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唯物史観と現代の意識
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唯物史観と現代の意識
三木清
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 5 of 14

一

言葉は魔術的なはたらきをする。或る人々にとつては、唯物論の名は、既に最初から何かいかがはしいもの、汚らはしいものを暗示する。彼等はその名を聞くとき、肩をゆすぶり、十字を切つて去り、それを眞面目に相手にすることをさへ、何か爲すまじき卑しきことであると考へる。それにも拘らず自己を唯物論として憚るところなく主張するマルクス主義は、もはや誰も見逃すことの出來ぬ現實の勢力である。一般に現實を囘避することによつて思想の高貴さを示さうとする者は、ただ單に然か自己を粧ふのみであり、却てたまたま彼の思索の怯懦と怠慢とを暴露するに外ならない。嘗て哲學はフランス革命に對する感激によつて著しい進展を遂げたやうに、今はまたそれは何等かの仕方でマルクス主義と交ることによつて、恐らく現在の無生産的なる状態を脱し得るであらう。マルクス主義はそれ自身多岐多樣なる意味に於て語られる唯物論の長い歴史の列に屬してゐる。人々はこれに特に近代的唯物論の名を負はせてゐる。このとき冠せられた近代的とは正確には何を謂ふのであるか。マルクス主義はその如何なる構成の故に、そもそも唯物論として自己を規定するのであらうか。

この問を正しく捉へようとする者は、唯物論の名と共に不幸にも最も屡聯想されてゐるところの、一は理論的見解に關する、他は實踐的態度に關する、唯物論のかの二つの形態を遠くに追ひ退けておかねばならない。マルクス主義は第一に生理學的唯物論ではない。それは意識の現象が腦髓の物質的構造そのものから導き出され、若くは思想が、恰も尿が腎臓から排泄されるやうに、人間の腦髓から分泌されるといふが如きことを説くものではない。斯くの如き唯物論は、それをマルクスが形而上學的と銘打つて排斥した當のものである。ところでまたマルクス主義は第二に倫理學的唯物論でもない。それは人間の一切の行爲を物質的欲望の滿足と個人的幸福の追求とに從屬せしめようとする主張ではないのである。マルクスはこのやうな快樂主義的、功利主義的思想に對して手酷しい攻撃を加へてをり、それについてはつねに侮蔑と憎惡とをもつて語つてゐる。

十八世紀風の、粗雜なる、粗野なる唯物論が退けられた後に、我々は先づ如何にして、マルクス主義的唯物論のために、現實の地盤を獲得すべきであらうか。我々は既に、唯物史觀の構造を規定する人間學が、プロレタリア的基礎經驗の上に立つてゐることを論述した。したがつて近代的唯物論がまた實に近代的無産者的基礎經驗のうちにその理論の具體的なる根源を有するといふことを明白ならしめることが、我々の現在の課題でなければならぬであらう。私はこの課せられた問題を十分に解決し得ることを期待する。

私の意味する基礎經驗とは現實の存在の構造の全體である。現實の存在はつねに歴史的必然的に限定された一定の構造的聯關に於て組織されてゐる。存在の組織――アリストテレスの謂ふτξι――は、最も原始的には、それの全體を構成する契機であるところの、人間の存在と自然の存在との動的雙關的統一のうちに横はつてゐる。それが現實性に於て在る限り、人間は自然に於ける存在即ち生であり、そして自然はこの生に關係して限定されてゆく存在である。基礎經驗が我々にとつて構造づけられたまたは組織づけられた存在、したがつてまさに現實の存在そのものを意味する以上、人々はこの概念によつて、何者かの意識若くは體驗が直接に表現されてゐると考へてはならない。私が無産者的基礎經驗といふとき、私は特に無産者の體驗する、或ひは無産者のみの體驗し得る意識を謂つてゐるのではない。却て私はそれによつて特殊なる構造ある現實の存在そのものを指してゐるのである。ひとは基礎經驗の名に於てなによりも存在的なるものを理解すべきであつて、決して意識的なるもの、從てまた觀念的なるものを理解すべきではないのである。むしろ私は意識的なるもの、觀念的なるものが一定の構造と組織とを有する――それ故にこそまさに存在は運動し、發展することが出來る、――存在の運動と發展の過程に於て初めて、現實的になるといふことを主張したいと思ふ。基礎經驗の「基礎」とは、このものが種々なる意識形態の根柢となつて、それを規定することを表はすのである。現實の存在そのものを特に「經驗」と稱するのは、さきにも記した如く、存在をそれ自體に於て完了したものと見做すところの、從てそれを特に運動に於て把握することなく、却て靜的なるものに固定する傾向を含むところの、素朴實在論から我々を出來る限り截然と區別するためである。かくして基礎經驗とは、相互に自己の存在性を規定しつつ發展する諸契機を有する、動的なる、全體的なる存在に外ならない。しかるに存在を組織づけ、構造づけるものは、根本的には人間の存在の交渉の仕方である。この交渉の仕方そのものは歴史的社會的に限定されてゐるのであつて、「無産者的」とはこのやうな交渉の仕方の謂はばひとつの歴史的類型であり、またそれによつて規定された現實的存在そのものの歴史的なる性格である。それ故に我々はそれを恐らく正當に存在の歴史的範疇のひとつに算へ得るであらう。

さて無産者的基礎經驗の構造を根源的に規定するものは勞働である。無産者は感性的實踐として特性づけられる交渉の仕方をもつて存在と交渉する。このとき、彼等がそれをもつて、またそれと共に働くところの物は、若し勞働といふことがその本質を維持すべきであるならば、彼等の心の映像といふが如き觀念的なるものであることが出來ない。實踐はそれの存在に於てそれの對象が實踐する者とは異る他の獨立なる存在であることを本質的に必然的に要求する。さうであるから、最も徹底した觀念論者であつたフィヒテにあつてさへ、自我は自己の「實踐的なる」本質を發揮するために、自己の克服すべき「抵抗」として、自我ならぬものを要請し、かくして必然的に非我を定立するに到る、と考へられた。むしろフィヒテは自我の實踐的なる根本規定から感覺、したがつて感性的なる世界を演繹した。人間が實踐的に交渉する限り、彼のはたらきかける存在がそれの存在に於て空無なる影であることは不可能である。もとよりフィヒテに於ては、實踐はどこまでも叡智的活動であつたから、自我がみづからの抵抗として定立する非我もなほかつ觀念的なる性格を失ふことがない、と彼は思惟することが出來たのであつた。これに反して、我々にとつて實踐は、勞働として、それ自身人間的感性的活動であるが故に、斯くの如き交渉の仕方に於てその存在性を顯はにする存在は、最後まで獨立する、感性的にして物質的なる存在のほかの何物でもあり得ない。勞働はあらゆる觀念論を不可能にする。フォイエルバッハは云ふ、「觀念論の根本缺陷はまさに、それが世界の客觀性または主觀性に關する、實在性または非實在性に關する問題を、單に理論的な立場から提出しそして解決するところにある。けれど實際には世界は、それが意志の、存在に對する、また所有に對する意志の客體であるの故をもつてのみ、もともと、はじめて、悟性の客體なのである*。」心の外に世界が實在するか否か、そしてこの世界が感性的物質的であるか否か、の思辨的なる問題は、勞働に於て存在と交渉する者にとつては、問題となることさへ出來ぬ、ひとつの原始的なる事實に於て解決されてある事柄である。

* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus, besonders in Beziehung auf die Willensfreiheit, , 216. ところで勞働に於て自然と構造的聯關に立つ者として人間はまた彼自身感性的存在でなければならぬ。彼は彼の物質的な力をもつて絶えず自然にはたらきかけ、斯く交渉することにおいて直接に彼は自己の存在を感性的として把握する。即ち勞働は自然を感性として、そして人間をまたかかるものとして構造づける。この場合ひとは感性を抽象的に理解してはならない。それは感覺そのもの若くは純粹感覺といふが如きものを意味するのでない。却て感性とは存在の「存在の仕方」の概念である。それは魂または意識そのものの作用を謂ふのではなく、寧ろこの現實的なる人間の「存在」――「私は魂でなく、却て人間である」、とブルタークの失はれた書の斷片の中で既にひとりのギリシアの哲學者が云つてゐる、――がその存在の現實性に於て存在するひとつの特殊なる仕方を示すのである。人間は言ふまでもなく精神物理的統一體である。この存在を感性的として規定するとき、それは感覺主義的觀念論の立場を採るものでは固よりないが、然しながらまたそれは精神から絶對に分離された物質を説く機械的唯物論の立場に與するものでも斷じてない。「眞理は唯物論でも觀念論でもなく、生理學でも心理學でもない。眞理はただアントロポロギー(人間學)である*」、とフォイエルバッハは云つてゐる。彼は抽象的な觀念論や唯物論に反對して、具體的なる、人間學的なる立場を支持する。單に靈魂が考へたり、感じたりするのでないと同じく、また單に腦髓が考へたり、感じたりするのでない。意識とは却て全體的な人間的存在の具體的なる存在の仕方に外ならない。マルクスが「意識(das Bewusstsein)とは意識された存在(das bewusste Sein)以外の何物でも決してあり得ない」、と云つたのはこの意味に解されねばならぬであらう。總じて精神と物質とを絶對的に對立せしめ、その一を排してその他を樹てる思想は、いづれも抽象的思惟の産物に過ぎぬ。そこでまたフォイエルバッハは記してゐる、「人間を身體と精神に、感性的本質と非感性的本質とに分離することは、ただひとつの理論的なる分離である。實踐に於て、生に於て、我々はこの分離を否定する**。」實踐に於て生きるマルキシストは觀念論者であり得ないと共に、抽象的な意味に於ける唯物論の把持者であることも出來ないであらう。かくて唯物論と觀念論の問題は、物質から意識を「導出し」、若くは思惟から存在を「演繹する」といふが如き、それ自身既に形而上學的なる見地から放たれて、他の地盤に移されねばならぬ。マルクス主義は如何にして、具體性を失ふことなしに然も唯物論であり得るであらうか。答は既に與へられてゐる。存在は人間がそれと交渉する仕方に應じてその存在性を規定するのであるが、人間はまた斯くの如く交渉する仕方に即して直接に自己の本質を把握する。それ故に勞働即ち感性的物質的なる實踐に於て存在と交渉するところの者は、自己の存在の存在性あるひは存在の仕方を感性的物質的として理解せずにはゐられないであらう。マルクス主義の唯物論に謂ふ「物」とはかくして最初には人間の自己解釋の概念であり、我々の用語が許されるならば、一の解釋學的概念であつて、純粹なる物質そのものを意味すべきではないのである。勞働こそ實に具體的なる唯物論を構成する根源である。

* Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele etc., , 340.** Op. cit., , 345. 勞働はその一層具體的なる規定に於て生産である。しかるに近代的なる生産はその樣式に於て特に社會的である。マルクスは『經濟學批判』の序説の首めに云つてゐる、「社會に於て生産しつつある人々が――從て人々の社會的に規定された生産が言ふまでもなく出發點である。スミスやリカアドがそれをもつて始めるところの、個々の孤立的な獵夫や漁夫は、十八世紀の想像力なき空想に屬する。」我々の研究は現實には存在せぬ一個の抽象體であるロビンソンをもつて始むべきでなく、社會に於て生産しつつある人間を出發點とすべきである。人間は彼等相互に一定の關係に入り込むことなくしては生産し得ない。彼等は彼等の活動を相互に交換してのみ生産する。社會的である限り、私はいつまでも單に私としてとどまることが出來ない。その活動に於て相互の間に作用し合ふ限り、我は汝となり、汝は我となる。私は私に對しては我であり、同時に他の人に對しては汝である。私は主觀であると共に客觀である。それ故にフォイエルバッハの次の言葉は正しい、「現實的な我はただそれに汝が對立するところの我であり、そしてこの者自身は他の我に對しては汝であり、客觀である。しかるに觀念的な我にとつては、客觀一般が存在しないやうに、如何なる汝もまた存在しない*。」我と汝との統一として人間の現實性は初めて成立する。人間はひとつの綜合的概念である。「私はただ主觀―客觀(Subjekt-Objekt)として在り、思惟し、否、感覺する**。」然しながらこのとき、主客の綜合、若くは統一(Einheit)と謂ふのは、兩者の同一(Identitt)と直接には等しくないのである。ロマンティクの所謂同一哲學諸體系(Identittssysteme)は主觀と客觀との絶對的な同一性を主張した。これに反して、我々にとつては我と汝、主觀と客觀はどこまでも互に相異る他の存在である、――若しさうでないならば相互の間の實踐的交渉は不可能であるであらう、――そして恰もその理由によつて人間は、社會的存在として、主客の綜合である。私は、私の存在の現實性の最初にして最後の根據から、本質的に私を私以外の他の存在に關係させる存在であり、この關係なくしては在り得ない。このやうにして各の人間の存在が主觀・客觀であり、そしてその意味に於て獨立的であるならば、そこにはもはや、あらゆる客觀を生産するものとしての、若くは支持するものとしての觀念的な絶對自我、または純粹意識は、何處にも存在すべき餘地を見出し得ないであらう。社會的生産はあらゆる種類の絶對的觀念論を不可能にする。

* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus etc., , 214.** Ebd., 215.

Chapter 5 of 14
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