でも千住在の梅田不動、府中の六所明神、大宮の氷川神社等がある。

近年はこの種の額を見に行くものもなければ、無用のものとなりて破棄され、はなはだ少なくなったのであるが、それでも上記のもの及びその他にまだ幾らもある。算額写しの残ったものもはなはだ多く、刊行になったものでも二、三種のみではない。和算の盛時にはよほど算額の奉納のあったものと考えられる。算額は寛文の頃から行われて、現存中最も古いものは元禄中、京都の祇園に奉納されたものである。従って和算の起こって間のない頃からのことで、その最後まで続いたのである。現存のものを見ても、また写しや原稿の残れるものを見ても、図形に彩色を施したものもある。この算額奉納のことは絵馬の流行に倣ったもので、俳句などの額と同様の意味のものであろうが、要するに芸術視してのことにほかならぬ。

吉田光由がかつて『塵劫記』の寛永十八年版において十二の問題を出して解答を求めてから、他の学者が後の著述においてこれを解いてまた別の問題を提出し、さらにこの問題を解いて第三回目の問題を掲げた書物が出版されるという風で、百余年間も継続したことがある。かくして出した問題を遺題というが、遺題あるがために学者の研究心をそそり、その趣味を迎えたことは少なくなかったであろう。遺題を解いて公にするのは得意とするところであり、一種の競技ともなったように見える。ある意味では数学が競技に使われたともいい得られる。

算額もまたそれ自身芸術〔品〕になったばかりでなく、やはり競技の役に立った。甲の算額に対して乙が改術を試みて他の額を上げるというようなことも行われ、これについて激しい論争の行われたこともある。

和算の先生が門人に教授している間に、日を定めて競技の会を催し、問題を出し合って互いに解くというようなこともあって、その競技の問題集の残ったものもある。

学友間においても面白い問題など得た場合には、こんな問題があるが君はできるか、などいって対者の能力を試して見るようなことは始終行われておった。

和算家の中には武者修業のように諸方を遊歴して地方地方で算家として知られた人々を訪れては、問題を出したり出されたりしてそれを解くことをやったが、もしできないならば大いなる恥辱としたもので、数字上の道場破りがあったのである。中根元圭が久留島義太の塾を訪うてその道場を破ったことがあるが、それなどは著しいものの一つであろう。

かく競技の行われたことは数学に趣味を感じてのことで、これらのことがその進歩に貢献しているのはいうまでもない。

和算書には歌によって算法を説いたものなども往々にあるが、これもまた趣味の問題からきている。もちろん支那書にもその例はあるけれども、趣味の問題であるから行われたのである。

Chapter 7 of 33
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