Chapter 1 of 6

1

雑沓

宮本百合子

玄関の大きい硝子戸は自働ベルの音を高く植込みのあたりに響かせながらあいた。けれども、人の出て来る気配がしない。

宏子は、古風な沓脱石の上に立って、茶っぽい靴の踵のところを右と左とすり合わすようにして揃えてぬぎ、外套にベレーもかぶったまま、ドンドンかまわず薄暗い奥の方へ行った。

電話のある板の間と、座敷の畳廊下とを区切るドアをあけたら、

「じゃあ、それもそっちの分だね」

と女中に何か云っている母親の声がした。行って見ると、瑛子は南に向った八畳いっぱいに鬱金だの、唐草だのの風呂敷づつみをとりひろげた中に坐りこんでいる。しかも、もう永いことそうやっていた模様である。

「たいへんなのね。あんまり森閑としてるからお留守なのかと思っちゃった」

片手で頭からベレーをぬぎながら、宏子はナフタリンのきつい匂いと古い下着類の散らかされている縁側よりのところへ坐った。

「いいえね、お父様のラクダの襯衣がどうしても見えないんで、さがすついでに少し整理しようと思ってさ」

瑛子は、お召の膝の上にのせてしばりかけていた一つの包みを、じゃあ、これにも達夫様古下着と紙をつけてね、と云って女中に渡した。

「お嬢さんもかえって来たし、きょうはこのくらいにしとこうよ。包みは一応戸棚へでも入れておくんだね」

開けた障子のところへ楽な姿勢で、よっかかり、その様子を眺めていた宏子の活々して、感受性の鋭さのあらわれている眼の中に、あったかい、だが極めて揶揄的な光が輝いた。彼女は、柔かい髪をさっぱりと苅りあげている首を、スウェータアの中でわざと大きく合点、合点させながら云った。

「そう、そう。そして、十日もたったら、又同じ包みをもち出して、ひろげて、日に当てて、あっちのものをこっちへ入れて、しばって戸棚へつんでおきなさい。包みは減りっこないし、きりもないし、大変いい」

「早速そうだ!」

「だってさ」

「もう、いいったら!」

瑛子も、その図星に思わず自分からにやにやしながら、若やいだ顔つきをして娘を睨んだ。流行からはずれているにかかわらず、瑛子はたっぷり前髪をふくらがした束髪に結っているのであったが、その結いかたは、特別な派手な似合わしさで彼女の面長に豊富な顔立ちを引立てている。くつろいで機嫌よくしている母を、宏子は美しいと思って心持よく眺めた。大抵毎週土曜から日曜にかけて、宏子は語学専門の塾の寄宿から、うちへ帰って来た。そういう生活になってから、自分が生れて育った家の生活というものが、だんだんその輪廓を浮立たせて宏子に映るようになりはじめた。日によって母が濃やかに美しく、日によっては、午後になって来て見ても肌襦袢の襟の見える寝間着の上に羽織を着たような姿でいることがある。それも、親たちの生活の一つの波として、宏子にまざまざと感じられるのであった。

「――じゃ、食堂へお茶の仕度をしてね」

瑛子について食堂のドアをあけるとき、宏子はうしろから軽く母親を抱くようにした。

「きょうは、母様綺麗だわ」

「おやおや、それはどうもありがとう」

食堂は北向きで、三分の二ぐらいまでの高さには凍った水のような模様の入ったガラス窓が閉められていた。上の、透どおしのところから、宏子が外套の上から照らされながら静かな屋敷町の通りを歩いて来た、十月の青空が見えている。隣の庭の銀杏の梢もすこし見えた。宏子は、

「すこしあけようじゃないの」

と窓へ手をかけた。

「却って外の方が暖いくらいよ、今日は――」

「私は御免だよ」

中央に大きいテーブルがあり、瑛子はその一番奥の端を自分の場所ときめている。宏子は、その右手にある父の座布団の上に坐った。

紅茶を半分も飲んだ頃、これで一息落付いたという風で、瑛子は、

「どうだったの?」

改めて娘の顔を見た。

「別に変りはなかったんだろう?」

そして、ベージュ色に細い赤線をあしらった地味なスウェータアに包まれている宏子の胸のあたりを眺めまわした。

変に幅のひろいような、ねばっこいようになったその視線を散らそうとするように宏子は覚えず身じろぎした。

「私の方は相変らずだわ。こっちはどう? 順ちゃんは?」

「ああ、あの人は相変らずでね」

二重瞼の切れ長な瑛子の眼ざしは再び変化した。東京高等の学生である次男の噂をする時にだけ現れる熱心な、愛着の色が燦いた。

「本当に、純真な人だ。――この頃はドイツ語の勉強で、よくやっているよ。夕飯にはかえるはずだけれど……」

「達ちゃん手紙よこして?」

「ああこないだ順二郎のところへハガキをよこしたようだよ、仙台辺はもう大分朝晩さむいらしいよ」

欠伸にならない欠伸を歯の奥でかみころしながらのような声の調子で、瑛子は、

「あのひとは、何ていうんだか、熱がないっていうものか、何しろ電気一点張りなんだから」

と、長男のことを云った。

鶴見の総持寺に在る墓地には、加賀山の四人の子供が祖父母の墓のよこに並んで埋められていた。その小さい墓碑の一つ一つの裏に瑛子は自分で和歌を書いて刻らせているのであった。

「何しろ、母様はこわい人だからね。おとなしければ、じりじりなさる人だし、余り熱があればあったでぶつかるんだし……わかっていらっしゃる? 自分で――」

「――どうも、そうらしいね」

瑛子は、濃い睫毛をしばたたき、年に合わせて驚くほど肌理の艶やかな血色のよい頬に微かな満足気な亢奮を泛べた。

実の母娘の間にある独特な遠慮のない自然さ。それと絡みあって親密な一面があるだけに却って消えることのなく意識される二人の気質の異いから来る一種のぎごちなさ、間隔の感じは、夕方、父親の泰造が帰宅してやっとしんから自由な、団欒の空気の中に解きはなされた。玄関の方で耳なれた警笛が鳴ったのをききつけると、宏子は、

「そら、ダッちゃんのお帰りだ!」

短いソックスで畳の上をすべるような勢でかけ出した。もう、沓脱ぎ石へ片足をかけて靴の紐をといていた泰造は、紺の襞の深いスカートをふくらませたままそこへ膝をついた宏子を見ると、

「ヤア、来たね」

茶色のソフトをぬいで娘に手渡した。

「どうしたね」

「父様は? お忙しい?」

「泊ってくんだろう?」

「ええ」

「どうだ、何か御馳走が出来ましたか」

瑛子は、食堂のテーブルのところへ坐ったままで、娘の肩へ手をかけながら現れた良人に、おかえんなさい、と云った。瑛子は、永年の習慣で、朝は何かのはずみで送り出すことはあっても、帰って来た時玄関まで行って良人を出迎えるということは殆どしないのであった。

着換えの手つだいはこまこまと宏子が父親のまわりをまわってした。洗面所へもくっついて行った。泰造は、いかにも精力的に水しぶきをあげて顔を洗う。宏子は、側にタオルをもって立ちながら、

「あひるの行水ね」

と笑った。宏子は、父の洗顔がすむと、もう髭にも大分白いものの見える父親の顔がブラシの動きと一緒に映っている鏡の横から自分の喜々とした顔をのぞかせ、宏子はそこにある台から母の白粉をとってつけた。

食卓についても、順二郎が帰らなかった。

「どうだね、そろそろはじめちゃ」

「そうしましょう。じゃ、お給仕をして」

瑛子は、

「順二郎さんの分をさめないようにね、おかえりんなったらあっためてお上げ」

と、念を押した。

順二郎は、夕飯が七分通り終りかけた頃、制服姿で現れた。

「おそかったねえ、おなかがすいただろう。小枝や、さっきのをすぐあつくして」

中学校が古風なフランス人の経営で、生徒に運動をさせなかった、その故もあるのか、順二郎の背の高い体は、どっちかというとぼってりした肉付であった。鼻の下に柔かいぼんやり黒い陰翳がある丸顔には、青年らしいものと少年ぽいものと混りあってのこっている。特に、姉の宏子と同じように父親似で、くっきり山形のついた上唇の線は、彼の顔にあっても印象的な部分をなしているのであったが、その唇のところに彼の子供らしさは主としてのこっているのであった。

実際の内容はちっとも知っていないが、世馴れた概念で大まかにつかんだものの云いかたでドイツ語の進み工合を訊く父親の言葉、一品の皿も自分の愛情で味を濃くしてすすめるような母親の素振りを、順二郎は格別うるさそうにもせず、

「そう?」

「いや僕いらないよ」

などと、ゆったり、いかにも素直に受けこたえしている。

姉弟の間だけで話が弾みはじめた。

「ドイツ語って、やっぱり田沢さんとこへ行ってるの?」

順二郎が高校を受験するとき、準備して貰った独逸哲学出身の人のことであった。

「ちがう。田沢さんが紹介してくれたドイツ人、カフマンての」

「この頃でも田沢さんに会う?」

「うむ、ちょいちょい」

「やっぱり蒼くって、深刻そうにしている?」

ふ、ふ、ふと、悪戯そうに笑う宏子につれて順二郎も、ふっくりした顔を笑いにほころばした、ただ声だけは出さないで。

親たち夫婦の間には、また別箇な話題がすすんでおり、宏子は三井とか某々さんがとか、新聞でよむような人々の名を小耳に挾んだ。丁度姉弟の間で、ドイツ語の発音やエスペラントの話が盛になって来た時であった。築地の土地が、とさっきから没落した実家の処理について話していた母親の声が、急に、おこった調子で高まった。

「お忙しいのは分っていますがね、あなたって方は、いつだって、その場では安うけ合いをして、決して実行なさらないんだから。築地のことでは松平さんだって、どうなったかって、おききになるんですからね、放っちゃおけないんです」

「わかってるよ、だから明日にも勧銀へ行って調べて来よう」

「あした、あしたって。――大体あなたは、建築家のくせに、事務的でいらっしゃらない、私の体の工合がわるくさえなければ、何にもあなたのお世話はうけないんだけれども……」

気まずい思いがひろがって、宏子も順二郎も黙り込んだ。お盆をもってお給仕がそこに坐っている。宏子は気がついて、

「もういいわ」

と云った。瑛子の気質の激しさは、いつもこういう形で爆発するのであった。食事を終って、横の腰かけに移った泰造に、なおも言葉で追いすがるように瑛子が云った。

「あなたって方は卑怯ですよ」

「――大変なことになったもんだね」

それは、やっと怒鳴るのを我慢している苦々しげな笑いで云った。

「俺は、自分ぐらい模範的な良人はないと思ってるがね」

「そこが卑怯だって云うんです――あなたはひとが来ていると、いつもそうだ」

「ひとって――ひとなんか別にいやしないじゃないか」

「宏子だっているじゃありませんか」

父親と向い合うところに腰かけていた宏子は思わずその言葉に頭をあげた。そして、父を見た。

「自分の娘を、ひとっていう奴があるもんか。とにかく、あした勧銀へ行きますよ、そうすりゃ何も云うことはないだろう」

「あなたは、自分のかたをもつものがいるときは、いつもそうやってごまかそうとなさる。私はそういうところがいやなんです」

宏子は、少し蒼ざめた顔をして瑛子を見、云った。

「私はひとじゃなくて、ここの子だと思ってるんだから、どうか安心して、いくらでも喧嘩して頂戴。その方がよっぽどいいわ。私が味方するのは、私がその人の云うことは本当だと思うときだけよ。私だって母様の子だからね、喧嘩は大しておそれないの」

父親と並んで腰をかけ、腕組みしていた順二郎が、制服の膝をゆするようにしながら憂いのあらわれた訴える声で云った。

「どうしてみんなそう怒るのさ。ねえ、母様もおこるのやめて。僕、苦しくなっちまう」

上気して滑らかな瑛子の頬っぺたの上を燈火に光って涙がころがり落ちた。

「ほんとに考えて見れば人生なんて寂しいものだ。結局はひとりさ」

袂から畳んだ懐紙をとり出し、瑛子は涙に濡れた眼をかわるがわるゆっくりと抑えた。天井からさす燈火の工合で、瑛子の手が動くたびに、右の中指から大きいダイヤモンドの、厚みのある、重い、焔のような紫っぽい閃きが発した。

Chapter 1 of 6