Chapter 1 of 10

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偸盗

芥川龍之介

「おばば、猪熊のおばば。」

朱雀綾小路の辻で、じみな紺の水干に揉烏帽子をかけた、二十ばかりの、醜い、片目の侍が、平骨の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――

むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳が一本、このごろはやる疫病にでもかかったかと思う姿で、形ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂ぎった腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。

「おばば。」

「……」

老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。垢じみた檜皮色の帷子に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻の切れた藁草履をひきずりながら、長い蛙股の杖をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇の顔を思わせる、卑しげな女である。

「おや、太郎さんか。」

日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。

「何か用でもおありか。」

「いや、別に用じゃない。」

片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。

「ただ、沙金がこのごろは、どこにいるかと思ってな。」

「用のあるは、いつも娘ばかりさね。鳶が鷹を生んだおかげには。」

猪熊のばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。

「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」

「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは羅生門、刻限は亥の上刻――みんな昔から、きまっているとおりさ。」

老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、

「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」

これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙の扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。

「じゃ沙金はまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」

「なに、やっぱり販婦か何かになって、行ったらしいよ。」

「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」

「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」

老婆は、鼻の先で笑いながら、杖を上げて、道ばたの蛇の死骸を突っついた。いつのまにかたかっていた青蝿が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。

「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」

「わかっているわな。」

相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。

「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと刃物三昧だわね。」

「そりゃもう一年前の事だ。」

「何年前でも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」

こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。

「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、藤判官だ、手くばりはもうついたのか。」

太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが然と、暗くなった。その中に、ただ、蛇の死骸だけが、前よりもいっそう腹の脂を、ぎらつかせているのが見える。

「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」

「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの人数は?」

「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。阿濃は、あのからだだから、朱雀門に待っていて、もらう事にしようよ。」

「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」

太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――猪熊のばばも、腰をそらせて、ひとしきり東鴉のような笑い声を立てた。

「あの阿呆をね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、阿濃は次郎さんに、執心だったが、まさかあの人でもなかろうよ。」

「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」

「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ沙汰をするのも、わたし一人という始末さ。真木島の十郎、関山の平六、高市の多襄丸と、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれ未になる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」

蛙股の杖は、こういうことばと共に動いた。

「が、沙金は?」

この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。

「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの家で、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、家にいなかったがね。」

片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、

「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」

「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」

猪熊のばばは、口達者に答えながら、杖をひいて、歩きだした。綾小路を東へ、猿のような帷子姿が、藁草履の尻にほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。――それを見送った侍は、汗のにじんだ額に、険しい色を動かしながら、もう一度、柳の根につばを吐くと、それからおもむろに、くびすをめぐらした。

二人の別れたあとには、例の蛇の死骸にたかった青蝿が、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つかと思うと、止まっている。……

猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――

通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ台盤所の婢女をしていたころの事を思えば、――いや、思いがけない身分ちがいの男に、いどまれて、とうとう沙金を生んだころの事を思えば、今の都は、名ばかりで、そのころのおもかげはほとんどない。昔は、牛車の行きかいのしげかった道も、今はいたずらにあざみの花が、さびしく日だまりに、咲いているばかり、倒れかかった板垣の中には、無花果が青い実をつけて、人を恐れない鴉の群れは、昼も水のない池につどっている。そうして、自分もいつか、髪が白みしわがよって、ついには腰のまがるような、老いの身になってしまった。都も昔の都でなければ、自分も昔の自分でない。

その上、貌も変われば、心も変わった。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当たりまえの事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。言わば京の大路小路に、雑草がはえたように、自分の心も、もうすさんだ事を、苦にしないほど、すさんでしまった。が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。……

猪熊のばばの心の中には、こういう考えが、漠然とながら、浮かんで来た。そのさびしい心もちに、つまされたのであろう、丸い目がやさしくなって、蟇のような顔の肉が、いつのまにか、ゆるんで来る。――と、また急に、老婆は、生き生きと、しわだらけの顔をにやつかせて、蛙股の杖のはこびを、前よりも急がせ始めた。

それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった築土があって、その中に、盛りをすぎた合歓の木が二三本、こけの色の日に焼けた瓦の上に、ほほけた、赤い花をたらしている。それを空に、枯れ竹の柱を四すみへ立てて、古むしろの壁を下げた、怪しげな小屋が一つ、しょんぼりとかけてある。――場所と言い、様子と言い、中には、こじきでも住んでいるらしい。

別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に黒鞘の太刀を横たえたのが、どういうわけか、しさいらしく、小屋の中をのぞいている。そのういういしい眉のあたりから、まだ子供らしさのぬけない頬のやつれが、一目で老婆に、そのたれという事を知らせてくれた。

「何をしているのだえ。次郎さん。」

猪熊のばばは、そのそばへ歩みよると、蛙股の杖を止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。

相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、蟇の面の、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。

小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十格好の小柄な女が、石を枕にして、横になっている。それも、肌をおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の汗衫一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、血膿にまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、天日のさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐った杏のような、どす黒い斑があって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。

枕もとには、縁の欠けた土器がたった一つ(底に飯粒がへばりついているところを見ると、元は粥でも入れたものであろう。)捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つ六つ、泥だらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、合歓を一枝立てたのは、おおかた高坏へ添える色紙の、心葉をまねたものであろう。

それを見ると、気丈な猪熊のばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その刹那に、突然さっきの蛇の死骸を思い浮かべた。

「なんだえ。これは。疫病にかかっている人じゃないか。」

「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の家で、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」

次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。

「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」

「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい餌食を見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」

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